副業せず一社で働くことが贅沢だといわれる時代がくる
柴田(@4bata)です。今回は、こうなるかもなあという「説」です。
考えたきっかけ:週5日働いている社員が週4日勤務(稼働時間80%)にしても、成果は90%ぐらいになりそう?
週5日勤務の成果を100%とする。仮に週4日(80%分の稼働)にしたとして、成果も80%になるのか?私自身にあてはめてみても「80%超えて90%ぐらいになりそう」という直感がある。「最後の1日分」は単にコスパが悪くなっているんだろうか。ここを考えてみる
考える材料:「等価交換」と「贈与」
最近読んでいる本「世界は贈与で出来ている」から。
等価交換とは、利害が一致していたり、共通の目的をもった者同士の協力関係だ。割に合うか、合わないかで物事を判断する。お金を介して行われることが多い。これはわかりやすいだろう。
もうひとつは贈与。既に誰かにもらったことを理由に、別の誰かに渡す。社内で「困ったときはお互い様だから」と助け合ったりするイメージ。助けた相手から次回助けてもらうことや、自分の評価があがること(=見返り)を期待してるわけではない。それは「等価交換」だ。社内の困ってる人を助ける動機は、自分自身も以前社内の誰かに助けてもらったから。
会社内の「成果」を単純化して表現してみる
単純化して「社長(=会社)」が各社員の成果を判断し給料を決めているとする。等価交換の考え方を使うのが一般的だ。
実際には、別で社員同士の「助け合い」が発生している。自分の仕事を振り返ってみたとき「この人が困ってるから、(自分の仕事と直接関係ないけど)私も手伝いますよ」という仕事はないだろうか?そのときに自分の評価(=報酬に結びつくかどうか)を考えているだろうか?少なくとも私はそれを考えずにやっている仕事がある。同じ会社で働く人が困っているのを手伝うことは、因果関係ははっきりしないけど、トータル会社のためにもなるだろうと思い込んでいた。
「因果関係ははっきりしないけど、トータルとして会社のためにもなるだろうという判断」を「贈与の枠組み」で考えてみる。
リターンを考えないのは、以前に同じ会社の誰かに助けてもらったからだ。そしてそれは「同じ会社の人」に返していこう、という発想になっている。
週4日勤務にしたら、「贈与」の仕事を減らすだろう
週4日勤務にしたら、会社にとってわかりやすい「等価交換の成果」を優先し「贈与の成果」を減らすだろう。贈与の話は説明が難しいからだ。「そんなことより別のこと(等価交換で説明可能な成果)をやってよ」と会社から言われてしまうし、それに反論することは難しい。コスパが悪そうにみえた「最後の10%の成果」は、贈与の部分なのかもしれない。
仕事において「等価交換」の流れは強まっている。
家族や友達は「贈与」を中心に回っている。会社は「等価交換」を中心にすべきだし、「贈与」はおまけだ。ある程度「等価交換」で成果を出し、その上で「贈与」の仕事をやることになるのだろう。今後、成果はもっと測定されるようになり、効率を求められる。すべて「等価交換」の世界だ。副業でどこかの会社を手伝う場合も「等価交換」が強くなることが予想される。全員が自立していれば「等価交換」だけで仕事をすることは不可能ではないだろう。
ちなみに、等価交換の人間関係は信頼関係をつくるのが難しいらしい。なんとなくわかる。以下引用。
交換の論理は「差し出すもの」とその「見返り」が等価であるようなやり取りを志向し、貸し借り無しのフラットな関係を求めます。ですから、交換の論理を生きる人は打算的にならざるを得ません。
それゆえ、交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。
そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる」というメッセージが透けて見えます。なぜなら、この<私>は、あくまでも利益という目的に対する手段でしかないからです。
だから信頼できないのです。
(「世界は贈与で出来ている」第2章)
これを読んで思い出したことがある。フリーランスの人と仕事をするときの話だ。完全に相手が自立している人なら「等価交換」の論理で安心して話ができる。ただ、微妙な人もいる。そのときに私は相手と「贈与」の関係になる理由がない。社員ならともかく、フリーランスの人の成長機会になるような仕事を依頼してみたり、いろんなフィードバックをすることは、発注側にメリットが少ないからだ。最初からできる他の人を探すほうがよい。ただ、これでいいのかな?という疑問は残る。
副業もせずに一社だけで働く贅沢とは、仕事に贈与の割合が多いこと
「等価交換」の世界で自分の市場価値を維持して働ける人は少数派では。そういう人達は「贈与」がなくても働けそうだ。実際には「等価交換の世界で生きていける人」同士で関係性をつくり、「贈与ネットワーク」をつくるだろう。そこで突然思い出したツイートがある。
娯楽としての労働というフレーズを覚えていた。等価交換の仕事の中に、「家族的な関係」「友人的な関係」も上手く織り込み、いい感じに生きていくこと想起した(きゅーいさんがそういう意味で言っているかはわからない)。
等価交換の世界で自立していくのが難しい人達には、より「仕事における贈与」が届かなくなっていく可能性がありそう。
まとめとしての感想:副業をやると仕事における「贈与」の要素が減る人も多そう。結構大変な気がするけど、どれぐらい伝わってるんだろう?
