見出し画像

◆宇宙規模で言えば地球上のあらゆる生命は認識すらされないほど小さすぎる存在でしかない

 ところ変わればなんとやら。行く先々で他人からの評価も、自分から他人への評価も全く異なる。そういう意味で、人は常に地球基準の価値観でしか物事を考えていないし、もっとミクロな規模で言うと、会社、学校、家庭、その他あらゆる人間関係を基準に価値観が染まっていくため、環境が変わるだけで何もかもが通用しなくなることを痛感させられることになる。

 それくらい、人は弱い生き物で、常に何かに縋っていないと自分という人間の存在価値を保てないのだと恐れ戦いている。そのことを口に出して語る人は極めて少ない。

 ストレス社会だと口々に言われるようになった現代で、さすがに気付かないといけないことの一つに、むやみに人間関係を広げても、利害の上に成り立つ人間関係がほとんどなわけで、必ずしも人脈があることが自分の人生に利するとは限らない、ということ。

 一方で、普段から孤独であることが、必ずしも不幸であるとは限らない。そのことにも気付かないといけない。寂しいという感情は、おそらく、孤独というものの既成概念に染まった価値観を捨てきれないが故にそのように感じるだけであって、感情を抜きにしてフラットに孤独というものを深堀りすれば、実は世間で言われるほど寂しく悲しい状態ではないのだと理解できる。

 やっぱり、物事は常に、世間的な、一般的な解釈に留まったままでいいわけではなく、疑ってみたり、自分なりに考えたりして、自分自身はどう思っているのか、なぜそう思うのかということを言語化する習慣はとても大事なことだろうと私は思う。

 他人からすれば、自分の意見や考えはおかしいものだったり間違っていると思われたりするなんてことは往々にしてあること。でも、自分でも、自分が思っていることを正しいと思うこともあって、この極端な偏りに気付かないといけない。

 物事が何でも正しいか間違いかで綺麗に線引きできるわけではないからこそ自分で考えないといけない。

 想像してみるといい。「正しいことしか言えない世界」や「間違いや過ちが一切許されない世界」であなたは生きたいと思うかどうか。残念ながら社会はそういう構造で動いてなどいない。悪もミスも間違いも過ちもすべて許容しているのが社会。許容の意味とは、そうした「悪や過ちからも気付きを得て社会全体で共有する価値のあるもの」という意味。

 SNSは正義を振りかざして悪を叩きまくる道具としては便利で爽快なツールなのかもしれないが、もうそういうことで貴重な時間を浪費するのをやめないといけない。何も生まない、唯一それが理由だ。

 地球では不倫やらなんやらでメディアが吊し上げて一般のネットユーザーが叩きまくることが日常茶飯事的に起きているけれども、宇宙空間からはそんなことが起きていることを誰も知らない。無論、地球外生命体が存在すると仮定してのことだが。人類は、時の過ごし方そのものを大きく間違えているのかもしれないが、やはりそのことからも気付きを得られるのだと思う。

 その時初めて、人々の時間に対する価値観が上書きされるのかもしれない。

いただいたサポートは、今後のnoteライフ向上のために活用させていただきます!