弱者について考える

今回は、今後の考察を深めるキーワードとなる「弱者」について考える。

まず、私が想定する「弱者」とは
子供、障害者、人種、性別、LGBTQ、高齢者、貧困者、労働者、社会的マイノリティ思想者
である。
これらは複数のエレメントによって構成されており、
①先天性と後天性
②身体性・経済性・文化性のカテゴリー
③喪失内容(生命、アイデンティティ、社会的存在、機会)
この3つにより表出すると考えた。

例えば、

「子供」は①生まれた時点で②身体的に未発達なこと、保護者の経済状況により、③生命、機会に対する「弱者」である。
「障害者」は①先天性、後天性共に②身体的制限を持つことで③生命、アイデンティティ、社会的な存在意義を脅かされる「弱者」である。
「労働者」は①出自と生育環境という先天性・後天性両方の要因により②自らの選択を構成する身体、経済、文化の様々な要因が重なることで③ほぼ全ての喪失内容を抱えることとなる。

 さて、この場合の「労働者」を「弱者」として捉えることはかなり広義での意味を含むわけだが、これは社会的弱者=マイノリティではなく、人類の大半が「弱者」でありうる可能性を仮定することができるのではないだろうか。「弱者」と「強者」の分別を「喪失」に置いた時、それまでのカテゴリーでプラス要因を引いていたとしても最終的に「喪失」することも考えられるからだ。つまり、この場合、弱者と強者は「喪失」において同等と言える。もちろん「強者」の中には喪失を伴わないものもいると考えられるが、弱者と強者の可能性が同等となると仮定できれば、倫理としての平等を体現化することも可能ではないだろうか。

また、これらの差異の溶解は「弱者」に対する幸せの価値創出を行うことが一部への価値還元ではなく、相互に価値を共有することになり、相互のウェルビーイングにつながると考えることができるのではないだろうか。

ここで興味深い問いも考えられた。
1.そもそも「強者」とはなんのか
⇨資本主義のピラミッドの頂点?政治的発信力を持つもの?
2.後天的要因によって「弱者」となるものには「強者」となる手段があったのか、「弱者」と「強者」の分岐点がどこにあるのだろうか。
⇨これがあったことの証明が「喪失」カテゴリーの同等にもつながる?
3.「弱者」救済に対し、人々が疑問と優越感を抱かないシステムの必要性、またそれを抱かせている要因とは。
⇨医療保険制度、介護保険制度、生活保護法、ボランティアなど

今後はこれらの点を踏まえ、考察を進めたいと思う。
「弱者と強者」という対立言語に構築された世界は「幸せ」の享受が難しいのではないかと考えている。私はこの言語を払拭させるような解決のプロセスをストリートアートが秘めていると信じている。一つ一つ解読して行くことにしたい。

追記 6/8 8:30

今回は「喪失」による同等化と考えたが、これは裏を返せば「幸せ」による同等化も可能ということになるのではないか。
だから「幸せ」の探求が必要なのだろう。

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