第五十七話「和音」/ 長編:立入禁止区域を、あなたに
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小鳥が眠りについた公園から出ると、私のスマホから着信音が鳴り出しました。バッグからスマホを取り出し、画面を見ると『荒島禅』と表示されています。また弟? もしかして私、また何かやらかした?
内心不安になりながらも、電話に出ます。
「も……。もしもし……」
「あ、姉ちゃん? 今大丈夫?」
「う、うん……」
「あのさあ、父さんと母さんが久しぶりに家族旅行に行きたいとか言い出してさ。姉ちゃん、どっか行きたいとこある?」
「――え?」
「いや、だから、旅行の行き先。どっか希望ある?」
「え……? ねえ、それ……私も参加していいの?」
「何言ってんだよ? 家族旅行って言ったじゃん」
「家族……」
まったく予想していなかった展開に、私は声が出なくなってしまいました。旅行だって?
「もしもし? 姉ちゃん? おーい」
「あ……。ごめん、ちょっといきなりだったから……」
「まあ、そうだよな。そしたら、メッセージでもいいから、あとで希望伝えて。じゃあな」
「うん。……あっ! ちょ、ちょっと!」
「何だよ?」
「……。ねえ、禅は頭いいから分かるかな?」
「は? 何が?」
「……」
「何だよ、姉ちゃん」
「えっと……。あのさ、もし、世の中喰うか喰われるかしかないというのなら、どうして人間には心があるのだと思う?」
「はあ!?」
「いや、ごめん! 何でもない!」
「……。知らない。けど、全部じゃねえの? そのどっちかじゃなくて」
「え? 全部?」
「喰う側面も喰われる側面も、そして、その“あいだ”も全部持ってる、と俺は思う。心があるなら常に0か100ではないだろ。って、あああ!! 水飲みながら話してたらグラス落としたわ!! じゃあな!!」
弟は慌てふためきながら電話を切りました。そっか、お水飲んでたらグラスを落としたか……。今度帰省するときは、大根をお土産に買って帰ろうかな。
スマホをバッグにしまい、そのまま公園の前の通りを歩き続けます。途中、本屋さんがあったので、そこに入りました。
「あ、これ……」
本屋さんで偶然、私が飼われていた部屋に置いてあった本と同じものを見つけました。ハードカバーで厚さ一・五センチくらいの私にも比較的読みやすかった本。結構ボロボロになっていたから、彼のお気に入りだったのかな。
私はその本を手に取り、パラパラと捲ってみました。そうそう、この本の内容は、わりと易しかったから私にも理解出来た……
本を閉じました。
「いや、過信だ。分かった気になっているだけかもしれない」
ふと視線を移すと、斜め左方向に文房具のコーナーがあり、そこに折り紙が置いてあるのが見えます。
私は、手に持っていた本と折り紙を買い、本屋さんを出ました。
「そうだ。私の<好き>を見に行こう」
急に工場を見に行きたくなった私は、本屋さんを出た足で電車に乗り、最初に行った工場夜景の穴場スポットまで向かいました。
*****
穴場スポットがある港に着くと、そこには変わらずに私の好きな景色がありました。飾られていないその中に命があって、夜には暗闇でしか見られない美しさを創り上げる。
「私はこれを、表現したい……!!」
私には、カッコいいものなど創れない。でも、それでいい。きっとそれぞれに役割があって、カッコいいものはカッコいい人に、高尚なものは高尚な人に任せればいいのだ。
私はただ、背伸びしないで感じたままに表現したい。
ピコンッとスマホが鳴り、画面を見ると禅からメッセージが届いています。
【旅行先、何か温泉に決まりそうになってる。希望があるなら早く言ったほうがいいよ】
「ええっ!? うそっ!? もう決まりそうなの?」
私は急いで返信しました。
【綺麗な雪が降る景色の中で、裸のまま露天風呂に入りたい】
私の返信メッセージはすぐに既読になり、禅からは一言、【は?】と返ってきました。
ああ……。メッセージを送ってから気付いた。温泉はそりゃ、裸で入るよなあ。私は一体何を言っているのだろう。
「何言ってんの?」
思わず自分で自分にツッコミを入れてしまいます。だけど、こういうところも“私”なのだ。それを受け入れよう。自分に似合う生き方を。
きっと私には、花よりも草が似合う。高い空に輝く星よりも、還る場所となる土が似合う。どっちが良いか悪いかじゃない。そこが、合っているのだ。
「喰うと喰われるのあいだ……か」
