蜥蜴

わたしたちは、ソファーにふたりならんで腰を下ろしていた。付き合い始めて約ひと月。この部屋に来たのは何回目だろう。部屋が整理整頓されすぎているせいだろうか、わたしはまだ慣れなかった。白で統一された部屋には観葉植物の緑が映えている。わたしは、隣に座っている彼の肩にもたれながら、目の前の大画面を見つめる。彼の指がわたしのウェーブした髪をもてあそんでいた。
わたしの目は、目の前の画面に惹きつけられていた。そこでは、若く美しい女性が、柔らかなシルエットの黒いドレスを着、真剣な眼差しでピアノを弾いていた。わたしの目、そして耳は、彼女に吸い寄せられるようで、意識をそらすことができなかった。
音楽について全くの素人のわたしが見ても、それは鬼気迫るような、素晴らしい演奏だというのがわかった。

画面の中の演奏者は演奏を終え、立ち上がり観客に向かってお辞儀をした。彼がリモコンを画面に向け停止ボタンを押す。彼は立ち上がると、すこししゃがんでこちらを向き、わたしの顔をのぞき込んだ。
「泣いてるの?」
気づかなかった。涙がわたしのほおを伝っていた。
彼が指でそれをぬぐう。
「なに飲む?コーヒー?それとも紅茶?」
彼がたずねる。顔が近い。わたしは目線をそらし、うつむいた。
「紅茶にしようかな。わたし、淹れるよ」
彼が立ち上がった。
「いいんだ。ぼくの淹れる紅茶、うまいんだぜ」
彼は少しはにかんだように笑った。

背後のキッチンで、彼が手際良く紅茶を淹れるのを顔だけで振り返って眺める。白いシャツに、細身のパンツがよく似合っている。
「天才と言われる外科医は、紅茶まで上手に淹れるのか」
彼に聞こえないようにつぶやいてみる。先日、彼の勤める大病院で受けた大掛かりな検査といい、この広く整えられた部屋といい、彼とわたしでは住む世界が全く違う気がしてため息をついた。
それにしても、今画面で素晴らしい演奏を見せていた女の子と、今日の午前中にお見舞いに行った彼の妹は、本当に同一人物なのだろうか。画面の中の彼女の顔は生気に満ちていた。ピアノを弾く喜びが見ているこちらにまで伝わってくるようだった。それがどうだろう。病院のベッドの上の彼女は、土気色の顔で、兄である彼が声をかけても目も合わさず返事もしなかった。
当たり前かもしれない。彼女は1ヶ月前の交通事故で両手を失ったのだ。
彼女は夜、帰宅途中にクルマにはねられた。ひどい事故で、命はとりとめたが両手は手首から先を切り落とすことになってしまったと聞いていた。

彼が紅茶を両手に持ったカップに入れて運んできた。
「ミルクでよかったよね」
片方をわたしに手渡した。
「うん、ありがとう」
わたしはマグカップを両手で受け取った。彼はわたしの横に並んで座った。
わたしの手は冷たくなっていた。カップの熱さが手に気持ちいい。わたしはミルクティーに口をつけた。紅茶の渋みをミルクが柔らかく包む。
「妹さん、すごかったんだ。そりゃ、落ち込むよね」
彼の表情が曇った。苦しそうな表情にも見えた。
「日常生活はもちろん大変だけど、妹は、なによりもピアノが好きだったから」
彼がわたしの顔を見た。
「でも、よかった。妹も君のこと、嫌いじゃないみたい」
わたしは体に力が入った。
「え、でも、全然しゃべってくれなかったわ」
彼は首を横に振った。
「事故のあと、ずっとああなんだ。嫌だったらすぐにぼくに合図してくることになってる。そのときには、それがどこかの国の王様でも、お引き取り願うことになる」
彼が冗談っぽく言った。彼の顔に笑顔が戻っていた。
わたしは、今まで気になっていたことを聞いてみる決心をした。
「わたしは、お医者さんのあなたと違って、なんの取り柄もないただのフリーターよ。どうしてわたしを選んだの?見た目もパッとしないし家柄だってそう。それに、身寄りもないのに」
彼はわたしの手を握り、引き寄せた。
「ぼくは、君がいれば、ほかになにも要らないんだ」
彼はそのまま目を閉じ、わたしの左手に頬ずりをした。その左手の薬指には、彼からもらった指輪がはめられていた。
うれしかった。はじめて誰かに愛された気がした。わたしは彼の顔を正面から見た。
「妹さんと替われたらいいのに」
心からの気持ちだった。彼の笑顔を見つめながら、わたしは、頭のてっぺんからぼんやりしていくように感じた。体に力が入らない。考える力のなくなった頭に彼の言葉が響いた。
「ああ、そうするつもりだよ」
わたしは、自分の頭が意識を失うのを感じた。

