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人の上に立つ者が、自身の立場や肩書に陶酔するは、己が知らぬところで人の心に恨みを生むものと心得るべし。

 織田信長が、三河一帯の統制を成したことは、彼の先見の明と実力と策略が優れていたものと考えられる。それほど優れた人物でさえも、自身の心に傲慢さを宿し、己を神と名乗る愚考は、家臣の心情に疑念を抱かせたり、憎しみや裏切りの心を抱かせたりする。

 おそらく、明智光秀は、織田信長を親方として仕えたかったのであり、神として崇めたかったわけではなく、親方の口から「神」という言葉を聞いたその瞬間から、その先の政治に、なにやら危ういものを感じ取ったのかもしれない。謂わば、いずれ、自身の信長に対する理解の至る所が失われ、その身が危うき事態に至るかもしれないと察せられたのだ。

 間違いなく、戦国の世に起きたことは、現代に通ずるところがあるように思われる。相次ぐ裏切りに見舞われた信長が書いた御触れの内容、石山本願寺に参拝し崇め奉るのではなく、信長を摠見寺(そうけんじ)の神として崇めよと書かれたことに対し、家老がそれを控えるように忠告すると、腹を立てた信長は、家臣を信長家から追放した。

 おそらくは、これが裏切りの根本的な火種となり、信長は本能寺で命を落とすことになったのだろうと思う。

 人は、神に非ず!

 人は、ただの人にござる!

 人の上に立つ者が、自身の立場や肩書に陶酔するようなことがあれば、発せられる言葉の全てが狂い始める。

 まるで、最近騒動になっている関西電力の金銭授受問題そのものだ。戦国の世では火を侵略に使い、銃をポルトガルから仕入れ、勝つために手段を択ばないところが見られたが、現代では金で人や組織を支配する動きが日本だけではなく、世界各国で見られる。

 悪しき欲のために扱う如何なる手段も、最終的には自身を滅ぼすためのものでしかないことを、たった一度思考が狂えば、考えることすらもできなくなり、気付かないままに、至るべくして至る結果に悶え苦しむことになる。

 にもかかわらず幾多の学びある歴史から学び得ようとしないことは、この先の人生を生きていく上で、自身を危険に晒すだけの愚行でしかないということを、目先の欲望に溺れている人間たちは未だに気付くことが無い。

 N国党が戦略的だとかなんとか言っているけれども、すでに党首である立花孝志議員は、自身の立場と肩書に陶酔しているように見える。箍(たが)を外されて、初めて気付くことになるやもしれない。不特定多数の人たちから注目を集めるための能力は確かに長けているし、そのためであれば懼れる心がない。しかし、必ずどこかで、これまで集めに集めた注目が消え去る時が来るような気がする。実に哀れなり。

 NHKをブッ壊すという意味が、実のところどこまで配慮されたものなのかは察することはできないけれども、NHKを本当にブッ壊したとして、その悪しき正義による行為によって苦しむ人たちが一体何万人いるのかということは、容易に想像がつく。内部にいた人間が国会議員となり、報復同然の如く外から攻撃をしかけるとは、まんま戦国の世の武将のようである。

 信長が石山本願寺を焼き払ったように、N国党もNHKに火を放とうとしているのか。

 っていうか、明智光秀は、「仕えるべき人を間違えた」という程度では済まないところまでガマンしてしまったわけだが、信長とは相反する意志を持っていながら、よく耐えたと思う。本願寺の変は、身内の謀反としては、千載一遇の機会。天正十年六月二日、時は来たれり!!


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