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◆言葉の意味を真剣に再考する時間 #3

◆時代にそぐわないものは上書きされていく

【1】上書き文化が今になって急加速し始めた

 この5年くらいで、YouTubeやオンライン番組のインフルエンサーが提言し続けてきたことが世間に浸透し始めて、直近では新たなインフルエンサーの出現も相まって、一層これまで変化を拒んできた思想や仕組みについて歯に衣着せぬコメントで多くの人々に気付きを与えてきているように感じられる。

 それらをすべて鵜呑みにすればいいという話ではなくて、そうした新たな発信をしている人たちの言葉を見聞きして、これまで自分が当たり前だと思っていたこと、信じてきたことはもちろん、個人的に疑問に思い続けてきたことなども含めて“再考する機会”にしていく習慣がその重要度を増しているということ。

 「これってどうなの?」「おかしくないですか?」「なんでですか?」「なんか根拠みたいなものってあるんですか?」など、仮に内心そう思っていても面と向かって言える人というのはそうそういるものではない。多くの人たちは、仕事上で貯め込んだ不満を居酒屋で酒を呑みながら吐き出すことを「サラリーマンらしさ」みたいなものとして刷り込まれてきて、実際に仕事ではそうしたストレートな物言いは避けてきた。敢えて「日本人らしさ」と言うまでもない。

 確かに、日本には「本音と建て前」みたいな慣習が根付いていて、人に向かって思ったまま感じたまま本音を言うことがタブー視されてきていて、“おかしいことをおかしいと言えない空気”を集団で保ってきた。また、そうした空気をブチ壊すようなことを言う人のことを“空気の読めないヤツ”という言い回しをして揶揄してきた。でも、内心では「よくそんなことを言える勇気があるよな」「自分には無理」と思いながら見ているだけの人もいるだろう。

 得てして空気を読むことよりも議論のテーマに対して核心に迫ろうとする質問を連発する人は周囲からはギョッとされたり煙たがられたりするもので、なおかつ、そういう状況になることも前提として議論に一点集中することのできる人でもある。

 触らぬ神に祟りなしという考え方であれば、空気を読もうとしない言動をする人のことは避けたいはずで、集団組織においてそういう種類の人たちの比率が高ければ高いほど、いくら年月が過ぎようとも「おかしいと思っていることを変えることをしない組織」として、世の中の変化にどんどん取り残されていく。(本当はそれでいいと思っていないだろうに、その点だけは人任せだったりする。)

 これまで私もいろんな職場で働いてきたけれども、言うほど融通の利く組織などなく、2社くらいだったかな、改善点を吸い上げてアイデアを共有するような取り組みをしている職場は。組織の規模が大きかろうと小さかろうと本来はそういうことも徹底的にやったほうがいいはずで、どちらかというと小規模組織よりも大規模な組織のほうがやらないといけない。

 多くは上意下達(じょういげだつ)のトップダウンに偏った組織で、下意上達がきっちりと運用されているところは珍しいかもしれない。「報告書を提出するように」と言うだけの上司はその書類にダメ出しをする仕事に専念するだけで“自分の目で確かめる”といった現地現認を怠る無能がほとんど。

 でも、その上司もかつては自分の上司から同じことを強いられたために、部下にも同じことを強いるようになってしまう悪循環の中で、ある日重大な確認漏れや報告ミスが起きたりして、現場の状況が正しく伝わらないことが繰り返されてしまう。300回に1回は重大なミスが起きてしまうと言われる確率論、ハインリッヒの法則の典型的な事象はそうして積み重なっておきてしまうのかもしれない。

 変えなければいけないことが多い、今になってそう気付かされることになったのも、海外と比較してのことだろうと思う。ようやく勤務時間もフレックスタイム制が導入され始めて、働き方に自由度が増してきているけれども、労働の義務に関して言えば、働く環境がどうであれ・・・というのがこれまでの在り方だったのが、そうではなくなってきているのも“上書き”が加速してきているからだろう。

