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◆正しさや完璧にこだわるよりも、「〇〇し続けることを諦めない姿勢」のほうが大事なんだろうな

 他人というのは、常に身勝手で、いろいろ言ってくるし、あれこれしてくる。でもそれは、決して悪い意味ばかりではなく、良い意味でも他人は身勝手なんだ。常にね。

 年がら年中、こちらの意図や気持ちを理解してくれるわけではないし、こちらも年がら年中、自分以外の誰かの発言や行動を理解できるわけではない。そういう意味では、他人だけではなく、自分も同じく身勝手なのだ。

 ドラゴンボール超の孫悟空が無我の境地とも言える「身勝手の極意」を会得した時のシーンを見ていて思ったんだ。相対する敵の攻撃がまったく当たらないし、見た目には何も攻撃していないのに、気が付いたら敵が吹っ飛ばされている。「おめぇの攻撃は全て見切った」とでも言わんばかりに、悟空は敵を翻弄する。

 ヘッダーの画像、これは完璧な作品だと思う?それとも不完全だと思う?

 オレはさ、画像を作成する時に、そんなことは1mmも気にしちゃいないんだよ。自分が描いた画像が完璧であるかどうか、そんなことは「これを見る人たち」や「これを自身の投稿するnoteのヘッダーに選ぶ人たち」が感じることであって、描く側がこだわるべきは「自分がどう感じるか」ではなく、「自分以外の人たちがどう感じるか」だけなんだよね。

 何度画像を描いても、自分が描いた画像に自分が満たされることは一度たりともない。不思議なものでね。

 自身の感性から描かれた画像が誰の心にも響くものでなければならないなんて、そんな大義を押し付けられたとしたら、たぶんオレは画像を描くことを楽しむことなどなかったかもしれない。

 今となってはほぼ確信に近いと思っていること、それは、「どんなに素晴らしいノウハウを駆使しても響かない人には響かない」ということ。下手にそんなもんに頼って何度かうまくいったとしても、いずれ「ノウハウに頼らないと自信が持てないまま」になる。そのように染まっていくだけで、自分の持ち味が活かせなくなるんだよ。

 ただ、全くの無駄とも言わない。ノウハウもそういう方法や手段があるんだってことを事実として参考程度に捉えておくことには是も非もないんだよ。何が良くないかって、自分で感じ取りながら工夫するってことをしなくなることなんよ。

 現在どんなに不器用で下手でも、気付きや学びを得ながらたくさん失敗しながら感じ取りつつ積み上げていけば、自分じゃないとうまくいかない魔法のアプローチみたいなものが確立されていくと思うんだ。ただ、それを他の誰かに説明して教えようとしても、なかなかすぐには理解されないし、うまくいかなかったりして、結局教えることを諦めざるを得なかったりする。

 叩き上げのスキルというのは、一朝一夕で自分以外の誰かが真似できるものではない。そういう認識を前提として新しいことにチャレンジしてみたり、これまで自分ができなかったことをできるようになるために失敗と工夫を重ねてみたりすることがどうしても必要になる。

 今自分ができないことがどんなことであれ、できるようになるまで理解することを諦めない姿勢を維持することが何より大事。一度できてしまえばいいわけだからね。

 進撃の巨人にて、ハンジ・ゾエがアルミン・アルレルトに託した「調査兵団団長の継承のシーン」での言葉だ。いい言葉だよね。「理解することを諦めない姿勢」。

 なんせ、オレ自身が物事を理解するのに何度か失敗を要するものでね。それ自体、恥ずかしいとも何とも思わないし、一度失敗したことは二度と失敗してはいけないとも思わない。機械じゃないんだから、同じ失敗だってするでしょ。二度三度同じ失敗して、ある時気付くことだってあるでしょ。「あぁ!!こうすればよかったのか!!なんで今まで気付かなかったんだろう!!」って。

 そうやって気付けたことってのは絶対に忘れない。ただ、それまでの道のりが物事によっては長く続いたりする。だから、理解することを諦めない姿勢が常に大事なんだなって思うんだ。他人の失敗を笑ってる暇があったら自分も失敗を重ねられるだけの挑戦をすればいい。

