リニア化した人の権利への違和感

 新型コロナの発生から時間の経過とともに人権や生命の権利に関するニュースを目にするようになった。アメリカでは若者から新型コロナの要因は「Boomer」による環境破壊の末に生まれたものだとし、高齢者の高死亡率から新型コロナを「Boomer Remover(高齢者を除去する装置)」と呼ぶべきだという声があがり、ヨーロッパでは医療倫理ガイドライン(SAMW, Covid-19-Pandemie, 2020)に基づくトリアージとして、障害者、高齢者が少ない医療資源に対し、積極的治療要求を行わないことが望ましいと発表、憲法の権利に反すると議論を巻き起こした。
 これらの報道は人々にショックを与えると同時に、どこかでこの事態においては仕方がないと感じさせるものでもあったと思う。それと同時に、そのように感じる自分に嫌悪を抱いてしまった人も少なくないのではなだろうか。少なくとも私はそうだった。こういった考え方は資本主義思考と倫理と権利の間で常に論じられてきたことだが、仕方がないと考えてしまう思考こそ、資本主義の影響を強く受けている証拠であり、今瓦解さえ始まっているともいえるの西洋資本主義への思考なき、罪深き礼讃ともいえるのではないだろうか。
 これは医療におけるトリアージという手段を非難しているわけではなく、資本主義というリニアな思考でしか問題を捉えられなくなっている現代人に対する警鐘だ。物事(世界)は複雑であり、人種、経済、環境、支援などの全てが絡み合いノンリニアな状態を作っているのが社会であり、あるべき世界なのだと私は考える。
 この思考に至ったとき、「このノンリニアな象徴となり得るものこそストリートアートなのではないか。」と考えた。グラフィティ萌芽期の少年たちは自己を示す手段としてそれを用い、その象徴たちは異なった世界にも拡散・侵食を果たした。この拡散の成功は資本主義社会への反発ではなく、その世界を補完し、塗り替え、混在し、新たな市場と文化を形成した。この見事な共生は「ストリートアート」こそノンリニアが求められる社会において無限に広がる可能性の象徴となりうるということではないだろうか。

西洋思想の限界と東洋思想の再評価(?)。一度西田幾多郎を考察しなおそう。

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