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2005年 ダルエスサラームからモザンビーク島への旅はとても印象深いものだった

2014年にFacebookに投稿した、そこからさらに9年前となる2005年のタンザニア~モザンビーク移動を記した文章が出てきた。
今思うと当時旅慣れていないせいでとても不器用なことをしているなと感じるところもある。
文章にある通りとても過酷な旅だったのだが、不思議とこの旅をしてよかったなと思える特別な数日だった。
私を含め、深夜特急的な紀行文が好きな人がどこかにいるかもしれないと思いここに残してみる。

尚、本文には書いていないがモザンビーク島の宿で知り合った「ノリさん」という同世代の日本人建築家の方がいらっしゃった。今はどうされているだろう。万が一これを目にされたらご連絡でも頂きたいです。

以下、2014年の文章。


2005年の夏に大学院の予備調査ということで東アフリカ海岸沿いを回った。
拠点にしていたタンザニアの主要都市ダルエスサラームから、南の隣国モザンビークにある「モザンビーク島」までの旅はなかなか自分にとって印象深いもので、記憶が少しでも薄れないうちにここに書き留めておく価値が有るように思えたのでその顛末をまとめたいと思う。
長文になると思うし単なる自分の忘備録なので他人が読んで面白いかは保証できない。
当時の自分はそれほど海外経験があるわけでもなく(それでもツアー旅以外の海外経験もあるにはあったが、長期でメジャーじゃない土地を一人旅するほどには海外慣れしておらず)、アフリカの強い日差しと乾燥して舞い散る砂埃と人々の熱気と混沌に圧倒されながらタンザニアに滞在していたように思う。時に人に騙され、人に迷惑をかけ、気のいい奴らと笑いあいながら。
まずタンザニアのザンジバル島でひと月ほど滞在した。ここはやや多すぎるほど欧米からの観光客も多く、見所も多く、ただ楽しんで滞在できたように思う。そして次の目的地、モザンビークのその国名のもととなったモザンビーク島へ向かおうとしていた。モザンビークはタンザニアのひとつ南の国。ヴァスコ・ダ・ガマが立ち寄って以来ポルトガルが総督府を置いていたという本当に小さいインド洋に浮かぶ島がモザンビーク島だ。
一応調べたかったテーマは、アフリカ東海岸の文化がインド洋交易を通じた人の交流によってどのように混交しているかというようなことだったので、現地の様子をみて見るのにふさわしいように思えた。

◆ 0日目

長距離バスは大抵五時前後などの早朝に出発する。前日にダルエスサラームのバスターミナルにチケットを購入に行く。
そのターミナルがまったくもって混沌がこの世に出現したらこのようになるのかと言わんばかりの有り様で、
例えば外人がよく利用するやや高級なロイヤルコーチとか言うバス会社があるのだが、ターミナルに着くなりわっと人が群がってくる。
外人と見るや
「ロイヤルコーチに乗るんだろ?切符売り場に連れてってやるよ。こっちだこっちだ、さあついてきな」などと複数人から声をかけられるのである。しかし手を引かれた先は全く別のバス会社で単に客を引くための露骨な嘘だったりする。
まあ今だったらはいはいとあしらうところなのだが、9年前の自分には、人が客引きのために平気で嘘をつくことへのカルチャーショックと、またそのことで異国に飛び込んでいる事実に対する高揚感が止まらないようなそんな熱気あふれるターミナルだった。
やっとのことで、一部屋二畳ほどのブースが並んでいるチケット売り場の、ムトゥワラというタンザニア南部の主要都市行きのバスを購入する。モザンビークに入るにはまずここに行かねばならない。値段は千数百円だったろうか。こっちでは当時10シリングが1円、1万数千シリングだ。物価を考えるとちょうど日本円で1万数千円の大金をはたいた気持ちで購入する。
出されたチケットは、簡単に破れてしまいそうな、透けるくらい薄い、花火の先の火をつけるためにちょろっと出ているところのようにくしゃくしゃっとしたような安っぽい紙にバス会社名や日付と時間が印刷しているだけだったりするのだが、とりあえずこれでチケットは購入できた。ターミナルの熱気の中ですでに何かを成し遂げた気分である。
翌日、バスはまだ暗い早朝のうちに出発するので、拠点にしていた大学の宿泊施設の庭師さんに手配してもらって、タクシーをその時間に呼んでもらうようにする。
今考えると本当に馬鹿だったのだが、なぜだかその時はアラームになるものを何一つ持っていなかった。
時計は盗まれては困ると思って千円くらいで買った超安物の腕時計だけを身につけていたのでアラーム機能がついていない。目覚ましがないので十分早く休むようにするのだが、緊張と寝過ごしてはいけないという不安からあまり寝付けない。