 おかしいことをおかしいと言えることも、おかしいと言われて真摯に受け止めて上書きに努めることも、これからは思いのほか高い貢献度を担うアクションになっていくかもしれないね。今はいろんな意味で過渡期だけれども、今からでも変えられることをどんどん上書きしていって、より充実した仕事人生が送れる社会にしていくことが必要かもしれないね。そういう時期だと思えば、一人一人の感じることや思うことも強ち無駄ではない。あとは、“気兼ねなく言える場”を如何に用意できるかってところも大切だね。

【2】よく例えに使われる「CDウォークマン」

 もうさすがにいないよね、街中を歩いている人たちの中にCDウォークマンで音楽を聴きながら歩いている人。つまりはそういうことなんだ。スマホが普及してからというもの、端末で大抵のことができるようになった今、楽曲のストリーミング再生ができるのだからCDウォークマンはいらなくなったし、テレビ持ってませんって人も増加傾向にあるんじゃないかな?

 私も、家に液晶テレビはあるけれども、コンセントを引き抜いたあの日から8年が経過しようとしている。現在のテレビ局事情は大変らしいね。確かフジテレビ局だったっけな。50歳以上の従業員向けに希望退職者を募集していたような気がするけれども、企業としてのスタミナを保てるだけの収益がだんだんと望めなくなってきていることの現れなんだよね。みんなスマホで動画アプリ使っていろんな番組を見るのが主流になってきているのだから、当然の流れと言えばそうなんだろうけれども、いつまで耐えられるかな。

 NHKも完全にオンラインに特化すればいいのに、国営局だからって収益手段が民間放送局のようにはいかない面倒な決まり事があるとかないとかで、よくわからない集金方法を未だに続けている。でも、YouTubeでも集金人のつるし上げ動画は最近まったく見なくなったね。あれが良くも悪くも抑止力になっているように思うけれども、テレビそのものがオワコン化しつつある中で受信料を払うことを法律が義務化しているのもよくわからない。

 民営化して収益源の確保とか資金調達しやすい株式会社化とかやってしまえば、あとは市場原理に基づいてNHKの番組を見たい人だけが毎月課金する感じにすれば集金人に支払う人件費も必要なくなるのにね。そういうところだと思うんだよね、旧態依然とした体制がもたらす障壁というか問題というか。変にこだわるからそうなるんだよ。まあ、あくまでも個人の感想だけれども、NHKの番組の中身まで批判するつもりはなくて、好きだと言っている人たちはいるわけで、上手に運営していけばいいのになーと思っている。

 社会から消えていくモノや考え方や価値観は、技術革新やグローバル化がもたらすもので、それだけではなく、自然環境の変化も大いに関係してくるよね。これからは脱炭素政策がどんなメリットを生み出し、どんなデメリットをもたらすのかを身を以って体感することになると思うけれども、こういう変化に対して批判的なことを言うだけなら簡単なんだよね。日本だけの問題ならまだしも、国際社会全体が問題視していることだから独りよがりでもいられないわけよね。 

【3】上書きの起源

 人類が知能を持つようになって、石器や土器を使って狩りや火を使った料理をするようになった古代の暮らしにおいて、すでに生活全般の上書きは起きてるんだよね。

 いろんな分野で発見や研究が繰り返されてきたことで、移動手段である交通関連技術も目覚ましい発展を遂げ、医療においても医薬品や術式、リハビリや介護においても上書きが何度も繰り返されてきた。

 では、なぜ日本は経済成長が足踏みし始めてからおよそ30年、既成概念の上書きを怠ってきたのか。特に教育に関して言えば、もっと早く上書きされるべきだったのに、そのことが今となって複雑な問題を山積みにすることになってしまっているのは、ハッキリ言って社会の変化に付いていけなかったことを如実に表しているんだよね。

 今から大学を卒業しても、今から個人が起業しても、よっぽど現代の新たな需要に応えられるだけの独創的な何かがない限りは真似事で終わってしまって、言うほど成功したり貢献したりするってことは難しいとまで言われ始めている。いろんなことが飽和しているということにも起因していると考えられなくはないけれども、新しい産業を生み出すだけのパワーが日本には不足している。