 キミもそうは思わないかい?同じ失敗をする人は反省していないとか、学習していないとかって言いたがる人がいるけれども、そう言いたいのはわかるが、思うだけにしてもらいたいね。結局、自分がどんな失敗をしたとしても、それは自分の問題であってそうやって言いたい人たちには直接的には関係ないことだから。

 他人は身勝手なものさ。良い意味でも悪い意味でも。

 やることが多くて忙しい、そういう時ほど焦ってしまうもの。だからこそ、スローダウンして一つ一つじっくりこなしたほうがいい。限られた時間の中で一人の人間ができることには限界があるし、効率よく行動するにしても正解がないものだからね。

 それでも、理不尽なことを言われてしまうことはあるもので、感情的になる人はなる。なぜなら、相手に事情を理解してもらいたいと思っているから。でもね?相手もこちらも忙しい状況で自分の事情だけは理解してもらいたいってのも違うと思うんだ。その点で言うと、相手からしたらそれこそ理不尽な言い訳にしかならない。

 じゃあ、どうすればいいのかってことなんだけど、失敗しながら、いろいろ言われ続けながら、気付きを得つつ、工夫しつつ、コツを掴みながら、効率を上げていくしかない、ということになるよね。

 Dr.Xの大門未知子は「あたし、失敗しないので」って言い切っちゃうけど、それはプライドの問題であって、彼女も過去には多くの失敗を積み重ねてスーパードクターに成り上がったというストーリーがある。人間誰だって失敗するし、同じ失敗だってすることもあらぁーな。

 字を綺麗に書ける人を成功とするなら、字を綺麗に書けない人は失敗か?じゃあ、なぜ字が汚い?反省が足りないからか、それとも学習していないからか、という話にもなると思うんだが。パワーワードなんよね、失敗、問題、反省、学習のどれも。

 もう一つ共通項があるとするなら、失敗も問題も反省も学習も「理解し続けること」を要求されるよね。

◆どうして失敗したんだろうか
◆どうしてこれが問題なのか
◆何が悪かったのか、何が不足していたのか
◆どのように学べばいいのか

 ね?失敗したことが問題なんじゃない、問題が起きたことが問題なんじゃない、反省しないことが問題なんじゃない、学習方法を考えないのが問題なんじゃない。

 問題なのは、結果に対して理解することを放置することが最大の問題なんだと思う。結果に対する危機感が欠如している人は、きっと何度でも同じ失敗を繰り返すのかもしれないし、それ以上に大きな失敗をするのかもしれない。

 でも、理解し続けることを諦めない姿勢さえキープしていれば、一つ一つの失敗を結局のところ突き詰める思考回路が徐々に形成されていくんだと思う。人間の脳はそういうものだ。先ほどパワーワードと言った4つの単語を言い換えるとするならば、手抜きワードなんだよね。失敗、問題、反省、学習、デフォルトの意味は誰でもわかる。でも、状況に応じたそれぞれの言葉の意味としては具体性が求められる。それを省いたのが手抜きワードだ。「それくらい理解しろよ」と暗に言っているようなもの。

 だから、できていないからといっていろいろ言われたとしても気に病むこともないし、腹を立てることもない。人が知識や物事を真に理解として落とし込むには、「リアルな感情の揺らぎ」が必要なんだ。

 注意・指摘をされている時に、相手に対して申し訳なさそうにするのが上手な人がいるけれども、そういう人は話半分にしか聴いていないし、それをここで意味する「理解し続けることを諦めない姿勢」とは程遠い態度であると言える。だから、理解していないのに理解しているふうを装ってまで申し訳なさそうにする意味はないのよ。ただ、理解に徹することが大事なのであって、感情の揺らぎがあるのなら、きっとその部分においては真に理解したと言っていい。

 理解に至るまでのスピードなんて個人差があって当然。それを、さも当たり前のように誰でも理解するし誰でもできるみたいに極論を並べ立てるような言い方をする人がいるとしても、それでも相手が何を言わんとしているのかを理解することに徹すればいい。

 そういう意味でも、このnoteというのは自分の思考の言語化という点において、非常に良い機会になっているんじゃないかと個人的には思っている。長文を書くと「もっと短くまとめろ勢」が必ず一定数居るんだけれども、誰もがそういう主旨で思考の言語化をしているわけでもあるまい。

