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◆宇宙を消滅させるパワーを秘めた物質

 虹色に輝くこの楕円球は、見た目の美しさとは裏腹に、宇宙を消滅させるほどの力を秘めている物質である。(※そんなものは実在しない。)

 サイズは、縦10.2㎝×横7.65㎝。重さは、800万㌧。非常に重い。宇宙消滅に至るその発動条件は、これに触れ、念じるだけで瞬時に宇宙は消滅する。

A「お?どうしてそれがわかる?科学的根拠は?誰が証明した?」

B「わからない・・・。わからないんだ・・・。」

A「なんだ、インチキじゃないか。」

B「インチキではない。この物質が持つ性質は確かなんだ。ただ、それを確かめようにも、これほど膨大な力を秘めているとなると確かめる方法がないから、証明もできないんだ。」

A「へー、要はあれか。人知の及ばない力ってことか。」

B「私からはそうとしか言えない。すまない。」

A「でも一つくらいはそのパワーを推測するに足る根拠みたいなものはあるんだろう?」

B「強いて言えば、E=mc²ってことくらいだ。」

A「ん?どういうこと?」

B「エネルギーの大きさと物質の質量は等価交換ってことだ。質量が大きければ大きいほど、その物質が持つエネルギーは比例して大きいということになる。」

A「ほーほー、それで?」

B「うん、ただ、質量に対するエネルギー量がどれほどのものかは余裕で計測不可能なほどに大きいということが推定できるだけで、ハッキリしたことはわからないんだ。」

A「ふーん・・・宇宙を消滅させる・・・ねぇ~?」

B「信じられないのも無理ないよ。こんなものが存在してしまっていること自体、私だって信じられない。」


 人間の器量を超える如何なる力も、それを手にした時点で不幸の始まりで、負のループは避けては通れない

 核兵器による唯一の被爆国である日本も、広島と長崎に原爆を投下したアメリカも、1945年の終戦以降もずっと毎年のように追悼式典が開かれ、絶対に忘れまいとしている。

 一度でも核兵器を使用した国は、他国から「過去に核兵器を使った国」のレッテルをずっと張られ続けることになり、歴史上どうであったかを蒸し返される度に説得力を失う。

 ハッキリ言って、いま地球上に存在するすべての核兵器を以って核戦争が起これば、地球全体は瞬く間に太陽の光を遮るほどの死の灰で覆われ、一か月もしないうちに極寒の世界となる。

 すでに人類は“地球上のすべての生命を壊滅させるだけの兵器”を所有してしまっている。宇宙を消滅させるほどのパワーではないにしても、一度でも核戦争が勃発してしまったら取り返しのつかないことになるほどの強大な力を適切に制御できる人間などこの世に存在しない。

 一番恐ろしいのは、人工知能が人工知能を開発するようになるシンギュラリティー以降、あらゆる兵器と関連する制御システムと人工知能が掛け合わさることで、核ミサイルが誤発射される可能性がゼロではないということ。

 現在でも、サイバー攻撃による暗号資産の窃盗みたいなことが起きているわけで、どんなに人工知能がシステム制御するようになったとしても、人為的に破壊されたり操作されたりしないとも言い切れない。それを誰がやったかもわからなくなるようなシステムが生まれてしまえば、いつ何が起きてもおかしくはない。

 権限や権力も同じことが言える。自ら適切に行使できないほどの大きい力を持てば、扱い方を誤るのも時間の問題と言っていい。

 それでも、人間はあらゆる力を持つ者に群がる傾向にある。群がったのであれば、どんな結果に至ろうともその人が持つ力の性質や制御の仕方を見極められなかった自分に非があるとも言える。

 防衛力というのも日本で物議を呼んでいるけれども、“防衛のための力”というのは「自国における定義」であって、他国からすれば“軍力”だったり“兵力”だったりに置き換えて捉えられることになる。戦う以外に手段がないと思わされている時点で完全に恐怖支配されている。それが今の日本。

 岸田総理大臣が親日国を訪問して回っているのは、国際社会で連携してまず経済力、次に防衛力を機能させたいという考えであって、日本だけでは何ともならないという側面もある。もっと早い段階で親日国への訪問をしておいてもよかったと思うけれども、首相としての仕事が試されるのはこれから。

 もし平和な世界が訪れるのだとすれば、人々が垣根なくあらゆる力を調和・融和のために活かすことであって、攻撃や略奪のために使う力は必要のない世界だろうと考えられる。

 でも、あらゆるものが有限であるこの世界で、争いや戦争のない世界を望むのは無駄ではないけれども非常に難しい部分が大きいとも言える。いつ起こるかもわからない戦争は、起きてしまったら死を覚悟して戦うしかない、というのがおそらくは人間のDNAに昔から延々と継承され続けてきたのかもしれない。「敵が攻めてきたら戦うのは当たり前だ」「そのためならいくら犠牲を払っても構わない」と。

 ところが、戦争で住処を追われた一般市民たちが願うのは、ただひたすら「戦争さえ終わってくれたら他に何もいらない」ということだけ。誰もが“近いうちに戦争は終わるだろう”と考えがちだけれども、そういうものでもないのが戦争であり、誰も答えを知らないのも戦争で、「早く終わってくれ!!」とどんなに願っても長引くことは往々にしてあること。

 長期化すればするほど、攻める側も守る側も精神的に疲弊してきて、戦争がいつまで経っても終わらないのなら・・・と最期の手段を考えることにもなりかねない。

 この世界がそもそも争いを生む社会であることからは逃れられないのかもしれない。これを前提としても、“座して死を待つ”ようなことはどの国も考えない。

 古い時代では、一般の農民が歩兵となって槍や剣を手に戦に出陣するといったことはどこの国でもあったことだけれども、文明がここまで進んでしまうと、システムVSシステムの戦いによって人々が犠牲になる構図しか描かれない。すでに人々の力の及ばないところで国と国が戦い、多くの人たちが犠牲になっている

 犠牲を払って得るものは何もない。戦争が長期化すればするほど、“いつまで、何のために殺し合っているのか”に苦悩するだけとなる。人類が刻んできた歴史とは、いつの時代も争い続き。もしかすると、いつまで経っても“どこに向かっているのか”が曖昧なこの世界は、近い将来、本当に終焉を迎えることになるのかもしれない。

 さて、力をどう扱うかを考えるよりも、適切に扱えているのかをそろそろ省みる必要があると思うが、そういうつもりは・・・ないみたいね。

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