 正直、少子高齢化による人口減少は多くの問題を噴出させているけれども、この問題を解決しようとすることがそもそも無理な話で、実は、妥協点をいくつかハッキリさせた上で、そこに対してコミットしていく社会の上書きをしていくほうが無理なく負担を軽減していける気がするんだよね。こればかりは産めよ増やせよというわけにはいかない。

 仮に、国が若年層を対象に結婚や出産を支援する給付金政策を実施したとしても、大して期待できるほどの費用対効果は得られないことが想定されると私は思っている。というのも、現代の20代30代は、このご時世も相まってかつては誰もが望んだ結婚や出産などよりも、「生きたいように生きる」ということを信念に掲げている若い人たちが増えてしまっていて、お金を配れば出生率が増えるだろうと考えるのはあまりにも安直で短絡的だと言わざるを得ない。

 人は、一度知ってしまった自身の望む生き方をお金を貰えるからといってそう易々と変更するものではない気がするんだよね。むしろ、貰えるものは貰って自分のために使おうとする人たちを量産するだけで、支援策は失敗に終わるような気がする。

 第一、自分たちの親世代を見ていて、どれだけ大変かがわかっているのに、将来の夢は結婚して子を授かって温かい家庭を・・・と考えるほうが時代の変化に逆行しているということを、今の若い子たちはすでに気付いていると思う。そういう現実が毎年の出生率や離婚率などの統計データに数値として表れていることは事実なのだから否定しようがない。毎年80万人を割り込む出生率は向こう20年くらい続くだろうね。

 であれば、少なくともそういう社会になりそうだということはおよそ見当がついているのだから、そこを目がけて社会を上書きしていくほうが理に適っていると思うんだよね。ちょっとね、あまりに社会福祉にお金を投じすぎていて、若者たちに絶望しか与えないような政策を継続するのは誠に遺憾よね。

 上書きの起源は古代からあったことで、それを怠った時代は、変化し続けている社会の中で、おかしい価値観や常識に染まったまま人生を生きる時代となる。実のところ、上書きを要するタイミングは常にあると思っておいたほうがいいよね。言うだけ言って議論する機会にすればいい。別に「それっておかしくないですか?」って誰が言い出すかなんて少しも問題ではない。それよりも、世間体や周囲を気にして批判を恐れて言わないほうがかなり問題。

【4】50歳以上の人たちの考え方や価値観を変えようとすることに奔走するのはロスが大きい

 これは間違いないと思うんだよね。半世紀以上を生きてきた人たちが、これからを生きていくために価値観を上書きするとはちょっと考えにくい。いるとしても高齢人口全体の10%くらいじゃないかな。で、何が問題かって「50歳以上の労働人口が上のポストを占めている」ことね。

 フジテレビは時代の流れに突き動かされて希望退職者を50歳以上の従業員から募っているわけだけれども、何もこれはフジテレビに限ったことではなくて、大企業は特に選択を迫られていると思うんだよね。それに、中小企業だって結局はそうなっていくと思う。どれだけ20代30代の機会を奪ってきたか。社内評価がちゃんと為されているかどうかなんて終身雇用が健在だった頃は二の次だったんだから。

 上書きの対象になるのは、会社にしがみついている「怠惰な従業員」。年齢が50歳以上でも会社に貢献している人は残り続けるよね。実質的に能力が求められているのは若い世代でも高齢世代でも同じこと。これについても、もっと早い段階で上書きしていてもおかしくなかったはずだよね。

 モノや価値観だけではない。上書きされるのは「会社に必要とされなくなった人材」も対象になる。そういう時代がようやく訪れた。基本的に“発言力に乏しい他人事社員(ヒトゴトシャイン)”は会社にいられなくなるようになる。我関せずで仕事してきた人たちって、そうではないアグレッシブな発言をしてきた社員と大別されるのは容易なことで、やろうと思えば即日できる。

