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◆二律背反の世界を望む人々の価値観は本当に「人それぞれ」と言えるのか問題

 冷静に考えてみて。この世界に人が生きる上での正解があると思う?成功者をもてはやす風潮が昔からずっと続いてるけど、多くの人々が成功者だと称賛する人たちのことをどれだけ理解できている?その比較対象が単に「成功者1人対一般大衆」っていう見方しかしていないから成功者だと思ってるんじゃないのかな。

 あらゆる違いが渦巻いているこの世界で、価値観は人それぞれと言いつつも、その時々で、比較対象がコロコロと変わっているにもかかわらず、立っている土俵の違う人々が誰かを成功者だと称賛する。それは本当に「価値観は人それぞれ」の上に成り立つ概念なのかな。私はとても疑問に思う。

 Google検索で「二律背反(にりつはいはん) 意味」で検索してみるとこんなふうに書かれている。

ある命題とその否定命題とが共に、正しい論理的推論で得られる場合の、両者の関係。例、命題「私は常にうそを言う」が本当なら、その発言内容からして、うそをついていることになる。そこで原命題がうそだとすれば、「うそを言う」のがうそだから、本当のこととなる。

Oxford Languagesの定義

 こんなものただの言葉悪戯に過ぎない、そう言いたい人もいるかもしれない。でも、「嘘」と「本当」の言葉がもつ意味なんて常に矛盾だらけだということくらいは理解できるよね。

 ここで、敢えて添えておくべきことを言っておくと、これから書くことは決して犯罪行為を擁護したり推奨したりするものではない。誤解のないように。

 例えば、詐欺師が人を騙して金銭を搾取する犯罪行為について、皆さんはどういう認識でいるだろうか。詐欺行為は犯罪だから法の下に罰せられなければならない、法治国家日本の国民なら誰もがそのように正論を述べるに違いない。

 でも、実際どうだろう。詐欺師や詐欺グループの存在が社会に存在し続けていることで、人々の意識や行動は確実に変化してきたし、金融インフラも改善や予防を毎年繰り返し重ねてきているという事実もある。イタチごっこと言ってしまえばそれまでだが、功罪の功の意味合いもちゃんと機能している。

 これが所謂社会の持つ「曖昧さ」であり、「矛盾」でもあるわけよね。極端な話、この社会が犯罪者を一人も生まないパーフェクトな社会になったとしたら、人々は喜ぶかもしれないし、真の平和が訪れたと安堵するかもしれない。でも、その時から人々は、突如生じた犯罪者への対処方法を考えなくなっていく。

 心配する必要がなくなった、そう思った時から人は危機感を持たなくなる。なんでかって、人間は誰しも基本的には怠惰な生き物だから。現に、ChatGPTが社会に浸透しつつある今、自分の頭で考えたり、自分で調べたりすることもだんだんとしなくなっていくよね。無論、それは人によって学習する意欲が異なるわけで、元から学ぶことに好奇心旺盛な人はChatGPTからでも学ぶのだろうけれども、おそらくそうでない人が大半だろう。

 なんでさ、日本の教育は「カスタム教育の是非」を問うことをしてこなかったんだろうね。大半の人たちが小さい頃からの学校の授業や宿題やテストに対して違和感だったり疑問だったりを抱いていたはずなのに。思ったことあるでしょう。「何のためにこんなことをやらせるんだ?」って。

 でもさ、「義務教育だから」の一言で片付けられて、あたかもそれが将来のための正攻法みたいにドヤる大人たちしかいなかった。今見てみなよ。さすがに気付いたでしょう。大して勉強それ自体に意味があったわけではなかったって。

 未だにいるよね。知っている自慢をする人。知識自慢は知識自慢でしかなくて、別に何かを生み出しているわけではないでしょう?でも、それも一つの価値観と言えばそうなんだよね。

 人には得意不得意がある。人それぞれと言うのであれば、子供一人一人がどんなことに熱中するのか、得意なことの探索をするための機会を設けること、そして、見つけることができたら、得意なことをさらに伸ばすために必要な学習をマッチングさせることを考えてもよかったんじゃないのかな。

 一括りにした教育方針には今でも怒りを覚える。どう考えたって個人の意思を尊重したものではなかったでしょう?テストの点数だけで優劣を付けられて、勉強が得意な子は自信を持つようになり、不得意な子は劣等感だけを植え付けられていく教育方針でしかなかった。本当はこんなことやりたいわけではないのに、後者の子供たちが未来にどんな希望や夢を抱けたんだろうね?

 子供ってさ、熱意が絡むと大人でもびっくりするくらいのことをやったりするでしょう?

