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「ドライブ・マイ・カー」を見て。


原題:ドライブ・マイ・カー
英題:Drive My Car

監督:濱口竜介(2021)

あらすじ: 舞台俳優で演出家の家福(西島秀俊)は、脚本家の妻・音(霧島れいか)と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさき(三浦透子)と過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。(引用)

感想:車に乗る乗せることで人生という舞台が華やかになってく。

⚠︎超ダラダラ長いです、良作は文章まとめられん…。

自分の人生と人の人生が交じり合ってこその人生。拒絶したくなるときもあるけど、否応にも交じり合ってく。それは薄くも濃くも。

みさきが自分の車を運転することで強制的に交じり合うことになった家福。幸にも不幸にも転がるが、それは自分次第と意識の持っていき方。

…なんて、別にご立派な難しいことを言おうとしてるわけではなく。

自分の人生という舞台を車に置いてるのが面白いなあと。そして家福は舞台作家の舞台俳優。

後部座席で逃げようのない(ツードアだから物理的にも)高槻との目を逸らせられない会話。車に人乗せるって、相当な覚悟いるよなあ。密室空間なのだから。だからこそ乗せる人との元々の距離感を見誤ってはいけないとも思った。

高槻とのやりとりの後、家福はみさきのとなりの助手席に乗るシークエンス。物理的にも心理的にもみさきと距離が近くなり、唯一助けを求められる相手となる。

自分の舞台を置いていくわけにはいかない。だからこそ広島から北海道まで車という手段を選んだなかなあと。



音も、みさきの母親も、もう存在してないから想いを伝えられない。


ワタシが想いをぶつけたい相手は、存在してる。溜め込むんじゃなかった、生きてるなら、手遅れにならないうちに伝えるべきなのではないかと葛藤。内面はワガママ言いたい子供なのに表面は大人ぶって、棒読みのような言葉しか発せない自分がつくづく嫌になる。そんな思いが重なり、雪中のシーンでは号泣。

「死」というもので大事な人を失った人たち。その中でも韓国人夫婦の絶対的なコミュニケーションの伝わり方が心に残る。

音の車の運転だけは許せないという家福。高槻(後に社会的に抹殺される)のよく知りもしない相手を車に乗せ、他人の車にぶつけるという姿を見た家福。果たして、彼らはコミュニケーションを取れていたのか?

対して、みさきと母親はきっと車の運転ということでコミュニケーションを取れていたのだと思う。

サンルーフから煙草が並ぶシーン、これを監督は撮りたかったんだろな。

ワタシも車が好き。あれに乗りたいというこだわりではなく、「運転」という行為が好きだ。

(車好きにもいろんなタイプがあるけどそれ並べたらキリがないのでここでは割愛。)

さっき、車が自分の人生の舞台と例えたが。それのせいか、ワタシは自分の車に人を乗せるのが少し苦手。運転されるのはもっと苦手。自分の領域に土足で踏み入られる感覚に陥るからだ。

自分の中で心許せる人、大事な人しか乗せられない。

(あれ、車好きの人って、ちょっとメンドくさい?笑)

と、まあ!先述した通り、余韻を残す作品って文章まとめられない。劇場で見てから約1週間経ってもこの有様。それほどの映画ということですよ。

役者陣の文句のつけようのない演技。あえての棒読みのセリフ。人生という舞台なんだなあと。

三浦透子さんの不透明に見える透明感。素晴らしすぎる。

岡田将生も鬼のような魂を感じました。

そして、西嶋さんにしかできない家福役。語彙力が足りん!

ゴミ処理場の再生、その後の階段での高低差、複数回の犬との触れ合い、外での舞台稽古、船の中のテレビ、ワーニャ伯父さんの舞台の最後の手話、など。

取り出してもキリがないくらい一つも無駄のないシーン。

ワーニャ伯父さんの最後の手話。

それでも生きていく。人のために働く。

それでいいんだよな。自然に生きて、誰かしらと人生を交じらわせて、自然と死んでいく。

その間もずっと自分の舞台という車は走り続けるわけだし、いつか車から降りる瞬間が来るわけだし。

でも、その降りるタイミングを早めてはいけないんだね。とにかく走らせ続けなければ。

まだ足りない。走らせたい。色んな車に乗りたいし、いろんな人を車に乗せたい。



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