やさしい嘘

ぼくは濡れた頭にバスタオルを巻いたまま、パソコンの前に座った。時間ピッタリだ。パソコンから呼び出し音が鳴った。マウスをワンクリックするとテレビ電話が立ち上がる。いつもの長い髪、変わらない妻の柔らかい笑顔が画面に表示された。
「あなた、元気?」
画面に向かって、ぼくは無理に笑顔を作った。
「今日もなんとか生きてるよ」
少し嫌味っぽくなってしまったか。画面の先の妻の表情が曇ったような気がした。 妻との近況報告と雑談は、いつも通り30分ほどで終わった。ふたりともそれぞれの部屋に閉じこもっているのだ。惰性で毎日やりとりしているが、近頃は話題もほとんどない。

毎日決まった時間にこの画面越しに会話するようになって、どのくらい経つだろう。前触れもなく伝染病の蔓延で隔離されてからだから、2年くらいだろうか。ここはぼくの仕事用に借りたワンルームマンションだ。仕事がら、来客が多いので自宅から離れた都市部に借りている。この部屋にいるときに緊急放送のサイレンが鳴り、ぼくはそのまま自宅に帰れなくなったままだ。
伝染病の原因は、ウィルスだった。空気感染し、感染すれば2、3秒で体中に黒い斑点ができる。その後3日以内に100%死亡するという強力なものだ。
発生後、一時期テロではないかとの噂が広がったが、その後も犯行声明はなく、結局この前例のない災厄の理由は分かっていなかった。
ぼくはパソコンの右横に視線をずらした。そこに立ててある妻の写真を手で撫でる。せめて、妻と一緒にいられたら、この孤独感も少しはマシになるのだろうに。

妻は人工知能専門のシステムエンジニアだ。ウィルスが蔓延する以前、彼女の研究自体は完了していた。人と会話することでだんだんと学習していく人工知能のデータ採りのため、彼女は在宅勤務だった。
伝染病以来、自宅に居る彼女と会うことができるのは、この小さなパソコンの画面越しだった。

報道によれば、その空気感染するウィルスによって、この国の人口は1/10に減ったそうだ。残った人間は、すぐに政府の指導で住居を消毒された。移動は感染を防ぐため、近距離でも許されていない。ほとんどの人間は、完全滅菌の部屋で食料の配給を受けて暮らしている。 水道と電気などのインフラには問題はないが、まだウィルス自体には効果的な対策がなかった。部屋から出ることは死を意味した。我慢できずに外に出た知人はそれ以降連絡がつかない。考えると、妻とぼくが、こうやって夫婦揃って生きていられるのが奇跡のように思える。

ぼくはパソコンの電源を落とそうと電源ボタンに手を伸ばした。指先がそのボタンを押す前にパソコンからメールが届いた音がした。災厄以降、政府広報と妻以外から連絡が入ることはなかった。 メールの件名は『ウィルスはもう解決した』と読めた。宛先は見覚えのない数字とアルファベットの羅列だった。だれかのイタズラだろうか。タイトルをクリックしメールを開けたが、メールには内容も署名もなかった。宛先のメールアドレスをコピーしてネットで検索するがなにも引っかかっては来ない。わたしはそれ以上考えるのを諦め、パソコンの電源を落とした。立ち上がり、デスクの右横にある本棚の前に立って8割ほど埋まった本棚を眺める。どの本も、隔離されてからもう何十回も読んだ。その中から一冊を取り出しす。ぼくはパソコンの前のイスに座り本の表紙を開いた。読み始めたがさっきのメールのタイトルが頭に残っている。本の内容は頭に入って来なかった。

翌日はまだ暗いうちに目が覚めた。あまりにも変化のない毎日を送っているせいか、昨日のメールがまだ気になっていた。メールの通りウィルスが解決したのだとしたら、妻の待つ自宅に帰れるということか。 あのメールはぼくの妄想が生み出した幻想なのだろうか。メールの着信音とタイトルは、ぼくの頭から離れなかった。パソコンを立ち上げる。メールはまだ確かにそこに有った。これが妄想なら、ぼくはこの停滞した毎日をただ変えたいだけなのかもしれない。 玄関まで行き、その手前で座り込みドアを見つめる。この状況はいつまで続くのだろう。ネットの情報では交通機関はマヒしているらしい。自宅までは時間さえかければ歩けない距離ではない。早朝の今、ここを出れば午前中の妻とのテレビ電話の時間までになんとか辿り着くことができるだろう。
ぼくは立ち上がり、力を込めてドアを開けた。2年ぶりの新鮮な空気が部屋に流れ込んできた。おそるおそる外の空気を吸った。そのまま頭の中で10数えた。体に変化はないようだ。ウィルスは本当になくなったのか。ぼくは目をつぶり、今度は思い切り深呼吸した。

ぼくは自宅に向かって歩き始めた。生活道路から少し大きめの道路、そして国道へと出る。迷わないようにわかりやすい道を通ることにした。道には、車はもちろん人っ子ひとり歩いていない。商店もコンビニも、もちろん開いているお店は一軒もない。さながらゴーストタウンだ。自宅までは電車とバスを乗り継いで30分ほど掛かる。歩いて帰ったらどのくらい掛かるだろう。ぼくは歩くのはそんなに早い方ではない。
「2年ぶりの再会か。あいつ驚くだろうな」
口を突いて出た。背中を押されている気がして、ぼくは足を早めた。

マンションの階段を上がる膝が笑っていた。結局、自宅までは休み休み3時間掛かった。汗で背中に張り付いたシャツが気持ち悪かった。いきなりドアを開けて驚かせてやろう。ぼくはインターホンを押さなかった。
階段を登り終え、2階の自宅へ着いた。鍵を開け家に入る。家の中は暗くやけにカビ臭かった。どうしてだろう。人が住んでいる匂いを感じることはできなかった。
リビングから順番に部屋のドアを開けた。どこにも妻の姿はなかった。最後に妻の自室を開ける。2年間毎日、ちょうどこのくらいの時間にこの部屋からテレビ電話で会話していたはずだ。
妻の部屋にも妻はいなかった。デスクの上では妻のパソコンが立ち上がり、テレビ電話が起動していた。画面にうつる部屋は見覚えがあった。ぼくの事務所だ。妻のパソコンの前には誰も居ないのに、そのパソコンからは妻の声が聞こえてきた。
「あれ?今日はどうしたの?あなた、いないの?」
どうやらぼくの事務所のパソコンに呼びかけているようだ。妻の声は諦めなかった。繰り返し向こうにいるはずのぼくを呼んだ。
ぼくの全身から力が抜けた。 耐えきれず膝が勝手に折れた。ぼくは悟った。妻の声は人工知能の声だった。これまでの2年間、わたしが妻だと思って話ししていたのはこのパソコンだったのだ。
妻の作った人工知能のプログラムは完璧だった。
ぼくは画面から目を外し、パソコンのキーボードに触れた。
妻の体温は伝わってこなかった。

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