 で、一度そういう仕分けをされてしまったら、右から左へというわけにもいかないんだよね。ほとんど手遅れに近い。ただ真面目な社員というよりは、上下関係に踊らされずに真っ向から(会社のために)発言できる人であれば、仮にそれが不意になったり間違っていたと気付かされたとしても、そういう人の存在は会社としても貴重なはず。他人事みたいに問題と向き合わない人は給料以上の仕事をすることは難しいよね。

 「もし自分が経営者だったら」「もし自分が人事担当者だったら」という視点で日頃から足ごとに向き合っている人はその辺の感度がそもそも高いから、同僚、部下、上司といったどんな関係性の人に対しても一定の見方をしつつ仕事をしていると思うんだよね。社長とか人事部長とかそういうのはあくまでも肩書に過ぎないのであって、働く以上は誰に対しても仕事をする上で求められる観点で向き合う意識は最低限必要かもしれない。

 そういう意識を持つだけならタダだし、ずっと続ければ役に立つようになる。でもこれって他者から言われて意識するようになるものではないし、それでは継続はしないんだよね。自分でそういうことが大事なんだと気付けるかどうかが前提だったりするから、一概に推奨すればいいという内容でもない。50歳以上の従業員に対してはもっと無理。言ってもそうはならない。これからは会社側もその辺はどんどん割り切って20代30代に全振りすると思うんだよね。良い方向に変化しつつあるように見える。あとは、実態がしっかり伴っていくことが重視されるといいが。

◆壊して再建するか、維持して修正するか

【1】ドミノ倒しも自動化できる

 ウクライナ情勢もアフガニスタン情勢も激化する中、北挑戦のロシア側支援目的でウクライナ侵攻に軍事介入する可能性が浮上してきている。さらには、降伏せず抵抗すれば殲滅するという語気の荒い声明をロシア政府が発表するに至っていて、戦術的核兵器の使用を示唆している。

 これほどまでに世界情勢が乱れていると、戦争というものの本質からもわかるように“終わらせ方”が難しいものではある。

 行くところまで行かないと終わりは見えてきそうにない。まるで、何時間も、何日もかけて並べたドミノを倒し始め、最後まで倒れるまで眺めているしかない状況と似ている。誰もどこの国も具体的な停戦手段を行使できていない。

 国の発展には何年何十年と歳月を要するものの、戦争が起きればあっという間に荒野と化す。そして、復興にはもっと時間もお金もかかる。

 国際社会は、こうした有事に対して機能的解決手段を行使できるようにしていかないことにはあちこちでドンパチし始めたら手のつけようがなくなる。

 ドミノを並べる側と倒す側とでは労力に雲泥の差がある。きっとロシアは壊して奪うほうが早いし、その間、高い支持率を保ったまま政権を維持できるという目論見もあるのかもしれないけれども、侵攻開始から終戦までの日数が一週間以内の電光石火での解決を可能にすることができたなら、被害も最小限で済ませられるといった理想論を語ることはできるかもしれない。

 数千個のドミノを並べるのであれば、自動化して機会に並べてもらうほうが早いし、いろんな並べ方も可能になる。イメージとしては、田植えの自動化みたいな感じかな。ドミノを積んだ機会を動かすだけでどんどん並べていく。

 理想を言えば、軍事侵攻が始まった段階で、これに近い防衛策をほとんど自動に近いスピードで配備できればいいのになぁと。開始からおよそ二か月が経とうとしている今、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟で戦術的核兵器の配備をするとまで言い出している。長引かせると良いことがない。

 人の手でドミノを並べていると、途中でうっかり倒してしまうことがあり、また最初からやり直し、ということにもなりかねない。人の手で、人の言葉で、どうすれば戦争を止められるのかを議論したところで、事態は急激に悪化しているのだから「手出しができないレベルの防衛」をどれだけ早く仕込むかにかかっている気がする。

 ロシア軍の侵攻経路を衛星を使ってリアルタイムで追いながら、経路を遮断することができればいいのにね。「地上からは侵攻できない」それだけでも実現してしまえば、一般市民の被害も少なくて済むような気がする。