 ここで私の実体験の話をしよう。小さい頃にね、あれはある年の6月くらいだったかな。庭に咲いていたアジサイが枯れ始めた頃のこと。家の中にいた兄弟3人は、突然、父親から外に呼び出され、アジサイの前に立たされた。

「これやったの誰だ。正直に言わないと3人ともぶん殴るぞ。」

 3人が見たのは、地面に散らばるアジサイの葉だった。父親はそれを3人のうち誰かがアジサイの葉を散らかした、とでも思ったのだろう。でも、3人とも身に覚えのないことで、よくわからない状況に黙っていた。

 当時8歳くらいだった末っ子の私でさえ、誰もそんなことしないとすぐに気付いたため、上二人の兄弟が殴られるのは絶対におかしいと思い、罪を被ることを考え、自分がやったと手を挙げた。その瞬間に父親から平手打ちをされ、事は済んだ。

 しかし、アジサイの手入れとして枯れ葉を切ったのは、同じ敷地内に住んでいたおじいちゃんの妹の叔母さんだとあとから話を聞いたらしく、父親は「お前なんでウソをついたんだ」と言ってまた私を殴った。そうなることも想定していた私は、結果的に事が丸く収まって良かったと思っていた。

 真ん中の兄が基本的に悪さばかりするから、父親も兄がやったんだと決めてかかっている様子だったのを見ていて、「叩かれるかもしれないけど、まぁいいか」と、上二人を守るつもりで殴られてみたわけだけれども、理不尽に怒られるなんてことはその時だけではなかったから、小さいながらにも状況を理解するクセが身についていたらしい。

 きっと、あの時、父親はなぜ私がウソをついてまで殴られたのか分からなかったに違いない。その理由は言わずにやり過ごしたからね。

 一体この話はなんだ?と思った人もいるかもしれないけれども、人はね、過去に起きたことのうち、「感情が絡んだ記憶」はいつまで経っても思い出せるんだよ、ということ。アジサイの件は、父親に呼び出された時、上二人も怖かっただろうし、私も怖かった。なんでこんなことでそんなに怒鳴り散らかしているのかがそもそもわからなかった。

 その時の私は、怖いという感情と、上二人が理不尽に殴られるのは避けなければならないという思いとが混ざったような感覚だった。これはあくまでも一例に過ぎないわけだけれども、私がここで言いたいのは、幼少期からの育成過程で大事にすべきなのは、感情や熱意を本人のやりたいことや得意なことに絡ませて思い出を作ってあげること

 興味のないことを強いた挙句、優劣を決めて劣等感を植え付けるような教育は、その子の未来を破壊する

 これからは、概念の上書きも進んでいき、小さい子供たちがのびのびと心を燃やす方法を本人が望む体験で覚えていける良い時代になっていくと思う。そのことに社会がようやく気付けたことは、産業革命以来の大きな変化だと言っても過言ではない。

 だからと言って、学校や大学が無価値だと切って捨てるような言い方をするのもよくない。学校という組織はあくまでも箱であって、中身はそこで生きる人たち次第。

 義務教育っていうワードを排除して別の言葉に書き換えてしまったほうがいい。無償化するだけではなくて、学校組織で働く全ての人たちの意識、働きやすさ、一定の自由度の許容、そういうことも加味した上で、そこに通う子供たちが楽しい学校生活を送れる環境にすることがもしできたなら、いじめで苦しむ子供たちもいなくなるほどに、生徒の誰もが自分のやりたいことに熱量を注ぐようになるんじゃないかな。

 そうして過ごした学校生活は、何年経っても良い思いでとして語られるようになるはずだよね。10万人以上も不登校の子供たちがいるような現状では、その認識を改めるにも時間がかかってしまうかもしれないけれども、価値観は人それぞれと言うのであれば、ちゃんと子供たち一人一人の違いを認めた上で、教育をカスタマイズする仕組みを成立させてやってほしいかな。

 多様性って言うならそこまでやりきらないと。事あるごとに、正しいか間違いかの対立軸に立って議論するのをやめたほうがいい。正しいって考えることも、間違いだと考えることも、思考停止以外の何物でもない。

 物事にはグラデーションがある、両端のポジションから主張するだけなら楽だろうよ、反対意見に対して理解を示すことなく自分たちの主張だけを繰り返せばいいわけだから。でも、そんなことをしている時間がもったいない。どうせ対立軸に立っているなら、両者でグラデーションの中にある落としどころを見つけることが本来の議論の持つ価値でしょうよ。

 でもさ、それを邪魔するのはいつも「感情」なんだよね。偏った考え方をもつ人たちほど、自分が〇〇主義であることを言葉にして言いたがるけれども、〇〇主義と言ってしまうことで思考の柔軟性はありませんって言っているようなものだからね。

 ヴィーガンとかフェミニズムとかいろんな価値観があること、それ自体は否定しても意味がない問題は、自分たちとは違う主義主張をする人たちに向けて理解を求めようとすることではないかな?理解を求めようとするからハレーションが起こるわけで、争うばかりで何の生産性もない言い争いをするだけなら意味がないでしょう。その点で言えばメディアもやり方がおかしいことになる。

 「否定するな」も「肯定しましょう」もどっちも言葉にして言う必要もないくらい、みんなそれぞれで自分が望む環境で生きたらいいというのが本来の多様性社会じゃないのかな。どう頑張っても分かり合えない価値観をぶつけ合っても傷つけあうだけだからね。で、それをいちいち「分断」って言ってしまうのも良くない

 なんで誰もが共通の認識を持つべきだみたいな主張になるのか私にはよくわからない。理解を求めることも、否定批判をすることも、争いを望んでいるようにしか見えない。

 価値観が違うことに対する好奇心を育む、そういう意味でも学校教育は根底から変わる必要があるね。


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