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◆競争優位性の低下を考える

 ボクシング、柔道、K-1、総合格闘技などのスポーツでは、ウェイト別に試合が組まれるルールになっている。

 体重差があれば勝敗に著しく影響するからという理由付けがされているためである。場合によっては圧倒的な力の差によって死亡するケースも想定されるからで、フェアな試合にならないことからそうしたルールが定められている。

 では、なぜ学力と教育においてはそのようなルール付けがされなかったのか甚だ疑問でならない。自分で言うのもおかしな話かもしれないが、私は学力には低いほうだし、そもそも勉強は嫌いだった。座学が苦痛でしかたなかったし、暗記学習がテストの点数稼ぎのためというのも退屈だった。

 義務教育の在り方についてはもう散々書いてきたから今回は省くことにする。

 聞くところによると、あらゆる学校スポーツにおける全国大会は廃止したほうがいいのではないかという議論が浮上しているようで、これを見聞きして思ったのは、確かにそうだよねということ。

 国内では出生率の低下がずっと続いていて、小中高大の学生数自体が当然ながら減少傾向にある。全国大会の意義について考えると、地域によっては都道府県大会とはいえ、そもそも全国レベルにない地域も増えてきているし、競争が激しい地域は都市部に限られていて、全国的に見れば上位クラスなのに、県大会という枠組みのせいで、優秀な学校同士が全国大会に進む前につぶし合いをして、全国大会では地方の弱小校と試合をして次戦に進むといった流れが起きている。

 甲子園なんかも見ていて思うけれども、強豪校ベスト16はほとんど変化がなく、たまに番狂わせが起こる程度。「全国制覇を競う学校」以外の学校は、全国大会に出場すればゴールみたいなことになっていて、そういう状況下で勝った負けたを繰り返している。何の意味がある?

 次に浮上してきたのは「野球離れ」。まあ当然の流れだよね。チームレギュラーメンバー9名を編成するだけでもギリギリの学校が増えていることの現れだろうと容易に想像ができる。

 もはや、学校の部活に参加している生徒たちが都道府県や全国の大会のために日々練習することの意義が薄れ、大会における競争優位性もとんでもないスピードで低下している。もう辞めたら?というのが現実的な見方だろうと思う。

 でも、スポーツそのものを辞めたら?ということではない。試合そのものの意義に固執する時代はもう終わろうとしているという話で、スポーツにおける体力面や技術面は磨き続ければ良くて、枠組みを細分化すればいいと私は思う。

 例えば、野球で言えば、ピッチングだけには自信がある、バッティングだけには自信がある、遠投だけには自信がある、そんな感じで部分的に自信のあるものをひたすら磨き続けていき、個人の記録を取っていくんだ。そうすると、ゲーム感覚で楽しむことができるんじゃないかな?

 言ってみれば体力測定の時の感じ。もちろん、複数のことに自信のある生徒やオールラウンダー的になんでもできる生徒もいるだろう。そういう突出して能力の高い生徒には、将来の道を用意してあげることもできるだろうし、一部のことだけ得意な生徒たちは、本当に野球が向いているのかを吟味してあげて、ピッチングが上手な生徒はバレーボールがうまい、バッティングが得意な生徒はゴルフがうまい、とかいうデータ取りもできるかもしれなくて、その生徒の能力の最大化という観点から、全く新しい枠組みでスポーツへの参画を推進していくことはできるのではないか、と私は思う。

 バスケットボールでも、シュートがめちゃくちゃうまいけど体力に不足がある生徒とかいるでしょう?そういう生徒に最適なスポーツを導き出す量子コンピューター的な計算ができると面白いよね。人によって何が得意で何が苦手かは違うわけで、いろんな項目を試してみた結果、割り出された最適なスポーツはテニスです、とか(笑)

 思えば、今までのスポーツや部活って一つのことに固定しすぎなんだよね。プロテニス選手なんか、利き腕は太くてそうでないほうは細かったりする。一番バランスが取れて良そうなスポーツは競泳かな。競泳以外のスポーツでも突出した能力を発揮しそうではある。

 eスポーツも浸透しつつあるけど、なんだろ、それとは別の観点というか、これまでのスポーツに多様性を持たせるのであれば、一人の人間が参画できるスポーツを一つに限定せず、複数のスポーツで能力の最大化を図る、みたいなことは、人口が減っているのであればできそうな気がする。スポーツというより「競技」に分類して、いろんな動作で身体能力を伸ばしていく感じのほうが楽しみながら向き合えそうな気がする。

 チームプレイも大事だ、という声はもちろんあると思うけれども、それを必要だと思うのであれば、そういう人達でコミュニティーみたいなものを立ち上げて、いろんな年齢層の人たちと一緒に楽しむようにすればいい。もう学校という枠組みで大会を開くのは意味がない。

 国対国で競い合うのもなんだかなーと思う。国益のためにやるべきではない。あの元メジャーリーガーのイチローさんでさえ野球は在る時から楽しくなくなったって言ってたでしょう?そうまでしてやるスポーツは、稼ぎが良いというのと、観客へのサービスだったりするわけだけど、小さい頃からずっと一つのスポーツに全振りするというのは、プロを目指していたとしてもその夢が叶わなかった時の反動もきっと大きい。

 中には、親が子をそういう道へ誘導するような英才教育てきなことをする家庭もあったりするけれども、正直良くないと思う。

 一つのことを極めろ的な思想は、これからはちょっと厳しいんじゃないかな。やるとしたら何を極めるの??中途半端でもいくつかのことをマルチにこなせるほうがまだ可能性は拓けてくる、そういう時代になっているよね。リスク分散とまでは言わないけれども、たった一度の人生、いろんなことをやってみたいでしょう。

 「アイドルは恋愛禁止!発覚したらメディアに吊し上げられてしまう!そしてアイドル引退!」とかいうことも、もういいよ。いつまでやるんだろうね。

 人の意思や希望を縛り続けると、本来成長するはずのその人の能力が強制的に止められてしまうんだよ。そして、気力を奪う。やる気をなくさせる。必ずしも正しいわけではない、複数の人たちをルールで一括りにして従わせるのは管理する側は楽かもしれないけれども、従う側は心底つまらないだろうし、不満を抱えたままになる。

 競争優位性は、その時代ごとにアップデートされていくものだから、時代にマッチしない状況に至るのであれば、競争の在り方や枠組みを再構築しないと意味がなくなってしまう。

 なんとなく部活をやる生徒、学校側が生徒に部活を強制する、そういうのを一切やめて、個人個人でやりたいことに特化させてやったほうがいい。中にはゲームが突出してうまい生徒もいるだろう。そういう子たちの能力も尊重してやればいい。

 未来に希望を抱けなくても、「とにかく“今”が楽しくて仕方がない!」って子供たちが言いたくなるような環境を作っていけるといいね。そして、子供たちが楽しすぎる時間を過ごしている様子を大人たちがモニタリングして、大人たちは大人たちで各世代ごとに「とにかく“今”が楽しくて仕方がない!仕事なんかやってられるか!」って言いたくなるような環境を同時並行的に構築していく。

 そういう社会を作ることができたら、一人当たりの有限な可処分時間の価値が爆発的に上昇する。きっと、経済も好転するだろう。人間は、自分が好きなことのためなら、自分がやりたいことのためなら出費は惜しまない。GDPも急上昇するだろうよ。

 大人たちがうらやましいと心底思うような社会を子供たちに提供できたら、きっと今よりも何倍も良い国になる。既成概念なんか切って捨てて新しいことやっていけばいい。

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