 結局、防衛と言いつつも、これだけ日数が長期化してくると、発端は発端で善悪のポジションは明らかなんだけど、途中からどっちもどっちみたいな見解を持つ人たちが出てくるのは、侵攻されてる側も最後まで戦うと何度も明言していたりして、お互いにかみ合わない中、意地の張り合いが続いてしまうからなんだよね。この点だけはドミノでは例えられない真逆の意味になってしまう。

 一列に並べたドミノを左右両方から同時に倒すと、中央点でぶつかって止まるんだよね。戦争が起きた時にはこういう流れがすぐに訪れると停戦交渉もしやすいと思うんだけど、互いに折り合う気がない状態が長引くと、別の問題が次々と生じてしまうことになるよね。

 今回みたいに「食糧や武器や軍資金を海外からどんどん送り込んで支援しようぜ!」みたいなことって、戦争を助長させるだけだと思うんだが、そういう認識をしている人ってどれくらいいるんだろうね。やっちゃえやっちゃえ的に煽る感じの声もかなりあるみたいだけど、ウクライナ募金に応じて良いことした気になるのは個人的には違和感しかない。正しいとか間違いとかはっきりしたことはわからないけれども、やってることがおかしいことってあるよね。なんかこういうことについては再考が必要で、上書きが必要ならすべきだと思うんだよね。

 前回も書いたけど、ウクライナに折り鶴を送るのには本当に理解できない。気持ちだけもらっても反感買うだけってことが何でわからないかな。生きるか死ぬかの時に折り鶴もらっても、近隣国に避難してる状況下で折り鶴をどこに飾れというのか。人によっては、こういうものを大量に作る時間があっていいよねって思ってしまっても不思議はない。小さな親切なんとやらで、時と場合と心情がわからないのであれば、自分らの気持ちだけで余計なことはすべきではないと思う。よくわからないものを貰っても困るだけだろうからね。海外には「つまらないものですけど」的な文化はないから。

 一生懸命に並べて完成したドミノが倒れ始めたら、たとえ複数カ所で同時多発的に倒れ始めたとしても、瞬時に自動的に倒れていくドミノを遮断して止める。これに似た防衛策が必要だろうと思う。国防のヒントはドミノ倒しにある。時間は待ってはくれず、手を施さなければすべてのドミノが倒れていくのだから。

【2】人が目にする光景から感じることは一般的な想像の域を超えて異なるもの

 初めて海外留学でアメリカのアリゾナ州へ行った時、グランドキャニオンを一望したことがある。初めて見る壮大な景色に人が何をどう感じるかは感受性が大いに関係するのかもしれないが、見て感じたことを言葉に置き換えた時には人によって実に様々な表現をするだろうと思う。

 一見した限りでは見渡す限り茶褐色の岩山が広がっていて、上部は一面カッターでスパッと切ったような平面が広がっている。地球のプレート活動により長い年月を隆起したのだということはわかる。でも、私個人としては、グランドキャニオンが特別絶景というわけではなくて、「自分が見たことのない景色のうちの一つ」に過ぎなかったのだ。

 なんてつまらないことを言うんだろうと自分でも思ってしまうくらい、冷めた性格をしている。中国では万里の長城にも行ったし毛沢東の肖像画が飾られている天安門広場も見たし、オーストラリアにも行ってみたりしたけれども、実際に行って見たものは二次的な光景でしかなく、一次情報として知っていることも多かったのもあって、大して感動したり感銘を受けたりすることもなかった。

 それよりは、行く先々で感じる気温や湿度が日本のそれとは異なり、そこで生活をするのが日常である人々に意識が向かうことのほうが興味深いものがあった。言語も違えば文化も違い、日本の人々とは違う常識や慣習を持つ人々が社会生活を営んでいることは、観光地で見る景色よりも無意識に比較対象として見ている自分がいた。