 他人の言葉や行動でモチベーションや気分、感情の起伏が大きく変化する人というのは、常に他人に振り回される。それよりは「これでぇー良いのだぁ~🎵これでぇー良いのだぁ~🎵ボンボンバカボンバカボンボン🎵てーんーさぁーいいぃーかだ🎵バァーカボンッ🎵ボンッ🎵j」ってヘラヘラしながらそう思える人というのは日々着実に成長している。

 常に相手の期待どおりに、常に相手の期待以上に発言・行動したとして、果たしてそれは本当に自分のためか。果たしてそれは自分の本意か。なるべくね、背伸びせずに向き合える人とのコミュニケーションを大事にしたほうが良いと思うんだよ。そうでないと身も心も疲弊してしまう。

 時に、相手の期待に応えようとした言動や行動が、不本意な結果を招くこともある。というのも、それが単に自分の身勝手な思い込みだったり、相手が望んでいないことだったりして、迷惑がられたり、煙たがられたりすることもあるからだ。

 それ故に、他者を相手にする時は、「きっとこうだろう」と決め込んで発言したり行動したりしないほうがいいと思うんだよね。全ては相手とのコミュニケーションの中で、リアルタイムでマッチさせていく繊細さが求められる。頭ではわかっていてもそう簡単ではないほどに、他者というのは非常に曖昧で、自分に対して持っている感情や印象もぼやけている、と思っていたほうが良い。

 どれだけ言葉を交わしたとしても、無意識に演じてしまう人は多いかもしれない。でも、演じているうちは相応の距離感が維持されていて、それ以上に距離感を縮めようと思えば、時間も労力も言葉の量も質も必要になる。難しいものなんだよね、元より、コミュニケーションというのは。

 だからこそ、大前提として「理解し続けることを諦めない姿勢」が必要なんだろうなと思う。見た目が8割とか9割とかってよく言うけど、それは「見た目では」ってことであって、関わる回数や時間が増えれば増えるほど、その中で互いにこれまで見せなかった一面・側面を見せ合うことで初見のイメージは変わっていくはずでしょう。

 先週ね、仕事が終わったのが19時で、それから電車の駅に向かって歩いていたら、大きい交差点の横断歩道で、中央分離帯の縁石を飛び越えようとしたおじいちゃんが顔面から転倒して気を失った現場を目撃して、顔から大量に血を流して倒れていたんだ。

 すぐに5名くらいの人たちが駆け寄り、声をかけ、救急車を呼び、周りにはギャラリーが集まり、慌ただしい様子。その光景を見てオレは瞬時に別のリスクをキャッチ。道路のど真ん中でそのような状態。当然、信号が変われば自動車が向かってくる。

 だから、交差点の真ん中に立って、交通整理をしてみた。直進車に対して右折するように腕を回して合図。救急車が来るまではやらねばと思って、数台の車の運転手に事情を説明したりして右折してもらった。救急車はまもなく到着し、おじいちゃんを搬送。

 声掛けをしたり救急車を呼んだりしていた人たちからは「ありがとうございます」とお礼を言われた。その話を父にしたら「意外だな」と言われた。自分でも意外な行動をしたものだなと思ったんだけど、その場の状況に対して直感が働くと体が勝手に動くんだよね、不思議と。このままだと二次災害になりかねない、そう思った瞬間には交差点中央に向かっていた。

 時々自分の行動がわからないことがあるんだけど、なんだろうね、瞬時に自分の役割はこうだ、と、自分にできることを秒で決定して動けるのかもしれない。それが自分でも意外な一面なんだよね。

 状況把握とかその時々の判断力とかが優れているというよりは、感情が左右されないために冷静に行動できる、と言ったほうが正しいのかもしれない。危険予知、危機察知、そういうことに対するアンテナが働くのかもしれない。

 理解し続けるというのは簡単ではないけれども、その時々で自分にできることを決定し行動できるというのは、理解し続けるその最中でさらに求められる要素なんじゃないかとも思える。どこでそんなものを宿したのかは記憶にないんだけど、こんな感じで、自分にできることはすぐに行動に移すことの大切さを目の当たりにした気がする。

 久々の投稿だったので、最後にもう2枚の球体アートをアップすることにする。今回は以上だ(・∀・)

 ではまた次回までお楽しみに~🎵(・∀・)

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