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◆言葉の意味を真面目に再考する時間 #4

 すごくベーシックなペイントアプリで描いた割には、良い画像ができたものだ。銀河のガス雲とか無数に光る星、描けるようになれたのはありがたいことだ。次回は「天の川」を描く。

◆生命の価値を定めたのは人間だけだった

【1】人間が中心となって決められてきた全てのことはエゴかもしれない

 菌やウィルス、微生物、植物、昆虫、魚介類、鳥類、哺乳類、全ての生命のうち、長い歳月をかけて最も高い知能を有することになったのは人間で、この地球は人間を中心に回るようになった。

 20年以上前から地球温暖化が国際的に問題視されるようになって、今ではCO2排出量の上限目標を各国で設定し、脱炭素のために化石燃料の使用やプラスチックの再利用など、様々な取り組みが試されている。

 “地球環境保全のために”という大義名分は、一見するとすごく良いことのように聞こえるけれども、見方を変えれば、これまで散々食い潰してきた石油、またそれを素材とする様々な物、これらに代替するべき資源の研究や再生エネルギーの進化を怠ってきた代償を、後世の人たちに尻ぬぐいさせる形になっていて、発電については未だに反原発の声が止まず、ズレた議論をしている。

 福島第一原発やチョルノービリ(チェルノブイリ)原発の事故により、その安全性を問題視しているのは放射能汚染がどういうものかが明らかになっているからであって、使用済み核燃料の処理にどれだけの費用を投じ続ければ解消するのかについては、およそ40年で12兆円~14兆円がかかると言われている。

 また、使用済み核燃料の再処理によってウランとプルトニウムを抽出すれば核燃料として再利用が可能となるが、再処理の場合は処分期間300年かかり、直接処理で地中に埋めた場合は天然ウランまで放射能レベルが低下するまでに10万年かかると言われている。(毎日新聞デジタル:2021年9月30日)

 結局のところ、「未来のためにできることをやる」というよりは「今現在をどうするか」ということのほうが“いま生きている人々”にとって優先されるのかもしれない。であれば、原発を停止して電気代が跳ね上がることは避けたいはずで、火力発電では二酸化炭素排出量が問題になるため、これといって原発以外で有効な発電方法はなく、風力発電や水力発電では賄い切れない。

 “電力供給をどうしようか問題”は、のんびり議論している場合ではなく、人々の生活や国家経済と直結しているため、例えば「一週間分の電力しか送電できない」といった状態が年に何度も訪れて、電力送電制限をしなければならないのが日常となってしまえば、社会は一変し、人々の生活は一気に窮屈なものになることは自明の理。

 維持することが困難な社会という意味では、文明や技術の発達スピードが間に合わず、全国のあちこちでインフラの老朽化や地方における土地の荒廃が進んでいる。マンションやアパートも新築への引っ越しを誘導するような建設ラッシュでほとんど使い捨ての状態となり、戸建て住宅も空き家がどんどん増えている。

 地方再生を声高に訴える政党も見受けられるけれども、もはやそこまで手が回らないほどに人口が減少していて、過疎化も進んでいるにもかかわらず、地方のインフラを維持するために国費を投じることは本当に必要なのかということは現在進行形で判断を迫られているような状態。食糧需給率がどうとかいう次元の問題ではなくなってきている。

 人が少ない地域に様々な業態が会社や店や施設を揃えて便利な街にしたからといってそこに人が集まるか否かはわからないし、設備投資できる企業の財力なしには到底実現し得ない。ほとんどギャンブルに近い。錆びれた街に居座るよりも、土地開発が進んでいる街に住むほうがまだ生活における利便性は担保される。

 国民がどこに住もうと自由だろうと、特に高齢者たちは言うかもしれないけれども、もうさすがに高齢者のために国費を垂れ流すのは若い世代のためにならないということを理解しないといけない。一定以上の資産を持っている高齢者への年金支給額は減らすか無くすかしていかないと、本当に日本まるごと沈没してしまう。そういう状況を招いたのは、あらゆるものを食い潰した結果ではないのか。