 世界各国に観光名所があり、各国で観光客を招致するための経済政策が敷かれてはいるものの、「ここは有名な観光地です!」といった如何にもそのように見せているところは、個人としては大して興味を惹かれることはなく、観光名所目的で訪れたいという一般的な興味は私にはない。

 国内でも複数の都府県を訪れたことはあるけれども、結局どこに行っても済めば都ですぐに日常として溶け込んでしまう。その点については日本と海外では異なる感覚だろうということは衣食住のどの観点から言っても興味を惹かれるところ。

 では、仮に、911テロで倒壊したワールドトレードセンタービルの様子についてはどうか。その当時411mで総室数110室の巨大高層ビルが垂直に崩れ落ちていく様子は、恐怖・絶望といった印象が強く、あの瞬間、建物内にいた人たちは何人くらいいたのだろうかと瞬間的に考えたり、おそらくは助かった人はいないだろうと思ったりもした。こうした見方が普通の感覚なのかどうかは定かではない。

 ただ、中にはその様子を見て「面白い」「すげー」といった幼稚園児が言いそうな感想を言う人たちもいるわけだ。飛行機をハイジャックしてビルに突っ込むこと自体、本当に人間ができることなのかと信じがたいものであるはずなのに、見る人によっては稚拙な感想しか持たない人もいるのだということがわかる光景もあるということに気付かされたものでもあった。

 ドミノ倒しのように、一定のスピードでカタカタと音を立てながら倒れていく様子に多くの人々が魅了されるのはなぜなのか。一言に言えば、とんでもない時間をかけて並べたものが何百分の1くらいの短い時間で倒れていくだけの光景。この人間行動が何をどれだけ生み出しているのかという費用対効果で言い換えるのであればほとんど無駄に近い。

 そのことに気付いた人たちが次にどんなことを始めたのかというと、ドミノにからくりを複数個所に混ぜたことで、より一層人々の興味を引く光景へと変化を起こすこととなった。そう、皆さんもご存じの“ピタゴラスイッチ”のようなものである。

 何度も何度もドミノに挑戦し、長時間かけて並べては倒し、並べては倒しと、同じことを繰り返した結果、一見ドミノ倒しはドミノ倒しでしかない無駄なことのようにしか見えなかったドミノ文化は進化した。さらには、人の興味だけではなく、ネコまでもが興味を惹かれるものにまで進化をしたことで、その様子を撮影した動画に人が興味を惹かれるところにまで至っている。

 国も文化も社会的な常識も何もかもが異なるこの世界で、ドミノ文化は愛されている。愛されている文化に対しては、多くの人々がいろんな感情を示したり、感想を述べたりするもの。その結果、最初は無駄とも思えた人間活動も、文化となり、進化したり発展したりする。そのことを証明したことの一つがドミノ文化であろうと考えられる。崩れては並べ、崩れては並べ、延々と繰り返されただけなのに、そういうことになろうとは誰も想像はしていなかったに違いない。ドミノ倒しは無駄ではない。

【3】重力を利用したドミノ倒しのように

 このように作り出されたモノも仕組みもルールも、人々にとって必要なものだけではない。世の中でB級グルメが愛されているのはなぜなのか。

 それは、一流の三ツ星料理というのは滅多に口にすることができない高価な食材が使われているもので、誰もがそのようなものを日常の食生活で食べているわけではないというのが一つ。そして、二つ目には、誰もが高級食材を美味しいと感じるわけではないということ。三つ目に、B級グルメは安価でおいしい。

 誰も求めていない物に関しては、市場原理の観点から言ってもいずれは消えてなくなる運命にある。

 しかし、逆のパターンもある。多くの人々に愛されているものでも、様々な事情により惜しまれながらも消えていく物も世の中にはある。つまり、社会において上書きされる物は、不要論により上書きされて消え去るものばかりではない、ということ。

 これは、教育や働き方を当て込んで考えることができる。どちらも不要となる世界はこの先何百年経とうと訪れることはない。学びはもちろんのこと、働き方についても、もし仮に働く必要がなくなったとしても「“働く”に代替される人間活動」はずっと残り続けるからである。それが趣味なのか慈善行動なのか単なる遊びに近いものなのか、何にせよ消え去ることはない。