そして、きっとほかの人にも“合う場所”があって、それは私の場所とまったく同じではない。私は、ほかの人のその場所には無闇に入ることはせずに、お互いに隣り合ったまま共存したい。人間は完璧ではないことがデフォルトなら、そんなことは絵空事に過ぎないと言われても仕方ないのだろうけど、その意識だけは持っていたい。
他人は自分と同じじゃない。だから、自分を卑下しなくてもいい。同じになることを目指さなくてもいい。そして逆に、私のほうも他人を自分のコピーにしようとはしない。
誰しも一人では生きられないのならば、私は、関わる人とは平行線で和音を奏でたい。それぞれが真っ直ぐに降り注ぐ、穏やかで、美しい雨のように。
それは、傷つくことを恐れて他人に線を引き、単独で音を鳴らすのとはまったく異なると思うから。お互いがお互いの音をブレさせることなく、協和出来ればいい。
「やっぱり好きだよ、工場……。待ってろよ。創るぞ。創るからな」
私は今から、自分の中に大切な場所を創る。思えばいつも、喰うか喰われるか、0か100かのような両極端に試されてきた。それでいつも不安になって、他人に正解を求めてきた。そして不安から逃げられる一時的な快楽にも流され、それを与えてくれる他人に依存した。
自己の根が無かった私の内部は、どんな人間でも入り込めるようになっていた。
だから、今の私には、その場所の構築が必要なのだ。
その場所は、誰にでも簡単に土足で入らせてはいけない。ブレさせてはいけない。付け込ませてはいけない。自分がそれと同じことを他人にしないためにも。
その場所は自分、そして、本当に大切な人にだけ見せる場所。そこを確立させるのだ。
「さっき折り紙を買ってきたから、アパートに帰ったらゆっくり鶴を折るね。……ねえ、待ってて。私、絶対にその場所を確立させるから。そして、出来上がった私の大切な立入禁止区域を、あなたにきっと見せるから」
さあ、もう帰ろう。再出発の場所に。日常に。言葉だけで実行しないのは、もう私の趣味じゃないのだ。
*****
穴場スポットから移動し、元々私が住んでいた六畳アパートが近づいてきたあたりでスマホを見ると、もうすぐ夜の九時になるところです。
あーあ。郵便物溜まってそうだなあ。そのことで、ほかの住人さんから管理人さんに変な風に連絡されてないかなあ。「もしかしたら孤独死してるんじゃない?」とか。ああ……。
「セーフ。何にもないや」
私の心配は取り越し苦労だったようで、古びたアパートに着き、集合ポストの私の場所を確認すると、そこには広告しか入っていませんでした。
一階の集合玄関から二階の私の部屋に向かう前に一度、深呼吸をします。不思議なことに冷たい空気が体の中に入ってくると、とても落ち着いた気分になってきました。
私はまた、ここから再出発になる。もう空太と空子もいない。本当に一人での再出発。でも、もう独りではない。
だから、きっと大丈夫。それに、私には頭も心も、何度でも立ち上がるための足もあるのだから。
「げっ! そういやウチの冷蔵庫、何にも無いんだった」
私は自宅の冷蔵庫に何も入っていないことを思い出し、一度集合玄関から出て、近くのコンビニに向かうために、アパートの裏通りに出ました。
この道、暗いし、誰も通らないからちょっと怖いんだけど、コンビニまでは一番近い……
「可愛い可愛い友ちゃん、待ってたよ」
え?
“可愛い可愛い”って――? 待ってたって? え? どういうこと?
「友ちゃん、逃げられると思った?」
「い、いやだ! ねえ、どうして!? そんなこと、やめて――」
ねえ、嘘でしょ? 誰か嘘って言って。何で? どうして? 何故こんなことに?
今から仕事も探して、生活習慣だって見直して、ちゃんと地に足つけて再出発するはずだったのに。それに、やっと自分の<好き>と向き合えたのに。やっと自分の弱さと向き合えたのに。
あなたにこんなことされたら、たとえ足があっても、もう立ち上がれない。
「もう逃げられないよ、友ちゃん」
「いやだ! 離して!!」
確かに、生きていればいつかは死ぬのだろうけど。
でも、まさか、本当にこんな――
「友ちゃん、やっぱり可愛いね」
「――――!!」
こんなことなら、もっと前から真剣に生きておけばよかった、なんて今さら嘆いても遅い。
痛い、痛い、痛い!
痛い!!!
十一月十一日。私は、刺されました。
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とても嬉しいです。ありがとうございます!!