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第四十九話「幸せかどうかじゃない」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに

(読了目安時間 9分 4143字)
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 私がユヅルさんの髪の毛から手を離したとき、てっきり何か反撃をされるかと思っていましたが、彼は意外にも冷静に「トモちゃん、取り敢えず何か拭くもの頂戴」と言ってきました。

 しかし、室内を見渡しても、ダブルベッド、ソファー、テーブル二台、棚、過激プレイ用の道具くらいしかなく、まさか今、ドアの前に立って宇宙人を見るような目で私を見て言葉を失っている美雨ちゃんや、その横で明らかにめんどくさそうな顔をしている柏木さんに「ハンカチを貸してください」などと言えるはずもなく、私はやむを得ず、枕からカバーを外して、それをユヅルさんに手渡しました。

「トモちゃん、座ったら」
「嫌です。座りません」
「俺がソファーに座っているのに、見下して話すんだ?」
「だから、うるせえよ」

 ユヅルさんは、枕カバーで顔と髪を拭きながら小さく舌打ちをしました。

「ユヅルさん、髪は女の命って私も知らなかったんです。サリーさんが教えてくれたんですよ」
「ふーん。だから?」
「あなた一体、サリーさんの何を見てきたの?」
「……」
「何も見ていないのか、敢えて見ないようにしてきたのか知りませんが、彼女は雑談をしながらでも短時間で私の爪に新しい世界を創った。でももう、その世界が創られることはない」
「あっそう。それで?」
「あなた、大学出たあと大学院に行く予定だったのでしょう? でも彼女は、お母さんが男と家を出ていって、通いたいと思っていた学校に通えなかった人です。彼女はあなたとはベースが違う。もちろん、両親から十分に用意してもらったのに何もやらなかった私とも、全然違う」
「あのなあ、俺は自分で努力して受験も学費の問題も乗り越えてきたんだ」
「ユヅルさんは、努力ってどうやって覚えました?」
「は?」

 改めて自分の爪を見ると、伸びっぱなしで、且つ、ところどころデコボコしていました。自分というのは、細部に現れるものなのかもしれない。

「ユヅルさん、私ね、あなたみたいに何をやっても出来てしまう優秀な弟がいるんです。身近にいる人は何でも出来て、でも自分は何一つ出来ない、そんな環境下でずっと暮らしてきたんです。だけど私は、チャレンジする機会は何回も与えられてきました。それに、弟が近くでいつも努力をしていたから、いくらでも弟から学べたはずなんです。努力の仕方を」
「努力の、仕方……?」
「そう。でも、サリーさんは、もしかしたら周りにそういう努力の仕方……と言うと分かりにくいかもしれませんね。つまり私が伝えたいのは、努力の具体的なやり方ではなく、そして学歴がどうこうという話でもなく、彼女には“時間がかかっても何かを成し遂げる、そのための気持ちの面でのロールモデル”が近くにいなかったのかもしれないって。今になって、そう思うんです。その上で、色んな事情で諦めなきゃいけないことが幼い頃から続いていたとしたら、その環境下で努力するためのメンタルって、自分一人の力だけでどうやって覚えられるんだろうって。そう思うのは、私が甘いからですか?」
「さあな……」
「逃げるなよ。本当は、サリーさんをその場だけの“点”ではなく、“線”として見ようとしたんでしょう? 自分の目の前にある彼女のこの姿は、その“線”から繋がってきているものだと」

 私がそう言うと、ユヅルさんは、そのまま口を閉ざしました。

「周りの人が当たり前に持っているものを、自分は持っていない。そんな環境の中でも、サリーさんは自分なりに前を向こうとしていたんじゃないかと思うんです。だけど私は、十分に与えられてきたはずなのに、もっともっとって欲しがった。そして自分の弱さから逃げてきた。だから強くて優秀なあなたに簡単に喰われた」
「トモちゃん、俺は――」
「おい、まだ聞いとけよ多才野郎!!」

 ああ、今、背後から美雨ちゃんの声で「ト、トモさん?」って聞こえた。イメージぶち壊してごめんなさい。でも、情緒だろうが、イメージだろうが、色々と不安定なのが私なのです。

「私はずっと、どこにも居場所を感じられなくて、とにかく誰かに見つけてもらいたかった! でも、傷ついたり失うのが怖くて、自分からは動けなくて、だから本当は自分が悪いんだけど、全部自分のせいだって認める勇気がなかった! お前みたいに強くないんだよ、この多才野郎!!」
「なあ、さっきからその『多才野郎』って俺のこと?」
「お前しかいないだろ!? けどなあ、ここでいくら私がお前に吠えてたって、何も変わらない。だって世界は、喰ったほうが正義だから。ここではあなたが正義だから。だから出ていく!!」
「はあ? 正義? 急に何を言い出すんだよ?」

 本当に急に何を言っているんだろう。
 ここで一度、深呼吸。

「欲しがれば欲しがるほど、だんだん弱くなっていった。だから、もう外では生きられないと思っていたけど、私は今日でここを卒業する。もう仕事も辞めたし、本心ではここを出るのがとてつもなく怖い。だけど、欲しがって弱くなるのなら、捨てるしかないから。それに、自分が思っているよりも、外は明るいかもしれない。まずは飾ろうとしないで、カッコ悪い状態のまま、ただ必死に生きることから始めてみる。ユヅルさん、今までありがとう」