◆ 1日目


睡眠不足を出発の高揚感で覆い隠しながら、まだ真っ暗でひっそりとして虫の音だけが聞こえる早朝に、家の前に来たタクシーに乗ってバスターミナルに向かう。
街灯も殆ど無い町中を、スワヒリ語のラジオをかけながら走る車内の景色と音と匂いをよく覚えている。
そこでこの道中初めてのハプニングだ。バスターミナルでは、チケット売り場の親父に乗り場はどこだと聞くと、ここで待っていろ、しばらくしたらムトゥワラ行きのバスが出るぞと声を掛ける奴がやってくるからそいつに付いて行けばいい、と言われるので真っ暗な中おとなしく待っている。しかし時間が近づいても誰も来ない。チケット売り場のブースに度々聞くが問題ないというようなことを言う。
不安と睡眠不足で胃がムカムカとしてくる。そして出発時間が過ぎた頃、不安になり南方面へのバスがたくさん止まっているところに行く。聞くと、どうももうバスは出てしまったと言う。そしてタクシーの運転手が話しかけてきて、まだそのバスは次のバス停に止まっているころのはずだ、これだけの金を出せばそこまでタクシー飛ばして追いつけるぞ、などとやたら足元をみた金額を提示してふっかけてくる。それは癪だったので怒って断る。バスのチケットブースに戻る。
今だったらそんな無茶なこともままあるだろうと思えるのだが、当時は信じられない気持ちで彼に向かって、他のバスはもう今日はないのか?じゃあチケットを明日のものに変えてくれ、金は払わないぞ、と言ってなんとかチケットを替えてもらった。そして虚しく宿に戻る。

◆ 2日目


そして翌日。
同じように十分に早く寝て、寝不足のまま早く起き、真っ暗な中スワヒリ語のラジオがかかるオンボロ日本中古車タクシーに乗る。途中でガソリンが切れながら走る。ガソリンが切れた車はこんな挙動をするのかという急激な加減速を繰り返しながらガソリンスタンドに滑り込んだりしつつ、なんとかターミナルに付く。
お前の乗るバスまで案内してやるよという男がやってきて、案内してもらうと金をよこせという。うんざりしながらもまあよくあることだとわかりつつあったのでチップを渡す。
なんとか今度はうまく乗れたようだ。
バスの中にはほとんど満席である。こっちのバスは座席が五列も横に並んでいて、足元も足の幅分くらいしかスペースもない。太ったおばさんなど普通に座るべくもない。ビニール張りの座席は汗と垢でべたついている。インド製なのか不思議なデザインとカラフルなペイントをしている無骨な車体だが、なぜか運転席のハンドルには三菱のマークなどが付いている。日本の車メーカーのエンブレムは装飾の一部という扱いなのか、同じ車体(おそらくタタ社製?)が隣り合って止まっていても、一方は三菱、一方はトヨタのマークがフロントについていたりする。
エンジンがかかるとまるでジブリ映画の車のように車体全体が唸るように揺れて、アナログな音をさせる。暴走族のようなパラリラパラリラというメロディーを刻む不思議なクラクションを鳴らしながらぶっ飛ばし始める。
こちらのバスのクラクションは、これも運転手の好みなのか単音ではなくメロディを奏でるのである。
バスは疾走する。周りの車両を威嚇し急旋回で避けながら追い抜かし突き進んでいく。運転手は二重追い越しも、状態が悪いアスファルトの巨大な穴ぼこも気にするそぶりもなく、盛大に車体が縦揺れして乗客が上の荷台に頭をぶつけて血を流そうが、ひたすらアクセルをべた踏みし、パラリラと鳴らし、ハンドルを思いっきり回し、レースゲームを楽しむように悪路をひた走る。
ああバスの重心はこんなに下にあったのかと意識の片隅で感心する。
わずかに明るくなった寒々した風の早朝の空の下。バスが運良く事故らずに目的地に着けますように。それがうまくいくかは運命の女神だけが知っていて、彼女に祈らずにはおられない、そんな感覚を味わう。
ムング・アキペンダ。スワヒリ語で「神が望むなら」自分は生き残れるだろう。
ムトゥワラに夕方頃に無事到着する。相変わらず乾いた淡黄色の砂の上に築かれた町、予約はしていなかったが事前に場所を調べていた安い宿にチェックインする。トイレに紙はない。手動ウォシュレットというやつである。宿帳を見たら海外の旅人らしき人は殆ど泊まっておらず、地元の商人とかが常連のようである。
部屋の蚊帳は穴が空いている。こっちは蚊に刺されるとマラリアになる危険性があるのでそのための蚊帳のはずだが、穴が空いている蚊帳を取り替えないとはどういうことなのだろうか。シャワーはお湯が出ない。こんなに暑いところで水でシャワーをあびるのはまあ当然なのだが、それでもなんとなくシャワーを浴びたという感じがせず、また朝晩は冷え込むのでブルブル震えながら部屋に戻った記憶がある。
夜、部屋の中は真っ暗だ。ふと夜中に虫の羽音で目が冷めて懐中電灯で中から蚊帳を照らすと虫がびっちりと表面に止まっている。
穴の空いた蚊帳が自分を守ってくれる唯一の鎧のような気がする。これも今考えるとなんていうことはないのだが、当時はこの異文化感に怯えて夜を過ごすしかないナイーブな自分だった。