 教育も労働も義務だという考え方をドミノ倒しの重力作用に例えるとすれば、何世代にも亘って継続されていくであろう教育も労働も、方法論を模索実行していかなくてはならない。方針が決まってからおよそ10年おきくらいに“倒れていくドミノの方向を変えてみる”というニュアンスで物事は再編再考していかないといけない。

 上下関係の厳しい縦の圧力の強い組織形態を、横に力が分散するようにし、誰もが望む環境で教育を受けたり働いたりできるようになるまでには、もうそれほど時間はかからないかもしれない。これまでは、ランダムに一つの部屋や部署に詰め込まれた様々な経験値や能力を持った人たちが同じ環境で時間を過ごしたり、同じ目的を目指したりするのは非効率であるということに気付き始めている。

 生まれながらの知能はおよそ遺伝で決まってくるというのは科学的な根拠が証明されていて、これには年収も関係しているということもわかっている。であれば、様々な家庭環境にある人たちが同じ環境で同じ目的のためにかかわりを持たせようとするのは、比較から来る差別の温床ともなり得るわけで、これまで何十年とその疑問を解消することをせずに現在に至っている。

 敢えて人が劣等感や優越感を感じる環境というのは、劣る側からすれば「自身が望んだ環境ではない」にもかかわらず劣等感を感じることを強いられるわけで、やりたいことでもないことで劣等感を感じるのは実に面白くない時間でしかなく、なぜそういう時間に耐えなければいけないのか甚だ疑問でしかない。努力を強要する教育や環境というのは、それを望んだものにとっては何も問題はないかもしれないが、望まない者にとっては苦痛でしかないのではないだろうか。

 言い方は悪いけれども、そうした昭和的な在り方に疑問を抱かないまま社会を回してきた世代というのは、完全に洗脳されていたんだろうと思う。むしろ、社会全体がその枠を超えようとする自由を一切認めてこなかったことにも大いに起因するだろう。おかしいことは、やはりおかしいのである。

 たとえ、子の親であろうと、親の一方的な思いで子の意思を代替したり縛ったりすることは「意思(意志)の束縛」であり、場合によっては「精神的虐待」にもなり得る。そのことを見て見ぬふりをして認めないことで親のエゴが確定してしまうし、教育や働き方においても「変えたほうがいいよね」ということであれば試験的にでも変更をかけて方針を上書きしていかないといけないよね。

 いろんな問題に対して正しいか間違いかを議論しがちだけれども、現状において不平や不満があるのであれば、それを我慢させることも我慢することも「今までそうやってきたんだから当たり前だ」みたいな抑え込むような圧力をかけることこそが歪を生むと思う。言葉を交わしなさいよってことで、それを避ければ、どんな関係性だろうとうまくはいかないし、いつまで経っても折り合いが付けられない。着地しない無駄な議論がや会議が多いのは、主張一辺倒になってしまうからだよね。

【4】全員が納得する環境は存在しないという考え方が行き過ぎると分断が起こる

 環境っていうといろいろあると思うけれども、例えば地球で言うと、住む場所、住む国によって当然違うわけで、結局どこに住んでもその場所ならではの不遇というのはあるもので、多少のことは妥協していかないとどこでも生きていくことは難しいよねっていう解釈は一般的なものだと思う。

 でも、戦場になってしまった地域では、普通の生活を営むことは一切できなくなるほどの瓦礫の山と化してしまった場合、誰もが今日明日寝る場所や食べるご飯や飲み物に困るといった共通苦しかない。

 学校や会社で言うと、確かに学校や会社の方針に従ってその環境で過ごすわけだから、その範囲では調和や秩序を乱さないように過ごすというのは求められるところだとは思うけれども、自身が望まない環境なのであれば無理に納得して居座るというのは違う気がする。