 およそ30年間も景気が回復しないのは、高齢者たちが手に入れた財産が社会に還元されなくなったからではないのか。グローバル化を良いことに外国人労働者を大量に受け入れたことで日本人の給料が上がらなくなったことは日本のためになったのか。企業は安く働き手を確保できて万々歳かもしれないが、その結果、確実に国内の治安は悪化している。

 でも、全ては結果でしかなく、これを目の当たりにするまでは誰も正しいか間違いかなどわからずにやってきたのだろうから、残念な結果に至っている現状からどう立て直すかを忖度なく実行していかないといけない。それができる政治家が日本にいるかと言われれば、60歳以上の議員が大半で、これからの日本のために大胆な決定を下す見込みはほとんどない。まだ与党のほうが行政運営が安定しているというだけで、現在の野党が政権交代したとしても、また別の問題を生むだけで、国政は大いに乱れ、批判が殺到することになるだろうとしか思えない。

 問題を解決するにも先立つものがなければ話も進まない。いくつもの問題を放置してきた結果、社会の変化や世界情勢の乱れによって新たな問題が上積みされて、優先事項も定まらないほどにお手上げ状態になってきている。また政府が10万円給付を決定したらしいけれども、10万円で何がどうなる。子だくさん世代は得をする、そういう政策で救われない人たちは後回しになっていることまでは考えが及ばないのだろう。

【2】宇宙規模では地球の存在すら小さい

 あまりに広すぎる宇宙空間に無数に存在する星々。宇宙では何が問題で何が問題ではないのか。考えるだけ無駄なようにさえ思えるのは、私たち人類が地球に存在する生命だからなのかもしれない。

 問題には二種類あって、マクロとして見る問題と、ミクロとして見る問題で、対比しようと思えばいくらでも可能な視点。人と地球、地球と銀河、銀河と銀河団、銀河団と宇宙などなど、それぞれに問題がある(可能性)は否定できない。

 例えば、銀河の中心に確認されているブラックホールは、超巨大質量で何でもかんでも吸い込んで無にしてしまう。時にはブラックホール同士が衝突して融合することもある。その際の質量は両方の質量を足した以上に巨大化する。質量とエネルギーは等価交換だから、融合時のエネルギーが増せば質量も増えるという計算が成り立つのだろう。

 今からおよそ40億年後の未来では、天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突する・・・という予測があるけれども、まさか地球誕生から85億年後にそんなことになるなんてね。でも、その頃には、太陽が膨張して地球に生命は存在しないとも言われているから、天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突しかけている頃の夜空を見ることができないのは残念だ。

 こういう話をしているとね、自分に起きている問題も、日本で起きている問題も、世界各国で起きている問題も、環境問題も、やっぱり「今生きているから」問題なのであって、問題がないならないで今起きているようなどの問題も「問題として認識すること」はなかっただろうし、誰も予見なんかしてないんだよね。問題が問題である所以は、人が問題だと判断するからであって、判断する生命がいなければ問題ではないわけで、そもそも人間が存在していなければ起こり得ない問題がほとんどと言っていい。

 めちゃくちゃ極端な話をしているように聞こえるかもしれないけれども、もちろん、一般論とか科学的根拠とかをベースに語っているわけではないから極端に聞こえるのであって、そもそもね、前提認識が既成概念に囚われている状態の思考こそが一般論になりがちで、それが無駄だとは言わないけれども面白くはないよねっていう話。

 次に掲げる見出しについては、私自身も「確かにそうだな」と思ったこと。

【3】人類が地球上に存在し続けなければならない理由

 地球環境が汚染されつつある中、絶滅危惧種が次々と出てきていることが問題となっているけれども、じゃあ、人間はというと、まだまだ増加傾向にあるものの、国連の推計によると2050年には世界人口が98億人にまで増加する見込みで、一次的に100億人を超えていくものの、2060頃には減少傾向へ向かっていくらしい。

 食糧危機が問題視されるのも理解できるよね。インドやアフリカでは今後も人口増加していくらしいけれども、日本は8000万人台まで減少していくらしいので、経済力だけでも担保されれば国内食糧危機は免れられるかもしれないけれども、何もかも海外との貿易が成り立てばの話。

