「流浪の月」を読んでみて

私は読書があまり好きではない。
本を読みはじめると、物語の中に吸い込まれてしまう。
時間が溶けて溶けていつの間にかなくなってしまうからだ。

仕事を辞めてから、毎日家で過ごすようになった。いやでもまとまった時間が手に入る。仕事をしているときは時間がないと呟いて後回しにしておいた棚の片づけにとりかかる。無造作に積まれた漫画や専門書にはうっすらとほこりがかぶっている。ひとつひとつ手に取りサッサと軽く払い、仕分けして本棚にしまっていく。
その中でふと目について手に取った本がある。
それが「流浪の月」だった。

2020年本屋大賞を受賞したこの本、作者は凪良ゆうさんという方らしい。
ほとんど読書をしないため、作者の方については全く知らなかったが、表紙に惹かれて数年前に一目ぼれで購入したのは覚えている。
昼下がり、涼しい風が頬を撫でる。
左手に持っていた掃除用のハンディを床に置いて床に座り込み、折れ目ひとつないキレイなその本のページを開いた。


【流浪】 あてもなくさまようこと。所定めず、さすらい歩くこと。

精選版 日本国語大辞典

この言葉がこの物語のすべてだと思う。
彼女と彼は、文字通り場所を定めずさすらい歩く。
しかし【放浪】ではない。
世間が彼女たちに光を当てた時、彼女たちは歩かなければならない。
外から見れば「かわいそうな被害者」と「小児性愛をもつ加害者」だからだ。
はたから見たら追い出されている、逃げている、と見えるかもしれない。だが彼女はきっと今でも、口の端にホイップクリームをつけながらにこにこと次のすみかを探しているだろうし、彼は暖かく陽に照らされたその横顔をいとおしく見つめているだろう。


「更紗の心の中はこうだろう」
「文はこう思っていたんだろう」


そんなことを書いたら、きっと二人から「勝手に決めつけないで」と怒られるかもしれない。それでも二人の心の中に触ってみたい。だから、許してほしい。


更紗と文、二人はそれぞれ全く違う生活をしていた。
片方は雲一つない青空を自由に飛ぶ鳥のように、太陽に照らされキラキラと七色に光を放つガラス瓶のように。

もう片方は定規でまっすぐ引いたレールを歩くように、シミもシワひとつもない真っ白なシャツのように。

しかしそんな生活は長くは続かなかった。

当時9歳の”わたし”はおとうさんとおかあさん、ふたりを失った。自由に羽を伸ばし青い空を浮かんでいた生活は瞬く間に一変した。
伯母に引き取られてからの生活は、自由に飛ぶこともできず羽を広げることもできなかった。それどころか羽は毟られ穢された。押しつぶされそうな自分の心を守るためには、”普通”を演じて、”普通”に溶け込んで、本当の自分を心の奥底に閉じ込めて振舞うことしかできなかった。


いつしか、”ぼく”は自分の体に違和感を覚えていた。周りがみんな、中学生、高校生と体が大人びていく中でぼくだけが取り残されている。ぼくの体だけが育たない。
ハズレを許さない家でぼくは”普通”から見事にはずれた。
”育たない自分の体”と”愛されず処分されたトネリコの木”を重ね合わせ、恐怖や焦燥から逃れるために本当の自分を心の奥に閉じ込めた。


正反対に見える二人を磁石のように引き合わせたもの。
それはお互いにとって「本当の自分でいられる存在」だったからだと思う。
二人に共通すること、それは「ありのままの自分を認められたい、愛されたい」という気持ち。

”普通から外れた自分”でいてもいい。
”育たないトネリコ”でもいい。


”普通”として生きていくために、こどものままの自分を心の奥底に置いてきた。
閉じ込めざるを得なかった。
こどもの自分のままでは、”普通”から外れていくことに耐えられなかった。

誰にも触られないように、誰にも見つからないように、心に何重にも鎖を巻いてこどもの自分を守ってきた。
大人としてふるまわなければいけなかった。
でなければ世間からの同情、非難、善意、好奇の眼差しに焼かれてしまう。
そんな中で二人は出会った。そして再会した。

お互いはお互いを否定しない。
同情もしない、非難もしない。
ただそうであることを、お互いに認めるだけ。
心地の良い時間だった。
二人の間で流れるゆっくりとした時間は、お互いの鎖を少しずつ溶かし、心にやわらかく染み込んでいっただろう。


”無償の愛は存在するのか”

相手に何も求めない。
自分はどうなってもいいが、相手には幸せになってほしい。
心の奥底でつながった二人には、この愛が存在しているのかもしれない。


「愛されたい」
「赦されたい」
「認められたい」

二人にかかわらず誰しもが持っている感情だろう
更紗の両親も、文の家族も、梨花も亮も、もちろん私自身も。

更紗と文はもちろん、ほかの人間もみな苦しんでいるように感じる。
自分では押さえられない衝動性、一人になることへの恐怖。
愛を失った絶望、自分の力ではどうすることもできない無力感。
ここまでくっきりと人物の感情に色を感じたのは初めてだった。
感情の移り変わりだけではなく、心の色や温度まで感じられる。
圧倒的なボキャブラリーに頭を殴られるような衝撃だった。


私は読書が好きではない。そして得意ではない。
小学生の頃、”作者の気持ちを答えなさい”といったような国語のテスト問題があったが私は全く答えられなかった。
そもそも、作者の本当の気持ちは作者にしかわからないからだ。
それなのに作者の気持ちを答えろと言われる。
──いち読者の私なんかが、作者の気持ちを代弁するなどおこがましいだろう、普通
ふてくされた当時の私は、えんぴつをくるくる回しながらさっと適当な答えを書き込んで残った時間窓からやわらかい風に撫でられた青々とした葉っぱを眺めていた。





月が水面にゆらゆらと浮かんでいる。
さらさと静かに揺れる波はどこまでも続いている。
押しては返すつやつやとした波が、月のように形を変えて荒ぶる波になったとしても、この二人ならきっとふみ超えていけるだろう。
これからの二人が、きっとどこかで静かに暮らしていく未来を想像して、
私は静かに本のページを閉じた。


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