見出し画像

「自由に」と言われても困る

そう言ったのは長女のあなたが中3の時だったね。
進学を悩んでいた時に「自由に選んでいいのよ」と言う母の私に対して
そう言ったのよね。

確かに。困るかもしれないね。
何が困るってあなたは親の期待を感じているけれど、その期待には応えれない。もしくは応えたくないから。応えたくないけど自分がやりたいことが明確なわけでもない。

小さい頃からピアノ等やっていて音大に行きたいと言っている友達を羨ましいとも言っていたね。もちろん、早く目標が明確になった方が叶う可能性は高くなるし、迷いがないぶん楽に見えるのかもれないけど、学生のうちから将来を明確に決めて進んでいる人は少ないと思う。母もそうだった。学生の頃って、どんな職業があるかもよく知らないしね。やりたいことがわからないことに苦悩するんだよね。

やりたいことが見つからない。
その気持ち、よくわかるよ。やりたいことは「これだ!」といった見つかり方より、多くは「これは嫌だ!」といったアンチ「今」に始まることが多いのよ。活動を通して見つかるものなんだよね。

個人というのが明確になってきたのは近代のこと。以前はどの家に生まれたかやどんな村や集団に属しているかといったものが人生の主導権を握っていた。自由が少なかったんじゃないのかな。現代のように急に自由に選択できる幅が増えたことに不慣れなんだよね。それに昔は少ない自由だからこそ自由が際立ったと思う。白は白だけじゃ白とはわからないけど、そこに黒が1点つくことによって白がはっきりする。つまり、自由は不自由によって明確になる。

だから、あなたが自由に選べるようになるのは不自由に身を置いたとき。活動するうちに「これじゃ嫌だ」「こういうのは苦手」「私ならこうする」といった具合に自分のカラーが出てくる。あなたの魅力は人との違いで浮き出てくるものなんだよね。

以前ね、有名な書道家さんがTVでしていた話が母には印象に残ってる。
その書道家さんは毎日1時間、手本の書をなぞることを繰り返している。けれど、何年なぞっても見本通りになぞれない字がある。それこそ自分の個性だとおっしゃってたな。

「らしさ」を追うと気を衒ったようになってしまうことがあるけど、そうならずに本当の「らしさ」に出会うには、学ぼうとして真似ても真似できないところにあるんだろうと思う。「学ぶ」、つまり「真似る」が出来たその先にやっと「らしさ」が出てくる。

選べない時は失敗を恐れていることが多い。選択を迷うのはそれほど大切なことだと解釈している証だよね。まぁこれじゃなかったとわかったらいつからでも人生はやり直せるし、その回り道もあなたが大切なものに気づくシナリオにきっと折込済みなのよ。チャレンジしたらチャレンジした分、何かを学んでいるものだから自分に合うもの探しぐらいの気軽さでチャレンジしたらいい。

それでも何をやったらいいかわからない時は、目の前に来たものに乗る!それもご縁よ。気楽に乗ってみたらいい。本気になるものもあればそうでないものもあるでしょう。本気になれないならそれはフィットしないってことよ。次にいきましょう!ずーっと本気になれなかったとしても、それはそれで気付けることがある。自分の人生を信頼して大丈夫。人生はよくできている。