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ともに。

草原のただなかにその男は一人立っていた。
細い枯れ木のような矮躯は今にも朽ちて斃れそうに見えたが、傍らに一頭の馬がおり、二人が睦まじく身を寄せるとしっかり一体の大木になったようにも見えた。私たちが一泊する場所を決めると、男はこちらに気付き快活に口を開いて大きく笑った。
「や 流浪の民か。一杯くれよ」
随分と馴れ合った態度だが 我々にとってこうした邂逅をもてなしで迎えることは常だった。当時少年だった私は力仕事を免ぜられ、仲間たちがテントを張る隙間で男を鞍に座らせ茶会をした。
「もう、しばらく前からこの砂漠にいるようだ。毎日ここぁどこだろうなと目が覚める」
男は世界をあちこちと旅して回っていたらしかった。どこかの地の、見たことのない服装をしていた。上着には膨大なツギハギがある。ビラビラと、切れ端が蛾の大群のようについている。
「メモだ」
と、男がそれを一枚引きちぎって見せてきた。私にその文字は読めない。
「この切れ端の言うことにゃ、俺は半年はここに居るらしい」
驚いた。この広大な草原と砂漠の中で、この場所は長期に留まる条件でもない。どのようにして生き延びたものか。
「さてね。覚えていない、いやはや旅のいつかの頃から、記憶がもたなくなったのさ」
あんたに会うのは初めてかい、と男が訊ねるので肯と答えた。
一期一会、縁を得たな、と男はまた笑った。

夕方まで馬を走らせて遊び、夜に私は男を家へ招いた。革張りの屋根の内側で食事を共にした後 彼にせがまれて楽器を奏でた。生き物の亡骸を使った弦楽器だ。頭についた骨を見詰めて、彼は「俺もあいつが死んだらコレにしてえな」と呟いた。
そしておもむろに視線を巡らせ「布の切れ端をくれ」と手を出してきた。彼が何をするつもりか それだけで察し、私は黙って布袋の内に詰められた歯切れを一枚引き抜き渡した。
彼は爪の先で指の腹を刺すと、楽器の名称と、自分の相棒のことを書いているようだった。
そうしてふと、私の方を見て「お前の名は」と訊いた。
「ウイ」
私は答え 彼の手が動き、数度指を揉む動作をして、それからおそらく私の名を布に刻んだ。
彼の名はわからず、私は彼を「アーヴィ」と呼んだ。

翌朝私のことは忘れられていた。
彼はまた茶をねだり、私の名を訊ね、自分の馬に飛び乗った。私も共に馬を走らせた。
ずうっと向こうへ真っ直ぐにゆけば街に発展した土地がある。
それを指さして伝えれば、男は私のさす方を見たが 布に記すことはなかった。

我々が家を構える間、男も私と共に帰り、水を調達し、家畜を捌き、馬に乗って駆け、夜は楽器を奏で歌をうたった。彼はいい声をしていた。
夜を越しては忘れられたが、朝になればまた笑いかけてくる。
名を訊かれては「メモ」を見せ、隣に記したらしい自分の名前を彼が読み上げてくる。
「誰だ、アーヴィ?」
お前の名だ、と伝えれば酷く愉快そうに微笑むのだ。満面に屈託なく、へえ、けど、随分新しい記憶になってるようだ、と言って。
「呼んでくれ」
不意に強請られて泣きそうになった。
思わず両腕で抱きしめる。
「なんだよ?」
「……お前が酷く孤独に見えた」
「はっは。そうかい」
笑いながら 私の頭をわしわしとかき混ぜ、彼は抱きしめ返してくれた。

明日にはそろそろ、この場から移動しようとなったとき、私は彼に「共に来るか」と訊いてみた。
夜の明るい屋根の中、灯火に照らし出された両眼は光を反射して輝いていたが、彼はゆっくりその目を瞬きさせ視線を伏せた。
「……毎日 ここはどこだと目が覚める」
ゆっくりと 彼は言う。
 毎日初めての景色、俺の一番新しい記憶じゃ知らないようなことが起きる この楽器も、らくだも 乗馬も 楽しかった。お前と過ごす時間はこの切れ端じゃ読み切れんほど、歓びに溢れている「……けど 明日になればまた初めての景色だろうよ」
 お前はそれを覚えていて 俺は違う。と彼は言った。
ゆっくりと顔を上げられ、光る双眸と見つめ合う。
「そうしたらきっとまた俺はここを楽しみ尽くそうとするだろう。何もかもわからないことをこんなにも楽しいと思うから、俺は旅をしてきたのかもな」
ゆらゆらと。灯とともに揺らめく瞳の色は、しかし迷いなど一切無い。
「その時立ったその場所で、生きて 俺は自由だがお前と行けばそれは孤独に転じる お前達とは行かない」
彼は断り、私たちは別れるのが決まった。彼が頭をわしわしとかきなぜ、私もしっかりと抱きしめ返して、ろくに眠らず歌いながら夜を明かした。

それから 何年が経ったことだろう
私はもう成人を迎えて久しく、この土地を訪れても初めはその地だとは気付かなかった
そこで信じられないものを見た。
「やあ」
男は手を上げて私に笑いかけた。
枯れ枝のような矮躯 ……傍らに馬の姿はない。けれど……
「あんた、名は?」
ああ 彼だ。
彼はあまりにも不変だった
まさかあれからずっと いや まさか ……
亡霊かと思ったが近付けば触れることができ、私は思わず彼の両頬を両手で包んだ。
「……お前の、名は」
「それがわかんねえんだよなぁ」
ふと見れば、上着に纏っていたはずの無数の端切れはすべて文字が褪せて消えていた。私は彼の目を見た。あの日の私が見た景色にあるより、その目に宿る光は弱く 眦は儚げにやわらいでいた。
「教えよう」
私の言葉に彼の目が少し見開かれる。
「何をだ」
「アーヴィ お前の、名前だ。お前は、……10年ほど前から ここにいる お前は旅をして生きてきた」
言うと、彼は見開いていた目を大きく瞬かせ 私の手に手を添えてきた。
「なぜか本当のことみたいに感じる」
「ほんとうのことだ」
以前お前と逢った。
抱きしめる。拒まれることはなく、心音が伝わってくる。あの日手放した人のかたちがある。
「なんだよ」
「お前が酷く 孤独だったことを想って」
「……そうか……そう見えたか」
心細げな声が耳元で震えた。
あの日見たこの男はもう、旅が終わってしまっていたのを 気付けなくなっていたのだろうか。この場所にとらわれ、どこにも行けずに 新しい土地も出会いも、ほんとうはもう何度も繰り返し彷徨っていたのか?
けれど そのおかげで出逢えたなら
「ああ ……また逢えて嬉しいよ」
私が言ったその時、抱きしめている男の身体が急に腕の中からすり抜けそうになった。慌てて抱え直す。
覗き込むと なんと腕の中で彼の身体は みるみる細く萎縮して老いていった。息を呑み、まばたきも忘れて見詰めるしかない私の視界で、彼は慈しむように私を見、笑っていた。まるであの日を覚えているかのように。
「ああ ウイ、……別れは寂しいことなんだなあ」
最期にひび割れた唇はそう呟いて 眠るように目を閉じた。
私は彼を抱きしめたまま 歌をうたって夜を明かした。

その場も数日経つと移ろうこととなった。
「さあ ウイ、もういくよ」「ああ」
声かける家族に応え 楽器を抱える。
今度こそ、旅路を共にしよう。私は彼を連れて馬に乗り 草原を駆け出した。




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