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◆備えにも限度がある

 小惑星が太平洋に突っ込んだ場合、高さ数十キロの津波が全方位に向けて時速数百キロで広がっていく。ともなれば、太平洋に面している日本はもちろん、アラスカ、カナダ、アメリカ、南アメリカ、シンガポール、インドネシア、フィリピン、オーストラリアなどなど、瞬く間に津波に飲まれ、壊滅的な被害が起こることは容易に想像ができる。

 それに留まることなく、全ての大陸を飲み込んでいく。津波だけではなく、岩盤も同時に捲れ上がり、大気圏を突き破って上空200km以上から無数の岩の雨が降る。絶体絶命と言っていいレベル、生命の終焉を迎えることとなる。

 では、仮にそこまでの致命的な災害ではなくとも、これに近い自然災害が起こるとして、人類はどこまで備えることができるのだろうか。仮に命が助かったとして、その後はどうなるのか。

 そんなことを日々畏れて生きるくらいならば、今を楽しく生きたほうがいい。人が感じる不安とは、ほとんど幻想に近いものであって、実際にその時になってみないことにはわからないことがほとんどで、想定可能な未来に不安を感じることの無意味さを理解したほうがいいと私は思っている。

 動いていないと余計なことを考えてしまい、余計に不安になったり心配になったりしてしまい、その場に立ち止まってしまう。反対に、そうしたことを考える暇もないくらいに動いている時というのは、充実感さえ感じながら過ごすことができる。

 そんなことは誰もが頭ではわかっているはずで、まったく気にも留めることもなければ毎日楽しく過ごせるのかもしれない。しかし、世間には余計に不安を煽る者たちの存在がある。それと真正面から向き合うことが無意味とは言わないけれども、煽られるのは違う。

 所詮、個人にできる程度のことというのは高が知れている。そうは言っても中国の中央集権的独裁政権は一線を越えてきたなと感じさせられる。きっと台湾有事は避けて通れない歴史上に刻まれる不幸となる可能性は否めない。

 台湾有事だけで済めばまだいいのかもしれないが、戦争とは不思議なもので、全世界への影響を与えるものであり、戦争が連鎖することも十分に起こり得る。

 では、そうなった時、どのように、どこまで備えたらいいのか。そういうことを考える意味はあるのか。否、戦争に巻き込まれるとなれば、とりあえずすべてを諦める覚悟は必要だろうと思う。いくら戦争反対と叫んでも起こるのが戦争。

 大きい権力を持つ者たちの国家同士の大喧嘩には、一市民にはどうにも抗いようがない。槍を持って戦うのか、銃を構えて敵を迎え撃つのか。もう昔のような戦闘イメージではないのが現代の戦争。無数の兵器ドローンが襲ってきたら抗いようがない。

 義勇兵募集も参加も、愚の骨頂と言わざるを得ない。戦うことの正義をいくら掲げても、多すぎる犠牲を払うことには変わりないし、結果、互いに重いダメージを追ってから気付くことになる。戦争は良くない、と。

 ところが誰一人として戦争回避のための正解を持たない人類は、それでも戦争を繰り返す。戦争を無くすには、人類が滅亡する以外に道はないのかもしれない。

 ただ、国家間の大規模な戦争だけが問題なのではない。個人としても、避けるべき争いは極力回避しつつ今を生きる努力は必要だろうと思う。私たち一般市民にできる備えとは、人的トラブルの回避、身の回りのリスクへの備え、それくらいだろうと思う。

 とは言え、リスクのあるところに近づきさえしなければ、リスクはリスクに非ず。君子ではなくとも危うきには近寄らずって考えは正常だ。

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