 人口が増えても減ってもどっちにしても問題はあるわけで、上手に人類がみな共存し、環境を保全し、平和な世界にするというのは、途方もない理想のようでしかないと思える。

 でね?そもそも、人類が地球上に存在しなければならない理由は実は一つもないんじゃないか、という考え方があって、仮にある日突然地球上から人類が消滅したとしても、地球はあらゆるすべての人工物を粉々に分解して、地表はどこも自然豊かに草木が生い茂って、動物たちの世界が元の完全な弱肉強食の循環を延々と続けていくことになる。YouTubeにはその様子を再現したシミュレーション動画もあって、観れば興味深いと思うに違いない。

【4】人同士の争いは当然か否か

 どこか、人は、人間として生まれたことを「生命としての最たる優位性を持っている生き物だ」と勘違いしているのかもしれない。

 先日の投稿内容にも書いたけれども、競争社会は多くを生み出した半面、失ったものも多いというのは事実だと思うんだよね。

 いや、なんかさ、犬や猫を飼っている飼い主の中には、「ちゃんと躾をしないと犬や猫も自分が人間だと勘違いする」という考え方を持っている人たちいるでしょう?これね、私はちょっと理解できない考え方なんだよね。家族として一緒に暮らしているのなら別に対等でいんじゃないの?って。

 「タダでメシを食わせてもらってるんだから“人間様”より先に食わせるのはダメだ」

 うちの父親も昔そんなことを言っていた。“人間様”って言ってるくらいだから人間として生まれたことそのものに優位性があると思い込んでるんだろうなって思いながら聞いてた。でも、私はそんな風に考えること自体が歪んでるなと思ってたわけ。

 「人間が上で、犬や猫が下」こういうね、生命のヒエラルキー的な考え方って、このことだけではなく、それ以外のことでも上とか下で見る癖が染み付いてるんじゃないかなって思う。

 一緒に生活するのであれば、家族同然じゃん。ペットに尊厳はないとか言い出したら、当然動物愛護団体は黙ってないだろうけれども、そういう、なんというか、理屈で語るものではなくて、もっとシンプルに「かわいい」とか「うれしい」とかそういう思いで犬や猫と過ごす時間が“癒し”になっていたりするんじゃないのかねってことを言いたい。

 飼い主としてちゃんと面倒を見るという責任はもちろんあるけれども、生き物として人間と犬や猫という違いはあるわけで、これを生命としての優位性で妙な論理を展開するのは、「信じているものが違う」だけかもしれないけれども、人間は1万年以上かけて知能を発達させてきたっていう前提があるじゃん。

 なんかさ、教育格差も問題視されているけれども、そうなの?っていう見方を敢えてするとだね、確かに知能そのものとか、知的に障がいを抱えて生まれてくる人たちも実際にいるけれども、近現代に普通に生まれてこれた人たちは、それだけでも1万年以上かけて発達してきた知能を有して生まれてきてるわけじゃん。

 その上でよ?その上で、知識量を競ったり、計算力を競ったり、思考力や発信力を競ったり、身体的能力を競ったりしているのは、なんかちょっと不思議に思えるんだよ。

 じゃあさ、ここ数十年で人間の知能は進化しているかと問われれば、逆に退化してる気がするんだよね。社会生活が便利になって、知らないことがあればネットで検索すれば出てくるわけで、言語に関してもトランスレーターがどの言語にも翻訳してくれる。カメラ画像で英文を読み込めばお望みの言語に翻訳してくれる機能だってある。覚える必要はなくなってるよね。

 誰でも最高峰の知識を知ろうと思えば知ることができる。今はもうそういう時代なのに、点数を競う意味ってなんかあるんだろうかって思う。もう偏差値信者は偏差値でマウント取っても意味がないことに気付いたほうがいいよね。

 これからの時代、本当に求められている有能さって、発見と創造の2つのどちらかに長けている人だと思うんだよ。そりゃーね、時には「STAP細胞はあります!」って信じて断言した研究者が、実は違いましたみたいなこともあるだろうけれども、発見と創造は“競い合う必要がないもの”ではないかね。

 現代における人同士の争いは、戦争だったり、差別だったり、事件事故による加害者と被害者の争いだったり、議論における賛成と反対の言い争いだったりするけれども、全部が全部、これらすべてに発見も創造もないよね。ただ責任追及をしたり、損害賠償請求をしたり、落としどころのない不毛な議論で時間を無駄にしたり、戦争や差別では人が傷ついたり命を落としたりしている。SNS大炎上とか特にそう。これに便乗して攻撃的なコメントをすることに必死になっている人たちは、発見も創造もないことにあまりに時間を無駄にし過ぎている。