 ユヅルさんが珍しく口も閉じられないくらいの驚愕の表情で、声を失っている。今のうちにここを出よう。

「美雨ちゃん、帰りましょう」
 美雨ちゃんに声を掛けると、さっきまで新種の生物を見るような目で私を見ていた彼女が、やっと笑ってくれました。

 柏木さんが、ユヅルさんのほうに静かに歩いて行き、開いたままソファーテーブルに置きっぱなしになっていたトランクバスケットの中の現金を見て、
「ウチの御令嬢が夜分にすまなかったな。もう少し上乗せさせればよかった」
と言いましたが、ユヅルさんは柏木さんとは目を合わせず、俯きます。

「爺さん、恋の相談ならお嬢様にしろよ。金輪際、俺に聞くな」
「何だ、ユヅル君。多才な君でも恋は苦手なのか?」
「うるせえよ。俺は聡明じゃない」
「そうか。それで、どこでどうやって付け込まれてきたかは知らんが、お前さん、ずっと自分から逃げ続けてきて幸せだったか?」
「……」
「聞いてはいけなかったな。失礼した」
「幸せかどうかじゃない。ただ、信じたかったんだ。大切な人を失った悲しみから救ってくれたのは、あの人だけだったから」

 ユヅルさんと柏木さんの会話の途中で、美雨ちゃんが「もう!! 柏木、行くわよ!!」としびれを切らしたように言い、柏木さんが私達のほうに戻ってきたので、私は部屋を出ようとドアノブに手をかけました。

「……トモちゃん……だけの……表現を……」


「ええ? ユヅルさん、何か言いました?」
「柏木! もうトモさんを連れていきなさい!!」
「えっ! あっ! あああ!!」

 小声で何かを呟いたユヅルさんに聞き返そうと振り向いた瞬間、美雨ちゃんが叫び、何が何だか分からないうちに私は柏木さんにお姫様抱っこをされ、ドアの外に連れていかれました。
 美雨ちゃんは、部屋を出るときユヅルさんに向かって、「バーカバーカ。おととい来やがれだわ。ウンコウンコ!」と言い、それを見た柏木さんは大きな溜め息をつきます。

 玄関のドアは破壊されて完全に外れた状態で、若い男性が二人で協力してドアを持っていました。そして玄関付近にいた複数の若い男性達に向かって、柏木さんが
「待たせて申し訳ない。これにて撤収します。玄関にある女性用の靴と諸々の荷物、コートを誰か持ってきてください」
と言い、私は靴を履かずに柏木さんに抱きかかえられたままユヅルさんの部屋を出ることに。は、恥ずかしい……。

 ユヅルさんが追いかけてくることはなく、私達はエレベーターに乗り、一階まで降りましたが、時刻はもうすぐ深夜二時になりそうなところで、途中出会った住人さんは一人だけでした。柏木さんはその住人さんに向かって、にこやかに「どうもDIY同好会のものですぅ~」と言いました。


*****


 マンションの外に出ると、雨は既に上がっており、美雨ちゃんは柏木さんとは別のお世話係らしき若い女性が運転する車に乗せられて、どこかに行ってしまいました。

「美雨様にはあの者が運転する車で移動していただきます。牛乳の件で、お召し替えも必要になりましたので」

 柏木さんは、美雨ちゃんの姿が見えなくなると、さっきまでユヅルさんの部屋で待機していた若い男性達のうち一人から私の靴を受け取り、私がその靴を履けるようにゆっくりと抱きかかえていた私を降ろし、そのあと別の男性から私の荷物とコートを受け取りました。そして、若い男性達に向かい、
「お疲れ様~。今日はウチのお嬢様の演技練習に付き合ってくれてありがとう。女優志望なだけあって綺麗だったでしょ? じゃあ、もう解散でいいからね~」
と極めて明るい口調で話し、男性達が全員見えなくなるまで、にこやかに振舞っていました。


「え? 柏木さん、どういうことでしょう……?」
「今は色々と一日単位でレンタル出来るんですよ。家族ですらも」
「レンタル?」
「旦那様ならともかく、美雨様の突っ走り行動ために護衛を連れてくるとなると、話を通すのに色々と骨が折れそうでしてね。それでも美雨様が『最初は数で強そうに見せないとダメ』なんて言って聞かないものですから、私が部下に頼んであのレンタル護衛を手配させました。ですから今回、美雨様とともに海外から来たのは私と、ほか二名だけです。ちなみにユヅル君に現金を渡すというのも美雨様の案でして……」

 柏木さんはまた、「はあ~」と溜め息をつき、「トモさんは私と一緒に移動しましょう」と言い、そのあと私はユヅルさんのマンションから十分ほど歩いた場所に停めてあった一台の車まで案内されました。

「えっ? 行くってどこに行くのですか?」
「旦那様のお知り合いの方が経営されているホテルに数室、押さえてあります。取り敢えず今夜はそちらでお休みください」


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