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「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を観て。

原題:Birdman or (Unexpected Virtue of Ignorance)
邦題:バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(2014年)

あらすじ: かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始める。

感想:これは、もっと真剣に見なくては。

僕らは愛について語るときに
何を語るか自分に問うべきだ

リーガンは、バードマンで売れていた頃は一夜の愛や空っぽの愛、金に対する愛で、自分が愛する人への愛を忘れていたんだと思う。

そして、愛する人は離れ、空っぽの愛すらなくなり、自分が愛を与えるべき娘との距離すら遠くなってしまって。

人を精神的によくも悪くもするものって、最終的に愛なのかなって。人に関しても、男女でも親子でも友情でも、愛があるから嬉しかったり悩んだりするし。物事に対しても、愛があるから手をかけられるし。

その愛を渇望してい状態を、役柄に反映させる。マーティン・スコセッシ監督「タクシー・ドライバー」のロバート・デ・ニーロが実際にタクシー運転手の仕事をしてみたり、のような感覚。でもリーガンはこれは自らこの状況に陥ったわけではないんでしょ?だから「無知」の状態だったわけでしょ。ロバート・デ・ニーロのあの演技は努力が反映された結晶であり、リーガンの演技は予期せぬ状態が反映された奇跡なんだよね。

妻や娘からの焼失されかけても残っていた愛や、周りの空っぽだとしても存在していた愛があったからバードマンをできてたリーガン。ラストでの言葉にはなかったけど、名残惜しそうに病室を後にする奥さんや、お互い歩み寄り始めた娘。たしかに過去にあった愛が復活し始めてるわけだから、リーガンはもう一度バードマンになれると思う。

ワンカット風の撮影。凄まじすぎるな。自分がこの世界や楽屋周辺をうろちょろしてる感覚になる。だからこそリーガンのブレている精神が余計わからなくて唖然としてしまう。

エドワード・ノートン。デヴィッド・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」でも二重人格な面持ちが、今回もきちんと発揮。あんな好き勝手やってるのに、屋上のタバコ吸うシーンでの哀愁漂う感じとか。あーゆう一面見るとマイクのこと嫌いになれないなあ。

エマ・ストーンもよかったー!デイミアン・チャゼル監督「ラ・ラ・ランド」のキラキラした役もよかったけど、こーゆう役もすごく合ってた。目力がすごいからかな。でもね、彼女は悲しい表情が1番グッとくる。

そしてね、音楽も最高よ。ドラムソロとか。そしてそれに合わせた題名の文字の出方(アルファベット順なのね、あれ)とか。細部まで手を抜かない。こーゆうとこまでこだわってる人は、やはりよき映画作るよね。

SNSをやらないリーガンや芸術面しか見ようとしない有名評論家。2人とも少し現代から遅れてしまっている。そして皮肉にも拡散された動画によって話題を呼んでしまった舞台。リーガンはその後どう進んでいくかはわからないが、評論家は苦し紛れで認めざるを得ないような記事を書いて、少しだけ現代に歩み寄った。昔を悪いと思わないが、やはり生きてる「今」見なくてはいけないよね。

愛について語るとき、自分は何を語る?
人をこれ以上愛せないってくらい愛したいし、その愛した相手から愛されたいし。ワガママなんですワタシは。未熟な自分には何も語れまい。

語れるような人間になれるよう、たくさん経験をしていきたいね。


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