 そもそもいろんな価値観や経験値を持つ人たちの集まりで、学校でも家庭環境の違いが大前提に立っていて集まっているのが各学年の生徒だから、みんな同じで、みんなで同じことをしようというのもやっぱりおかしいんだよね。すごく違和感を感じてしまう。年齢で振り分けたうえでの教育環境が当然だと思い込んでるからこそ、1つ学年が違うだけで偉そうにする先輩が後を絶たないし、その結果、働く会社でも上下関係が前提で上からの圧力に逆らえない不安や恐怖が未だに残り続けているんだよね。

 家庭でも、親だから、兄だから、弟だから、とかいうポジショントークが大前提で話をされると、家庭内で一番年が下の末っ子は「家族なのに対等ではないんだな」と感じながら育つことになるし、「兄なんだからしっかりしろ」とかいうのも違う気がする。自分の子供をバカだサルだと言い続けて子どもがまともに育つとは到底思えない。そうやって子の尊厳を踏みにじった親は、子供からは愛されない。そういう幼少期を過ごせば気力も失う。

 家庭内で父親の威力が強過ぎると、子供はただ失望する。親が子供に言うことを聞かせて、言うことを聞かなければ叱るというのは、躾なら当たり前のことだと思っている親は非常に多いだろうけれども、「なんで?」と子供から質問されて親の言葉で丁寧に答えるならまだしも、“なんで?と言わせない環境”は間違っている。家庭内が恐怖政治みたいな環境では子供が素直に育つわけがないんだよ。

 会社組織もそう。「組織とはそういうものだ」は嘘。そういうことを言う人は、指示待ち人間だったりイエスマンだったりして、自分の意思を殺してただ従うだけのマニュアル人間でしかない。もうそういう人の集まりで開かれる会議にも価値はないと思っていいと思う。

 それよりは、思っていることや感じていることをぶつけ合うくらいのことができる人のほうが重要度が増している。ゴマすり文化も空気を読め的な慣習も必要ない。

 全員が納得する環境は存在しないのは確か。でも、だからと言って大人しく黙って従えば居座れるという考え方でいても、我慢の限界が訪れるからストライキやボイコットみたいなことが起こるわけで、そうならないような環境づくりをしていれば、意義ある意見交換を企業と従業員の間で活発に繰り返すこともできる。それが前提の企業は現場のことも熟知した上で方針を定めていくことが可能になる。

 個人の思いや苦悩を封殺し続けてうまくいく企業なんて、ろくなものではない。世に言うブラック企業みたいな組織は、問題に直面するとこれを突破するよりも前に隠したり偽装したりすることを考えるため、そうした不正に従業員が巻き込まれるんだよね。ダメなものはダメと言える集団はそんなことにはならない。誰のためにもならない企業なんて存在していないに等しい。

 会社が変な方向に動き始めたら、働いていればそういう変化は肌で感じ取れるもの。そうなったら無理にしがみつくよりもそれを転職理由にしてさっさと次の職場に移ったほうがいい。企業組織は、変わろうとしていない限り変わることはない。

 時代にマッチした上書きを繰り返している企業は、そういう次元で足踏みなどしていない。企業組織の在り方をスピードよく更新していこうとしている企業でとりあえず働いてみるのがいいかもしれない。それだけでも仕事人生は明るくなる。

◆最後に・・・

 周りが変化しているのに考え方や価値観の上書きを拒んでも良いことはない。時には半強制的な推進力を要することもあるかもしれないけれども、それができるくらいのリーダーシップがあれば、上書きスピードは速いだろうし、修正スピードも速い。もっと働きやすい、生きやすい社会へ。

 古い時代から根付いている妙なバイアスから人々を解き放て。まだまだ縛られていることは多い。おかしいことはおかしいと言える環境にしていけばいい。

※最後まで読んでいただきありがとうございます(・∀・)学びはまだまだたくさんありますが、社会が変化しようとしている部分がどんなことなのかはなるべくリアルタイムで意識を向けて考えるようにしていきたいところ。また次回もお楽しみに☆次は宇宙を描いた画像をアップします。

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