雑談

 昔話
 なんか日が長くなったみたいだ。暑くなりそうな感じが強くなってきた時には特に強く感じられる。
 大学往昔の生活を振り返ってみて、実生活では長く話し合ったただ何人の中の日本人の一人である先生のことがまだよく覚えられている。その人はどうやら理科出身だったろう。正直、私にもよく分からない。ただネイティブの先生として日本語を教えがてら、周りのとこに遊びに行ったことが一つだけ確かめられたことだと思った。付き添いの人は私ではなかった。あまり旅行が好きではないタイプだったろう。もちろん、そんなことさえ付き添いの人が教えてくれたんだ。今は分からないが、せめて当時その人の日本語能力なら話し合えることはぜんぜん駄目だった。携帯の翻訳ソフトだけでは話し合えるようになる程度だった。今から考えれば、やはり外向的なタイプだった。その人はたしかに私には欠けていたものを持っていたと思っていた。
 さっきも言及していた。先生がどうやら理科出身だった。日本語のそのネイティブ先生が中国に来る前には、東南アジア諸国でも長い間日本語を教えてきたと日本語の先生に言われた覚えがあった。あの時には、教科書以外には日本語についてのいくつの難問に困って、たとえネットで探しても分からなかったほど難しい問題だった。
 先生は日本人なら、多分分かっていると考えて、聞いてみると困った顔をしてきた。内容はちゃんと覚えている。ないようにという言い方があれば、ぬはほぼないにイコールのならぬがないを換えても成立するようになれるだろう。その時の私にはまだ日本語の古語を勉強しなかった。N1くらいの文法が一部分分かっているしかなかった。ぬとないとはなんの関係があるか、ぬはないの古語体だけ知っている程度だけだった(本には書いてあるそれだけだ。)。それはいけないと言われた。たしか何分間も思い込んで教えてくれた答えだろう。それはなんと言うかいいか、今は、今はただもし私が先生であれば、いけると言ってどうしていけるかと聞かれたらどう答えるか本当にどうにもならなかったろう。本には書いてあることを復唱するか。
 日本語教師という職はしたことがある。中国ではの大学進学のテストでは英語が150点だ。
 今でも多くの人にはテストの英語は別の外国語にはかえることができることを知っていない。まあ、知ってもなんにもならないのは一般な状況だ。まず、中国の大多数の学校では英語だけを設けているし、英語もよくできなかったら別の外国語も大体同じだろうと思われても普通だが、その中ではバランスを壊したのは日本語だ。
 中国の教育局(日本の文部科学省に似てるところ)によって、大学進学のテストでは英語以外の外国語のテストの難易度を必ず英語より15%易しくしろと明文で書いている。日本語にはたくさんの漢字があって、たとえ日本語ができなくても良い点が取れそうだ。読解部分ならごもっともだ。ほかの部分は言いにくい。
 多分五年前くらいの日本語の難易度なら、たとえ何も分からない高校生でもただ二年間経って100~140の点が取れるようになる。それは英語では合格さえもできない高校生には大学進学のテストでは運命を逆転する剣(つるぎ)だ。私の立場から見れば成功率が65%を越えたはずだ。それは紛れもなく大博打だ。それは高校の教育界では昔の改革開放と見られても言い過ぎものではない恐ろしいものだと思う。
 なら、どんな難易度がそのルールには相応しいか、日本語が特にテストをする人を困らせていた問題だ。前のことだけではいいが、外国語として日本語を授けている制度を施している学校はほぼ沿海の地域或いは東北三省の一部分の学校(第二回世界戦争の満州国)だ。つまり、一部分の学校ではもともとほかの学校と同じに高1から、或いは初1から英語を教えはじめるんだ。そのような高校生には外国語授業には感じられるストレスが弱いらしいと言ってもいい。
 英語の代わりに日本語でもいいというメッセージがどう広がっていったことが知らないが、内陸地域の高校生には運命を変える大博打となるものだ。学校では日本語の授業は設けられていないが日本語を習いたがる高校生には大金がかかって塾に通うしかないことになる。その金は中国では少なくない家庭には決してやすやすと出せない大金だと思う。成功率は100%ではないし、また例のメッセージが広がっていくとともに日本語テストの難易度も年々高まっている。以上の変化にしたがって、新たな問題も浮かんできた。
 近年中日関係(日中関係)が悪化しつつあるにもかかわらず、五年前くらいの高校生には生まれた時期はまだ中日関係が穏やかになっていた時だった。その時はコンピューターやインターネットの普及率がそれほど高くなかった。テレビの少年チャンネルが視聴率を高めるためによく日本のアニメを放送した。ドラえもん、名探偵コナンが中国でも大人気になってきた時はあの時からこそだった。
 五年前のぐらいの高校生にはテレビから日本のアニメの影響を受けた末の世代みたいだ。
 中国の高校生がそれほど英語を嫌うのは国を愛するかどうかには関係があるという点は一応置いて、九年関にわたって英語をむりやりに習わされてもいい結果にならない人には納得がいかないとも簡単に理解できるだろう。テストのために英語を習わなければならない。英語があるので、英語を習わなければならない。
 それも中国の例の末の世代以降に日本語への態度変化だ。たとえ大博打だとしても、日本語に頼って点をあげればいい。こうしたら、英語化の日本語もう末路にも追われてきそうだと見てもいいのだろう。
 したがって、いろいろな変化に応じて日本語に関する教え方も変えざるを得ないことになる。昔は昔、今は今、もうだいぶ変わった。

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