真理か心理か 精神=ガラス

私はこれから人をもっと嫌いになるだろう。
精神、心理について学ぶにつれて最初からそういうものに過敏になのに今よりももっと他者が考えることも己が考えることも容易く予想し理解できてしまうことだろう。実に気持ちの悪いことだ。だがそれに沿うように思考を巡らすことが出来れば私はきっと今よりも楽に身を世の中に投げ出すことができるであろう。ただでさえ今は感情的になれない、冷え切った精神をしているのにそれを加速させてしまう。結果的に自らの手で心を殺す行為にもなりうる。それでいい。私は感情が物理的な死へ繋がると考えている。好奇心と衝動で何度死にかけたか覚えていない。
世間の目には私はただの死に損ないでありその程度にしか映らない。その程度でしかないならもっと理不尽にずるく生きてもいいと思うが、私は私の歪な根を張った真面目さに縛られている。そのせいでまだ世の中に身を投じることができぬまま生きている。せめて死ぬまでにはこの蟠りを解いてあげたい。私は私を救いたい。私は私に私の形で優しくありたい。

今日は全ての物が自我を持っているように感じる。でも不思議とそれは当たり前のことで恐ろしいなんて感情にはならず受け入れることができました。ただのビニール袋ですら今日は自我を持っていることを訴えかけてきます。もう狂って踊っている状態になれているのかもしれないですね、しかし悲しいことに絶対そのような状態にはなれていません。だって怖いものがまだあるんですもの。無駄話をしすぎたせいで何を伝えたいのかわからなくて腐臭がします。生ゴミがたくさん詰まった袋が放置されているあの場所みたいに。

私は一昨日、友人に「割れて散ったガラスを拾うのは面倒くさいから心は壊したくない」と話しました。しかしその数時間後にはもう既にガラスが散らばっていました。とても綺麗なフラグ回収ですね。昨日父に会う約束をしていてお食事所の予約まで取って心を踊らせながら服を選んだりカバンにものを詰めたりしていた時、突然全身の痛みに襲われて少しでも息をすると体の節々が痛くてたまらなく声を上げて泣きました。筋肉、内臓とにかく本当に体の全て。怖かった。父との予定には結局行けずに一日寝て命を消費しました。痛みでいつも以上に寝付くことが難しくて久しぶりに本当に死んだ方がマシだなど考え、己に対してはその様な感情を抱くことがどれほどくだらないことかと呆れました。最近そういった考えに陥る自分を否定(結果的には肯定)する自分がよく顔を出す様になりました。冷静になってその時のことを思い出し紐解いていくと明日の予定に行けないということでガラスを散らしたのではなくもっと先のことを考えてこんな体のせいでこんな精神のせいでしたいこともできないかもしれないという恐怖に襲われてガラスを散らしたのだと思います。それと同時に何十年単位で考えたら私はあまり先が長い人間ではないのかもしれないと未知数の疑問を抱いたりなどもしました。割れて散ったガラスを拾うのは面倒くさいでしょう?しかもそれを治すとなるともっと...精神とガラスは大体同じと考えているので私が精神を壊すと散ったガラスを踏んで足を怪我するように周りも精神をすり減らすような事態が起きてしまうかもしれないと恐れています。自分が精神的に傷付くのはもう慣れてしまった。耐えればいいのだけれど他者に対して傷を付けてしまうことは自分でも背負いきれないものを抱えてしまうんです。その人が立ち直ってもなお私だけは引きずり続けるでしょう。私と同じ様な考えを持っている人がいるのもわかってはいるがどうしても自分を許せない。傷はなかなか癒えないのを私は身をもって理解しているから。

2023.10.29

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