◆ 3日目

翌朝、片言のスワヒリ語で国境を超えるために乗るべき乗り合いバスの場所を聞き、座って待っている。まだ他の客は誰も居ない。自分だけがぼーっとトラックの荷台を改造した座席に座って出発の時間を待つ。
すると外から男が来て、車掌だ、代金○シリングを出せと言う。言われたとおりに払う。徐々に人が乗ってきて出発する。
走りだすと、車掌だ、代金○シリング払えとまた言われる。
そんなはずはない、もう払ったはずだ。お前じゃなければ運転席に乗っている奴に払ったはずだと主張する。車掌は怪訝そうな顔をして車を止めてくれ、運転手をおろしてこっちにこさせる。
ああ、こいつじゃない。だまされたんだ。それは明らかに不注意な自分が悪い。代金をもう一度払う。周りの乗客も、ああ悪い人に騙されたのね、かわいそうに、ポレサーナ、と言ってくる。
3日間寝過ごすことを恐れてまともに寝ていない。睡眠不足のせいか体力を消耗していたせいか空腹すらまったく感じない。また移動中に下痢にでもなったら大変だという恐れもあり一日にバナナ1本程度しか食事も取っていない。体力的にも随分消耗していたと思う。
隣に座ったおじさんが、災難だったな、俺もモザンビークに行くんだよ、お前はどこまでだ?などと親切に聞いてくれるのだが、またこの人も親切にした見返りに金を要求したりするのではないかと人間不信になってくる。
国境に着く。タンザニアの国境は割りとスムーズに過ぎる。国境はロブマ川という茶色くて広い川を木の小さな渡し船で渡る。
船底には水が漏れてたまっている。周りは何もない獏とした乾燥した河原である。乾季のため水が減っているのか中洲があちこちに現れていて、それを避けながら大回りして渡っていく。
古い英語のロンリープラネットに書いてある情報より船賃はずいぶん高いようだ。
本当に最近値上がりしたのだと思うが、自分が外人だから高くふっかけられているのではないかとか考えてしまう自分が嫌だった。
モザンビーク側の国境警備員の態度の悪さはなかなかのものだった。赤土の大地に草葺の屋根、土壁の小屋が立っていて、そこに順番に入ってパスポートにスタンプを押してもらう。
一人ひとりが非常に遅く、お釣りはこちらが釣りをもらってないぞといわれて舌打ちをしながらしぶしぶ出す。
そこからモザンビーク側の地方都市、モシンボア・ダ・プライアという町まで、四駆の荷台に乗り合って向かう。道は当然舗装もされておらず、わだちは深くひたすら揺れる。荷台に手が赤くなるまで力いっぱい捕まり、落っこちたら死ぬという恐怖と闘い半日緊張しながら乗り続ける。周囲は乾燥した黄色い枯れ草が広がるアフリカの大地、土の色が黄色くなったり赤くなったり1時間ごとくらいに変わっていく。
時々草葺の家々のある小さな隔絶されたような村に着く。鶏やらが歩きまわっている。数人を乗り降りして進んでいく。ある村で、国境直前で自分にどこまで行くんだと話しかけてくれたおじさんが、俺はここで降りるんだ、元気でなと握手される。
こんな時にも自分は、最後に色々教えてやったからとチップを要求されるのではないかと警戒してしまって素直に別れを言えなかった。結局彼は何も要求することもない親切な人だった。自分の疑心暗鬼がその時顔に出ていなかったかと今でもたまに思い出しては後悔する。
日が傾いたころモシンボア・ダ・プライアにつく。
ポルトガル語の響きのある名である。ややだだっ広い海辺に作られて、ぱらぱらとポルトガル風の家も残っている海辺の静かな街だ。エメラルドブルーの海の崖の上にあり、風が常に吹き抜けている。
数日ぶりにまともな食事をとる。なんとなく美味しい気がする。ポルトガル語は昔から好きな言葉だった。使ってみて通じてうれしくなる。ポルトガル人がはるばる喜望峰から船に乗って言葉や建築が伝わり、日本から来た自分が今ここにいる。それだけでなんとなく感動的であった。
宿は当然海外の観光客が泊まるようなところではなく、トイレとシャワーは究極に汚い。宿泊客のパキスタンか何処かから来たという中年の男集団が、俺はビジネスで北海道に言ったことがある、というような話をされる。しかし一行の男たちがみな眼光するどく一切笑顔もなく、親しみを表すこともなく、どことなく怪しく雰囲気である。
果たして今モザンビークの辺境にいる中年のパキスタン男一行が、まともな用事で北海道に言ったのか、なにか非合法なものだったのか、そんな不気味さを感じた。それがその時疲れていたからなのか、本当にそうなのかはよくわからない。
バンガローのような独立した円形の一つの部屋に寝る。

