残り香

襖の向こうの猫の鳴き声で目が覚めた。枕元に手を伸ばし、鳴る前に目覚まし時計を止める。
下宿の大家さんの飼い猫は、毎朝目覚ましが鳴る直前に鳴く。まるで僕が起きる時間が分かっているようだ。
今日は週末で大学は休みだがデートの予定だった。布団から這い出しスエットのまま襖を開ける。鳴き声で起こしてくれた黒猫が、きちんとお座りしてこちらを見上げていた。長い尻尾がゆっくりと左右に揺れている。
黒猫の後をついて階段を下りる。猫は毎日、下りながら階段の途中で僕の方を振り返る。僕と目が合うと安心したようにまた下りていく。
階段を下りた引き戸の向こうが茶の間だ。入ると開いた窓から洗濯物を干している大家さんが見える。庭から金木犀の香りが漂ってきた。
大家さんが作ってくれた朝ごはんはちゃぶ台で湯気を立てていた。炊きたてのご飯と味噌汁、漬物と焼き魚が並ぶ。70歳を過ぎているらしい大家さんは、料理上手だ。実家では朝食を食べたり食べなかったりだったが下宿では残さず食べるようになった。
足を崩して畳の上に座りご飯を食べていると猫が膝に乗ってきた。いつものことだ。僕はどうも彼女に気に入られているらしい。

引き戸が開き、僕と同じ下宿人の同級生が入ってきた。彼は土日でも部活で早起きだ。僕と彼は目で挨拶を交わした。隣に大きな音を立てて座り朝食を食べ始めた。僕は茶碗だが彼は丼でご飯を食べる。
黒猫は僕の膝の上で立ち上がり彼を睨んだ。口から小さいが鋭いキバが覗く。数ヶ月前、彼がいたずらで尻尾を踏んだことを未だに根に持っているようだ。立たれたままでは食べにくい。首の後ろを撫でてやるとやっとおさまった。
同級生はかきこむようにしてご飯を口に運びながら横目でこちらを見た。
「早いな。デートか?」
僕が頷くと彼は味噌汁に口を付けた。
「どんな娘だ?」
僕はしばらく考えてから口を開いた。
「なんて言えばいいか。そうそう、こいつに少し似てるかも」
僕は膝の上を指差した。
食べ終わった彼が座ったまま僕の方に向きを変えた。
「そうか。それなら俺とは相性悪いな」
彼は豪快に笑った。

彼女は黒猫を感じさせるが別に色黒ってわけじゃない。反対に肌は白い方だと思う。艶のある真っ黒な長い髪、顔は小さく逆三角で鼻の下が短い。大きくて切れ長の目が猫を感じさせる。細身のしなやかな体もほとんど足音を立てない所も本物の猫みたいだ。

待ち合わせ場所はいつもの公園だった。
時間ちょうどに到着したが彼女は来ていなかった。僕はベンチに座り文庫本を読んで待った。
10分程遅れて彼女が走ってきた。彼女は軽く飛ぶように走る。
「遅れてごめん」
弾んだ息のまま僕に笑いかけた。黒いカットソーが似合っていた。黒のミニスカートから覗く白い脚が眩しい。ふたりで並んでベンチに座った。彼女の弾んだ息が落ち着いてきた。
いつもその日の予定は、ふたりでベンチに並んで考える。気まぐれな彼女と付き合い始めてからはそれが当たり前になった。僕にとって行き当たりばったりは少し不安だけど新鮮だ。今日は彼女が見たい映画を見ることになった。彼女が立ち上がってこちらを振り向き僕の手を取った。
不意に彼女の顔が僕の顔に近づいた。口と口が近づく。彼女は自分の舌で僕の唇を舐め上げた。舌のざらりとした感触を唇に感じる。彼女のキスはいつも独特だ。
離れぎわ黒髪から金木犀の香りがした。僕は立ち上がり、彼女に引っ張られるように歩き出した。

デートが終わり部屋で本を読んでいた。窓の方から引っ掻く音が聞こえる。視線を向けると大家さんの黒猫が合図していた。立ち上がり窓を開けると、猫は勢いよく入ってきた。
「なんだ、今頃帰ってきたのか?」
座り直すと僕の膝の上に乗ってきた。僕は黒猫の耳の後ろを指で掻いた。猫が目を細め喉を鳴らす。さっき彼女の髪から嗅いだばかりの香りが鼻をついた。
「あれ?お前も金木犀の匂いがするな」
猫は膝の上で体を伸ばすと僕の顔に自分の顔を近づけた。目が合う。彼女は、僕の唇をざらりと舐めた。

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