 こうしてみると、発見や創造をすることを放棄した人類が人間同士で足の引っ張り合いをするようになったのが現代社会なのかもしれないと思えてならない。そういう人々で溢れたこの国が経済成長できるんだろうか。

 宇宙規模で、今地球に住む人々がブチ当たっているあらゆる問題は、大小の比較が難しいくらいに極々小さなものかもしれない。でも、本当に問題にすべきこと以外に、注目を浴びるために敢えて仕様もないことを騒ぎにして問題にしていることもやたらと多いんじゃないかな。そういうのを事細かにネットニュースが拾うものだから火に油を注ぐのがメディアの役割になっているような錯覚まで起こすようになっているんじゃないかね。

 結論、人類の知能は退化している。発見もない、創造もしない、そういう人間たちが増えれば、問題を解決するよりも前に問題がどんどん山積みになっていくほうが早くなる。仮に、極論だとしても、再考するきっかけとなるのであれば、批判があろうとなかろうと言うべきことは言っていかないといけないよね。それができないのであれば、人類の存在意義もだんだんと希薄化していくことになる。

 戦争が起こるメカニズムは科学的、政治的、経済的、心理的な解釈からいろいろ語られているけれども、根本的な原因は、世界各国と比較した時の国家としての様々な格差が戦争の発端になっている可能性は極めて高いと言える。むしろ、存在意義や“世界でトップの国であるべきだ”みたいな信念が強すぎると、独裁国家の軍事的な暴走が起こるのかもしれない。

 宇宙規模で遠目に遠目に地球での出来事を眺めてみると、もしかしたら、本当に人類の存在意義みたいなものってそもそもなかったんじゃないかって思えてくる。「ここからここは俺たちの国だ」とかいう考え方が地球の大地に境界線を引くことになり、それ故に戦争が起こるようになったと考えれば、早いところ国境なんか無くしてしまったほうがいい。人間だけだよね、こういう愚かなことをするのは。

 念仏のように「戦争反対!」って叫ぶだけで戦争がなくなるなら楽だよね。反戦デモに参加するような人たちのことを責める気はないけれども、気持ちだけでなんとかしようとし過ぎ。だからって戦場に行って戦えばいいかというとそうでもない。

 せっかく知能を持っているのだから、新しい世界を作るための発信行動をすることのほうが発見や創造がたくさん生まれそうだよね、みたいな話をすればいいのにって思ってしまう。

 正直、いつまでも戦争が終わらないのは、武器弾薬支援とか義勇兵募集とかを延々と繰り返しているからだよね。経済制裁とか反戦デモとかもすべて逆効果。過去の歴史でやっていたようなことをマネしていてうまくいくのか考えたらいいのに。むしろ、制裁対象の国を刺激して戦争を長期化させて被害を拡大してしまっている。

 現代でもこういう状況が起きていることに“時代遅れ”みたいなことを言って片付けようとしているコメントもよく見かけるけれども、そうではないよね。そもそも人類は持ち得るあらゆる知識・技術・お金・人・武器・思想・機会を都合の良いように扱う生き物なのであって、戦争が特別に古いわけではない。「国益のためなら国際社会から非難されようと戦争をする」というのが独裁国家の思想にはある。ただこれを国際社会が法律上認められない犯罪行為だと認めるから悪とするのではなくて、人類がそういう歴史をたどってきたことへの反省をいくらしたとしても、「お前の国も過去にこういうことをしてきたじゃないか」と何年経とうと蒸し返される。

 昔は良くて今はダメ、そういう短絡的な議論ではなくて、現代でも戦争や紛争が起こるのはなぜなのか、その原因を突き止めたとしても、きっと完全に平和な世界は訪れない。なぜなら、今さら人が“人間であるが故の優位性”を疑うことがないから。どんな力でも、人間の身の丈に合わない過剰な力を手にするとろくなことはない。その点、未だに“人間は力を過信する生き物である”ことは、どんなに時代が流れようと変わることがない。

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