◆ 4日目

朝方、ドアからカチャカチャという音がして目が覚める。
なんだろうと思って入り口に近づくと、扉の隙間から男が鍵をいじっている。自分の物音に気づいたのかさっと男はいなくなる。彼が何をしようとしていたのか、盗みに入ろうとしていたのか部屋を間違ったのか、よくわからない。しかし自分の中でこの旅の緊張感を更に高めてくれた出来事になった。
朝起きてみるとモザンビーク島に行くバスはもう出たという。
そんなはずはない。朝6時に出るはずじゃないか。
いや、6時に出たぞ。
話が噛み合わない。そして自分の馬鹿な勘違いに気づく。タンザニアとモザンビークでは時差が一時間あるのだった。そうだ、昨日乗り合いバスの中で親切にしてくれたおじさんが、1時間がどうとかと言っていた。時差のことを言っていたのだ。バスが着くまでの時間か何かについて説明してくれているのかと思っていた。本当に自分に嫌になる。
バスは一日一本しか無いという。仕方なく無為にもう一泊することにする。
昼間の間に町を歩いてみる。町の人とポルトガル語で話してみて、ポルトガル語は難しいねなどと言ってみる。いや、英語のほうがもっと難しいじゃないか、と返してくれる。話が通じて少し嬉しい気分になる。なかなかのんびりしていていい街じゃないか。一泊余分にしてちょっとしたリフレッシュになった、などとのんきに考えていた。

