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【#思考の言語化】あなたがこの内容を理解できる人かどうか、読んで試してみてください。人間はいつからか、人として生まれたことに過信している。

 「人権」という言葉がある。「尊厳」という言葉がある。それぞれの意味を確認してみよう。

#人権 #とは 】人間が人間として持っている当然の権利
#尊厳 #とは 】とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと

 もう一つ、関連語としてこの意味も確認しておこう。

#尊厳死 #とは 】人間としての尊厳を保ったままで命をまっとうすること。回復の見込みのない状態や苦痛のひどい状態の際に生命維持装置を無制限に使わないなどの対応がなされる。

 この世界では、罪人でさえ、法の下の平等という考え方から、「基本的人権の尊重」に該当するとされている。

 しかし一方では、特別何かしらの罪を犯したわけではないのに、複数の人間たちからいじめられたり辱めを受けたり、吊るし上げられ、晒し者にされたりする人たちが存在し、確実に基本的人権は侵害されているにも関わらず、その事実をもみ消そうとしたり、事実は認めたとしても受けるべき相応の罰をなかったものにしようとしたりする者たちも存在する。

 時に、皆さんに訊きたい。「人間として生まれたこと」についてどういう考え方を持っているか。

 A=B、B=C、よってC=A。こういう考え方がある。では、「人間として生まれたこと」を基準に、ABCそれぞれに以下の項目を当てはめてみて、その理屈が成立するかどうかを考えてみてほしい。

【A】事実
【B】たまたま
【C】人間としての権利は守られるべき

 まず、A=Bであるならば、「人間として生まれたという事実はたまたまである」。B=Cであるならば、「人間として生まれたことはたまたまだが人間としての権利は守られるべきである」。そして、C=Aであるならば、「人間としての権利は守られるべきであるということは事実である」。

 イコールでABC3つの項目を結び付けるとこういう理屈になるわけだが、どうも腑に落ちない点がある。

 権利を主張するのであれば義務を果たすべきである、という解釈がある。日本においては、国民の三大義務として「教育を受ける義務」「労働の義務」「納税の義務」がある。国民としての権利を主張するのであれば、この3つの義務を果たしなさいというのが日本の法律である。

 しかし、これらの義務を果たしても国民としての権利が守られない事態が起こることがある。当然、同時に「人間としての権利」を侵害されることに等しい事態だ。

#基本的人権の尊重 #とは人が生まれながらにして持つ権利を尊重すること。 憲法第11条では、基本的人権を、「侵すことのできない永久の権利」として国民に与えられると宣言している。 第25条では、生存権を保障し、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記している。

 権利と義務の話になると、否定しがたい矛盾が生じるんだ。義務を果たせない者は権利を主張する資格はないとする考え方を基準にすると、「国民の三大義務を果たせない者は死ね」という考え方が成立する。しかしこれは、「基本的人権の尊重」という法の下に平等の考え方においては成立しない。

🔶そもそも、尊い命を法という天秤でその重さを測ろうとしたことが間違いだったのではないか?

 現代社会が、日本という国が、法治国家であることに何の疑問も持たないのは、人間として生まれたことへの過信だとボクは断言する。

 都合の良い時だけ法律を盾にし、都合の悪い時は是が非でも法律に抗う、時にそういう扱われ方をされてしまうのも法の脆弱性と言える。

 さらに疑問なのは、「人間への傷害や虐待」と「その他の動物への傷害や虐待」とでは、量刑種別が異なるという点。人間の場合は傷害未遂罪、傷害罪、傷害致死罪なのに対し、動物の場合は、器物損壊罪一択であるという点。

 人種差別となると、これを無視できない重大な問題として騒ぐくせに、この世界のあちこちで基本的人権が守られていない事態が生じているという事実に対しては、その全てを解決に導く術を持たない。それが人間社会だ。綺麗事が過ぎると、そこには矛盾しかないのだということを突き付けられているような気さえする。

🔶全ての生命体に共通するのは、「元々は単細胞である」ということ

 生命が進化する過程で、生存環境の違いから様々な生物へと枝分かれして、それぞれに特有の進化を遂げてきたと言える。ところが、進化の過程が違ったために、生物それぞれの役割も異なり、唯一、人間だけは特別に権利が与えられることとなった。

 まさに、この世界に生まれた人間たちは、人間として生まれたことに対して【人間様】という上から目線の生命体であることが見て取れる。一方、牛、豚、鶏、魚介類などの生物は、人間たちによって食肉として養殖されることが当然のこととされてきた。

 ヴィーガンのデモは実際に起きている事実。その存在がこの世に生まれたことも、様々な思想の一つとして捉えれば至極当然であり、何も不思議なことはない。

 ところが、別の科学的観点から言えば、野生の世界も人間社会も、弱肉強食は生存本能と強く連動する概念であり、肉体がタンパク質で構成されている以上、牛も豚も鶏も魚も必要な栄養源であり、その命を殺めて戴くことは自然界における理であるわけで、生命を軽んじた行為ではない。

 おそらく、ヴィーガンであることを差別されるのを心底拒絶する人たちは、科学的論拠がどうであれ、自らが信じた思想に従って抗っているのであって、ヴィーガンであるが故に早死にしたとしてもきっと後悔はないのかもしれない。

 自然の摂理とは、つまりそういうことであり、これを超える思想が、差別や争いを生んでしまっているケースもあるということだろう。

 人間への罪と動物への罪に激しい差が生じているのは、「行為の目的」によって異なるからだということがわかる。動物に対してただ傷付ける目的で虐待したり命を奪ったりする行為は器物損壊罪で、食用として養殖し販売して食すことは法の下において罪に問われることはない。

 例えば、ヒンズー教においては豚は神として崇められる存在であるため食べてはいけないとされている。宗教思想とは、自然の摂理に順じているようで、実際には何一つ科学的論拠に基づいていないものでもあったりする。それ故に、争いが起こる要因となるとも言える。

 自然の摂理を超える人間たちの身勝手な思想は、差別や争いしか生まない。人種差別だってそうだろう。肌の色が違うだけで差別が起こる人間社会は、自然の摂理の観点から言えば異常極まる事態でしかないのだ。

 そして、こうしたことが社会問題として浮き彫りになると、隠れたところで危害を加えたり嫌がらせをしたりする輩が沸いて出てくる。そして表向きは清廉潔白な人間であると装い繕う。これが細胞進化の代償でもあるわけだ。

 動物も植物も、元は共通する単細胞だったのに、生命の誕生から現代に至るまでの進化の過程で細胞が集合体化した生物たちが、時に迫害や虐殺などといった無用の殺生をしてきたことは、何度歴史を振り返っても容認すべきではないと言える。理性を持つ人間が戦争をするなど、愚の骨頂でしかない。

 人間であること自体は有能な要因にはならないし、地球のあちこちで毎日のように多くの人たちが死んでいても悲しくはないように、どう生きても、いつ死んでも、万物そのものには微塵にも影響を与えない。地球における世界全体を震撼させる重大事件であっても。

 自然の摂理とは、強制的納得に等しく、感情を無効化するほど全ての物事における大前提なのだ。決してこれを超えた思想に支配されてはならない。

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