#11 初めに言あった

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」
 
「この言は初めに神と共にあった」
 
「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」
 
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」
 
「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」
 
(ヨハネによる福音書)

 
 聖書によると、どうやら、この世界は言葉によってできているらしいです。
 まあ、けれど、そう言われたとしても「だから何? それが当たり前じゃない?」と思う人も多いと思います。
 
 少なくとも、そんなに衝撃は受けないはずです。
 私たちは、なんとなく、無意識に、“言葉によって世界が形作られている”ことを知っています。
 
 例えば、お金はただの紙切れですが、“お金”という言葉を皆で共有することで、ものを交換する為の媒介として広く使用されています。
 もし、一万円札なんて言葉が存在しない国に行ったら、お金は本当にただの紙切れになってしまい、何も買うことはできないでしょう。
 
 言葉は、ものの在りようを縛ります。
 縛るとは、固定するという意味です。
 私たちは、言葉を介することによって、そのものを観測することができるのかもしれません。
 
 陰陽師は、昔からそれを知っていたのでしょうか。
 
(引用開始)
 
安倍晴明:「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」

源博雅:「ーーーーー」

安倍晴明:「ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのは、名だぞ」

源博雅:「ーーーーー」

安倍晴明:「この世に名付けられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」

源博雅:「難しいことを言う」

安倍晴明:「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになるーー」
(夢枕獏『陰陽師:1』)
 
(引用終了)

 
 私たちは、その言葉の魔力とも言うべき力を本能的に理解しています。しかし、多くの人はそれを自らの人生に活かそうとしません。
 
 言葉によって、私たちは自らの在りようを縛られているのに、です。
 私たちは、言語空間に縛られています。そこから逃れることはできません。少なくとも、この人間社会で生き続けようとする限りは。
 
 そこに、悲観を感じる必要はありません。
 好きに書き換えてしまえば良いのです。
 嫌な言葉を良い言葉に書き換えて、その良い言葉に縛られることを選べば良いのです。
 
 ならば、嫌な言葉とはなんでしょう?
 それは、現状の自分を強化する言葉です。
 私たちが、ただの会社員だった場合、例えば言葉は、私たちにこう語りかけてきます。
 
「私はこの会社で働かないと生きていけない」
「私には何の知識も技術もない」
「私は個人でお金を稼ぐような能力はない」
「私は一生平凡な人生を送るんだ」

 この言葉が、あなたにとって心地の良い、ベストな言葉であるならば、それでも良いでしょう。
 しかし、この言葉に拒否感を覚えるならば、話は簡単、言葉を置き換えれば良いのです。
 理想の自分が使う言葉に、書き換えれば良いのです。
 例えば、私だったら、こう書き換えます。
 
「私はどんな環境であろうとも生きている」
「私には一流の知識と技術がある」
「私は個人でお金を稼げる能力がある」
「私は特別でドラマチックな人生を生きている」
 
 こんなの無理だ?
 現実を見ていない?
 そう言いたくなる気持ちは分かります。
 しかし、それは、現在の自己評価ではないですか?
 確かに、今の自分は、何の知識も技術もない。会社に入社して、仕事を恵んで貰えないと、お金を稼げないような、そんな人間なのかもしれません。
 
 しかし、そんな自分が未来でも継続していると、一体誰が決めたのでしょう?
 未来に素晴らしい人間になれないと、誰が言い切れるのでしょう?
 
 聖書曰く「初めに言がある」のです。
 コーチングによれば、情報(言葉)が先、物理が後なのです。
 自らに語りかける言葉がふさわしいものになれば、現実がそれに追いついてくるのです。
 
 これは、もはや科学的に証明されています。
 良い言葉を言うことで、幸せになろうとか、そんなちょっとスピリチュアルの入ってそうな、自己啓発ではありません。
 
 良い言葉とは何ですか?
 何故、言葉によって、現実が変わるのですか?
 どうやって言葉を書き換えるのですか?
 
 答えはあります。
 これからは、それを書いてみようと思います。
 
 それでは、また。
 

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