◆#贅沢とは/人々にとって最高の嗜好品が”糖”だった時代
僕らはそういう時代があったことを歴史の教科書、映画や漫画などの作品の中でしか知らない。
きっと、その時代の人たちからすれば、現代における贅沢など到底想像することなどできなかったに違いない。甘いものが欲しければ、コンビニや自販機に限らず、あらゆるところに存在している。その種類たるや無数に。
つまり、僕らは、戦後間もない頃である1945年以降に生きた人たちの求めた贅沢の数十倍、数百倍の贅沢が当たり前のように享受できていることになる。
間違いなく、贅沢の性質は時代と共に変化し、社会全体における贅沢の最低水準は加速的に底上げされてきたと言える。
して、高級ブランド品は、本当に求めるべきものか。先日配信されていたオリエンタルラジオの動画を観た感想としては、藤森さんの自宅を訪れた中田さんと藤森さんとの間には、その価値観がほとんど真逆のものであることが見て取れた。
あまりモノそれ自体にほとんど興味関心がないように見える中田さんとは異なり、藤森さんはそうした高級品に囲まれた生活をしているように映っていた。
よくここまで価値観の違う二人が長年コンビとして活動してこれたものだというのが素直な感想である。
時代の最先端の知を求めて今を生きる中田さんと、廃れつつある価値観に縛られたままの藤森さんの会話の様子には、いささかぎこちなさも垣間見えた。
何が正しいかということは自分が決めることであり、何を欲するかもまた自分が決めることではある。でも、よくよく世間を知ればこそ、自身の持つ価値観が時代のそれと乖離しているか否かは気付くものでもあるような気がする。
何が欲しいか、何をしたいか、どこに行きたいか、そういうものを求め続けて生きることこそが人生だと考える人は、一見自分の欲望に素直な人であるように映るものの、そういう人たちの価値観というのは、あくまでも私個人的な観点からはまるで別物の、別次元の価値観なのだと映る。
そのように映るということは、嫉妬も憧れも抱かないということであって、自分もその(藤森さんの)ようでありたいと思うきっかけにはなり得ない。
酒もタバコも私は好きだけれども、量的には極めて少ないけれども、少しあれば満足、そういう感覚を維持できていて、20代の頃には散々パチンコやらスロットやらに溺れた時期もあったが、今となっては段階的に更新されてきた国の規制も相まって、全く持って興味がなくなった。
よく聞く”依存症”というのは、その状態に至るに足る金銭や時間的余裕があってこそそうなるのであって、依存症にはなりようがない状態を数か月、数年と過ごすことで、気付いた頃には興味関心がなくなるほど浄化するものなのだとわかる。
決して、最低水準の生活が不幸であるということではなく、実はそれでも構わなかったのだと気付くこと、元々自分は依存症になるほど求めてなどいなかったのだと理解すること、それこそが人生における足元の幸福に気付く最大の転換点であると考えるようになった。
カネで自分は幸せになどなれはしないのだ、と。
むしろ、欲すればいつでもどこでも手に入ることに対しては、当たり前という認識よりも、少しあればそれでいいくらいの認識でいると、精神的な安定は保たれるだろう。
ミニマムに欲望を満たすことが、きっと精神的にも肉体的にも健康を害すリスクを避ける最良の手段なのかもしれない。
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