仕事できる人達は、一社で働くとか関係なく「等価交換」の論理でも生き残りつつ、「贈与による人間関係ネットワーク」も構築できるという感じになりそうだ。それを表面的に真似しようとしたけど、「等価交換」の世界で生き残るのが大変そうな人には、副業が広がっていくと厳しい世界が待っている、ということか。
今の自分に出来ることは何か。「等価交換」の論理だけで自分の仕事の実力をみるのではなく「誰かに助けられてなんとかやっている」という認識を忘れないことぐらいだろうか。
今回は以上です。贈与は届くかどうかわからないものでよく、「誰かに届きますように」と思うことを「祈り」と呼ぶそうです。私が直接知らない誰かとも、私の気づきをシェアできればと思いました!(祈り)
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以下、脇道にそれるけど関係ありそうな「おまけ」。
おまけ1:知らないうちに自分が助けられてきたことを知れば知るほど、見返りを考えずに動くことができる。
正しいか否かより、どういう世界観に共感できるか、という話。私はこれがいいなと思ったので紹介する。「贈与」はどのようにはじまるか。
贈与は、受け取っていた過去の贈与に気づくこと、届いてた手紙の封を開けることから始まる(「世界は贈与で出来ている」第9章)
手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を、教養ある人と呼ぶのです。
そしてその人はメッセンジャーとなり、他者へと何かを手渡す指名を帯びるのです。(「世界は贈与で出来ている」第9章)
これは面白い。何も受け取ってないのに、誰かに与えようと努力するのではなく、「既に自分が受け取っているものの大きさ」に気づくような努力をする。こっちのほうがいい。
以下、著者の方のツイート、これも面白い。名乗らなければ帰ってこない!
おまけ2:「甘え」と「頼る」の違いから、贈与にタダ乗りする人のことを考える
甘える:本当は自分でできることを他人に頼む
頼る:自分ではできないことを他人に頼む
(「世界は贈与で出来ている」第2章)
仕事の中に贈与を持ち込んだとき、タダ乗りする人が出てくるのでは、という疑問がある。「頼る」のはいいが、「甘える」のは違う。タダ乗りとは「甘え」のことだ。ここに牽制機能として「等価交換」が生きるのだろう。
でも等価交換のほうが説明可能だから、仕事においては「等価交換の論理」が強まることで贈与の論理が消えていきそう。
追記:一番下に引用したけど、会社の上層部からの「甘え」は強制力があって、「搾取」になってしまう。
おまけ3:勉強会などのコミュニティでも、仕事における贈与が発生している
仕事における贈与が見られるのは、会社だけじゃない。勉強会とかもそうだろう。日々の仕事において「等価交換」の論理が強すぎると感じた場合は、別の場所で「仕事における贈与の割合」を増やす必要がありそうだ。
おまけ4:贈与について、過去に書いた記事
親孝行が照れくさい理由などから、贈与について考えた。みうらじゅんの「親孝行プレイ」という書籍に書かれているエピソードを紹介している。
この本のエピソードで覚えているものがある。自分の親に親孝行するのは照れくさいが、友人の親に親孝行するのは照れくさくない、という話だ。親との旅行に友人も連れていき、友人に自分のいいところを話してもらったり、「こんな旅行に連れて行くなんて、○○君はほんと親孝行ですね」と、客観性を持たせたりするのだ。
友人じゃなくて、夫婦でも同じだろう。自分に置き換えてみても、配偶者の親に対してのほうが照れくさくない。恩を受け取った人に直接返すのは、照れくさいのだ。なぜか。「動機」を少し疑われるからだ。いままで何もしてなかったのに、いきなり親孝行をするのはなぜか、と。夫婦なら、互いの親を親孝行すればよいし、友人を介しての親孝行をすれば照れくさくないということになる。
これは「贈与」の発想は活用していないが、「等価交換だと照れくさい」という観点は活用している。友人をはさむことで、「親孝行の照れくささロンダリング」をしているのだ。
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(記事公開後の追記)いただいたコメントやtwitterでのコメントより
しろたまさんより(この記事にコメントいただきました)
柴田さん、はじめまして。
いつも記事楽しく拝読させていただいてます。
この記事を読んで、私が今回転職の気持ちが固まった理由の一つに、
交換の倫理を持ってるトップに「お前の代わりはいくらでもいる」的な言動をされながら、どこか会社側への甘えは求められる矛盾に信用ができなくなってきたり、自分でも【対等交換】できてる自信がなく心が苦しくなって、
転職したい(違う環境で働きたい)気持ちが固まったのかなぁ…とモヤモヤしていた自分の深層心理が少し分かった気がします。ありがとうございます。
自分の気持ち表現するのが苦手なので、柴田さんを始め、人の関係性や機微が分かりやすい記事(解説?)は自己理解を深める材料となるので凄くありがたいです。
これからも記事楽しみにしてますね。
読んだとき「うわー」って思ってしまいました。「代わりはいる」というニュアンスが出てしまうのはまだ許容できるとして(会社だから)、それに加えて「社員に甘えてしまう(ちょっと本来違うかもだけど、これぐらいやってよーと会社側が思ってしまう)」という状態が発生すること、結構ありそうだな・・・という感想を持ったためです。しろたまさんとはもちろん話したことはなく、でも何かは届いたということで、まさにこれも「贈与」なのか??という発見がありました。コメントありがとうございました。
これは上の「おまけコーナー」に追記してみました。何も受け取ってないのに誰かに与えようと努力するのではなく、「既に自分が受け取っているものの大きさ」に気づくような努力をする、という内容です。これは好みの問題だとおもいますが。
「善意のぬるま湯感」かあ。逆に土日に「等価交換の厳しさ」をもうちょっと求めてる感じですかね。想定と逆だったけど、それもあるのか確かに!という発見をもらいました。
大きな企業が贈与をはき違える。私の解釈では、「贈与」を「等価交換における自分の実力」とはき違える、とかそういうことかな。あと、役職上位者の「甘え」には強制力があるから、「搾取」になるってことか・・・。
誰かが書いてたけど、サポートしてもらったらそのお金をだれか別の人のサポートに回すと書いていて、それいいなとおもったのでやります!