90年代って
イエママ(yes,mama ok?)の記事を書くにあたって歌詞カードを見ていて、『incomplete questions』に収録されている長嶋有さんの「発売に寄せて」というライナーを久々に読み返した。
冒頭、彼とイエママとの出会いが『ザ・タワー』というゲームのサントラであったことが記されて、
戸川京子、オノセイゲン、サエキけんぞう、暴力温泉芸者(中原昌也)、(ザ・)ブロンソンズにルーガちゃん(!)まで。
とイエママと並んでサントラに参加したメンツが紹介されている。
そしてその人選を彼は、
改めて見ると「90年代だなぁ」という人選でもある。
と懐古している(※この文章が書かれたのは当のCDが発売された2008年秋の少し前かと思われる)。
その後、名曲『Charm of English Muffin』での高嶋ちさ子(「チョコレート・ファッション」というユニット(?)で同曲をリリースしてたそうです)とイエママとの関係に触れ、
その二者が交わっていたということもまた、90年代らしさの表れのようでもある(電気グルーヴのアンセムである「虹」が「マジカル頭脳パワー」のエンディング曲だったことに似て)。
※「90年代」の部分は引用元では傍点あり
と、またしても90年代というキーワードが語られる。
この、本来交わらないものが交わっていた時代としての90年代って、どんな時代だろうか。
メインカルチャーとサブカルチャーの交わり、というような、上下関係のある単純なものではない(高嶋ちさ子とイエママはどっちがメインカルチャーだというのか)。つまり、一方がもう一方に「歩み寄った」という性質のものではないだろう(一昔前の批評家がアニメを取り上げて自らの幅の広さを誇示するようなものではない)。
それよりは、例えば同じサブカルでもカテゴリの違う、それぞれ別の「住民」をもったもの同士が思いも寄らず交わるような現象だったのではないか。
というか90年代にまだメインカルチャーってあったのかな。まだWEBがここまで発達してないからあったのかもしれない。テレビも元気だった気がするし。
テレビと言えば、電気のオールナイトニッポンを聴きながらマジカル頭脳パワーも毎週楽しみにしていた人間もいないとは言えないだろうけど、キャッチーでポップな歌ものが常識だったバラエティのエンディング曲で『虹』はやはり違和感があったのかもしれない。いや、そこに違和感がないのが「90年代的」ということなのかも。
ボーダレスという言葉だと、もともと境界線が確固として存在していて、それを意志をもって越えたり無価値化したりするイメージがあるが、そういう「意識の高さ」からのジャンルミックスではなく、単にみんなが好き放題自分の好みを出していた(あるいはもっと意識が低く、決定権者が何が良いものなのか判断できずにノリで決めていた)だけな気がする。
その適当さ、啓蒙性のなさこそが、90年代の魅力だったと個人的には思う。例えば雑誌文化とか、メインカルチャーと言い換えられるかもしれない啓蒙性の高い文化が、少しずつ相対化され始めていたっていうのもあったかもしれない。
啓蒙されないからユーザーは「自分から探す」、そこに「モノ」と「ひと」(ユーザー)の間の個人的な物語が生まれる。それが好きだった。
だから僕はまだモノへの執着から離れられない。未だにCDを買うし。
で、そんな90年代的風潮を終わらせたのがインターネットだと思う。
ネットの便利さは、自分のほしいもの好きなものに最短距離で到達できることだ(そうじゃないと「使いづらっ」と言われてコンバージョン率下がっちゃうしね)。そうするとユーザーは「自分の住む村」の情報にしか触れにくくなる。その一方で村の情報は極めて精緻に、求める者全てに与えられる。
その情報を収集して、ユーザーだけでなくコンテンツの作り手も、想定ユーザーの「村」のものをなるべく詰め込もうとする。(その方がパッケージしやすい商品ができあがる)
そこにはジャンルの不自然なミクスチャは存在し得ない。
かくして90年代的な楽しい混乱は失われ、もう戻ってくることはないのだろう。
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