横に並んで歩いていた妹がぼくの腕に腕を絡めた。今日は妹の手術後、はじめての外出だった。
久しぶりに妹と並んで歩く。年末が近いせいかクルマが多い。車道側をぼくが歩いた。事故からこっち、妹はクルマが怖くなったようだ。当たり前だろう。一旦は両手を失ったのだから。ピアノのレッスンへは、しばらく付き添いが必要かもしれない。
妹のまぶしいくらいの笑顔がぼくを見上げる。
「お兄ちゃん、ありがとう」
ぼくも笑顔を作った。
体が、強い力で突き飛ばされた。ぼくは足がよろけ、車道に足を踏み出した。

わたしがレッスン室へ向かう廊下を歩いていると、すでにレッスン室からのピアノの音色が漂ってきた。美しいけれど、まだ思い切れないところのある、どこかよそよそしいその音色には覚えがあった。先月からリハビリを兼ねて来ている女性のものだろう。彼女は毎回、レッスン時間よりも前にもこうやって弾いている。
気づくとわたしは、歩きながらヒールでピアノに合わせてリズムをとっていた。苦笑いが出た。
前回までのレッスンで分かった。10年以上、生徒にピアノを教えているが、そのなかでも彼女は飛び抜けてうまい。技術的にはきっと教えることなどない。彼女に必要なのは、あとは気持ちなのだろう。
レッスン室の前に着いた。わたしはレッスン室のドアを開け部屋に入る。彼女が手を止め、笑顔で立ち上がった。

2時間のレッスン時間が終わった。彼女の顔が上気している。わたしは彼女の手首に視線を向けた。彼女の手首には、まるでブレスレットのように赤い線が浮き上がっていた。
「この前から気になっていたんだけど、その手首の周りの線はなに?なにかの傷かしら?」
彼女が自分の手首に目を落とした。
「ああ、これですか?この傷、以前手術した跡なんです。実はわたし、事故で手首から先を失ってしまって」
わたしは申し訳ない気持ちになった。
「嫌なこと聞いちゃったわね。それにしても、他人の手であんなに見事な演奏をするなんて」
彼女が首を横に振った。
「いいんです。兄が手術して治してくれたんです。事故で亡くなった人の手が偶然わたしに合ったんです」
彼女はなにかを味わうように目を閉じ、続けた。
「兄は、腕のいい外科医だったんですよ」
わたしは尋ねた。
「だったってことは、お兄さん、亡くなったの?」
彼女は目を開けてわたしを見上げた。
「わたしの手術のあと、すぐに交通事故で亡くなりました」
彼女は両手のひらを目の前にかざした。
「この手が痙攣して、言うことを聞かずに兄をクルマの前に突き飛ばす形になって」
彼女は手を膝の上におろし、その手を見つめるようにうつむいた。
わたしは、彼女の肩に手を置いた。彼女は顔を上げた。
「そんなことがあったから、わたし、ピアノをやめることも考えたんです」
その目が、決心したように光ったように見えた。
「でも、兄、わたしがピアノを弾けるようになるの、楽しみにしてたから」
わたしは彼女の手に視線を落とした。彼女の左手の薬指が、別の生き物のように跳ねるのが見えた。

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