◆ 5日目

もう一泊して、翌朝。
まだ暗い中、今度こそ乗れたバスの中で、他の客とともに静かに出発を待っている。自分はほぼ一番後ろの席に座っている。窓の外は真の闇で、虫の音と遠くの波の音がかすかに聞こえていたように思う。
突然、外から緊張感のあるざわめき、どよめきのような声が聞える。
バスの中の人達が急に怯えた目つきになる。荷物を持って中腰に立ち始める。
外の騒ぎが大きくなるや、わっと一斉にバスの中の人が運転席横のドアめがけて走りだし、バスから逃げようとする。
自分は一番後ろの席なのでどうすることもできない。客が半分ほど走って降りている中、突然、バスがガクンとものすごい速さで加速し、闇の中を走り始める。窓の外のざわめきはバスを取り囲むようになり、バッドのようなものを持った人が走り始めた車の窓ガラスをバンっと強打する。
自分は後ろなので運転席周りで何が起こったのかわからない。でも多分自分は逃げ遅れた。きっとこのバスは強盗か何かに乗っ取られて、自分は判断を誤ったのだ。このまま身ぐるみ剥がされて身につけているすべての日本円やドルやカメラや貴重品も取られ、放り出されるんだろう。
タンザニアのダルエスサラームからも、モザンビークの首都のマプトからも何日分も遠い場所で。日本に帰れないかもしれない。そのまま殺されるかもしれない。ああ、もっと素早く逃げておけばよかった。失敗した。
そんな気分を味わった刹那、窓の外でバットを振り回す群衆を振り切ったことを、同じく後ろの方に座っていてバス内にとどまっている人たちは喜んで安堵の表情を浮かべているように見える。状況を理解できない自分は、赤ちゃんを抱いた人の良さそうなお母さんに向かって、ハクナマタタ?問題ないの?とスワヒリ語で聞いてみる。
スワヒリ語はタンザニアの公用語だが、モザンビークでも国境に近いこの辺では少しだけ通じる。
ええ問題ないわ。ハクナマタタ、と笑顔で答えてくれる。なんだか良くわからないが、他の乗客もポリスに向かおうとか何とか言っている。その後、警察署らしきところに着き、事情を軽く説明したあと、本来の目的地に向け出発したようだ。
おそらく外から暴徒に襲われそうになって乗客が逃げ出そうとする中、なんとか運転手は暴漢たちを振りきって逃げ切った、というところだろうか。とすると自分はあの時に外に出ていたら大変なことになっていたことになる。たまたま席が後ろでまごまごしていたことで助かったのかもしれない。
後から聞くと、ある地方選挙が前日にあり、その結果に不満を持った人々が暴徒化して、この平和そうな田舎町でこの日数十人の死者が出たのだと。まさにあの場面で、そんな暴動に巻き込まれていたら自分がどうなっていたのかわからない。
その後の旅はスムーズに行く。
数十分に一回だけ、ぼろぼろのトラックや、トラックの荷台を改造した乗り合いバスがもうもうと砂埃を立ててすれ違う。
そんな中、真っ赤で新しいペンキを輝かせて誇らしげにCoca Colaと書かれた、アメリカの荒野を走っているのと同じような真新しい巨大トラックがすれ違う。おお、この会社は電気もほとんどなく車もおんぼろの中古しか走っていないような世界の隅々まで、ぴかぴかの巨大トラックで商品を届けているのか。
昼ごろに何もない平原の交差点でバスを降り、乗り換え待ちをする。
交差点に砂埃で赤茶けたパラソルがたっていて、一人警備のために座っている警察官がいる。ほかに誰もいない。彼からお弁当を食べるかと声を掛けられ、分けてもらう。クリームシチューみたいな味がする。数口食べてオブリガード、なかなかうまくてありがとうと言うと、トード、トード、全部あげるよ、と親切にしてもらって心がなごみ、気持よく別れをいう。
トヨタのバンを使った乗り合い車がやって来たのでそれに乗る。「外人だな、前に座りな」と助手席に座らせてくれる。後ろの荷台の席に比べて特等席である。
本当にイーリャ・デ・モザンビーク(モザンビーク島)に今日、暗くなる前にこの車が着くのか?と何度も確認してしまった。それほどこの旅はすでに長く、たどり着くことが信じられないほど遠く感じられていた。
スピードメーターが壊れており針がぴょんぴょんと跳ねている。いくつかの丘を越えると、モザンビーク島がついに見えてきた。島は大陸から目と鼻の先にあり、真っ青な浅い海にまっすぐの橋がかかっている。
タンザニア初日にバスに乗れなかったことも換算すると実に4泊5日かけてやっと目的地に付けたことになる。疲れきっていた。
島は至って平和である。幅が五百メートル、長さ数キロほどのごくごく小さい島だ。
かつてポルトガルの総督府だったので、きれいな赤やクリーム色の壁をした建物が残っているが、ポルトガル人はとっくに町を放棄したので大半が廃墟となっており、屋根や天井は抜け、壁だけが残っている。黒黒とした窓のあった穴がぽっかりと開いている。
中学校があるので登下校に賑やかになり英語を試したい子供達に話しかけられる。
真っ青な海に白い砂浜を眺め、要塞や、寂れた誰も住んでいない古い街並みを歩いていると、観光客が押し寄せるには不便すぎる土地なこともあり、見知った世界を遠く離れて簡単には戻れない異国にきたという感慨がわいてくるのである。
三週間ほど島に滞在した。泊まった安宿は本当にいいところで、リラックスできる中庭があり居心地がよかった。
一日数人観光客が来るかこないかというくらいの島。人々はフレンドリーで夜に一人で海辺や町(の廃墟)を歩いても犯罪もない。
10年近くたって今この島はどうなっているのだろう。世界遺産なので(いや当時もそうだったが)、もっと本格的な町並み復興と観光振興が行われるようになったら、遥かかなたのところにある長い旅の目的地、という現代の世界では得がたい印象は霧散しているかもしれない。
まあそれは仕方がないと思う。
自分はこの当時こうして島に何とかたどり着き、道中人から親切にされたりだまされそうになったり、足元を見られそうになったり、だますつもりのない人を疑ったりしたその経験は、こうして9年たって思い出し書きとめる価値があるものとして記憶に残っているのである。


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