#7 蜘蛛の糸とナマステ

 私はM先生という方に、現在進行形で色々と教えて貰っているんですけど、その方が書いたあるブログを読んで、すごいことに気づいてしまって、もう衝撃を受けました。
 まさに雷に打たれたかのような衝撃です。
「私は、なんてことに気づいてしまったんだ……!」
「世界がひっくり返るぞ!」
 って感じです。
 
 で、よくよくその引用元のブログを探してみたら、普通に同じようなことが書かれていました。
 当たり前っちゃ当たり前ですけど、やっぱりショックです。全然見えていないんだな、と正直落ち込みました。
 まぁ、でも、それが気づけただけで一歩前進です。
 気を取り直して行きましょう!
 ということで本題に入ろうと思います。
 
 しかし、その前にクイズです。
 
 インドやネパールで交わされる挨拶で、「ナマステ」というものがあるのですが、その挨拶の意味を調べてみると、面白いことが分かりました。
 ちょっとウィキペディアから引用してみます。
 
(引用開始)
 
 ナマスは敬礼・服従するという意味で、テは「あなたに」の意味である。

 ナマスは、次に続く語により、「namo(ナモー)」、「namaḥ(ナマハ)」等に変化する。 仏教では帰依という意味で使われ、漢訳仏典では「namo」は「南無(ナム)」や「那謨(ナモ)」、「namaḥ」は「曩莫(ナウマク)」や「南麼(ナウマク)」等と音写される。
 
(引用終了)

 
 この文章を纏めますと、つまりナマステは「あなたに帰依します/あなたに服従します」という意味になるそうです。
 何故、そのような意味になるのでしょうか?
 何故、インドやネパールでは、そのような挨拶が昔から存在するのでしょうか?
 答え合わせは文章の最後に行いましょう。
 
 
 では、本文に入ります。
 
 
 その私の先生となる方、M先生は、ファインマン博士を引用した方を更に引用してブログで説明されておりまして、私も引用させて貰おうと思います。
 リレーかな?
 
(引用開始)
 
 ファインマンは世界は一個の電子なのではないかと言います。
こうやって電子が回転扉を言ったり来たりしているだけで、順行は電子、逆行は陽電子(として順行の僕らからは観察されます)となっていると。

(中略)

これが宇宙の成り立ちなのではないかというのが、ファインマンの興味深い仮説です。
(この仮説自体は非常に有名です。僕は中学のころ、この仮説を敷衍化させたら、結局はひとつの魂が時間を順行、逆行を繰り返しているだけなのではないかなどと考えて、友人に話していた記憶があります。そう考えると、他者はいつぞやの自分でしかないのです)。
(そんな感慨のSF化がハインラインの「輪廻の蛇」ですね。その映画化がイーサン・ホークのプリデスティネーションです)
 
(引用終了)

 
 上の文章のパクリなんですけど、世界が元々一つの電子なのだとしたら、他者は全て私であり、私は全ての他者となるのでしょう。「一人はみんな、みんなは一人」です。
 これは、あまりにも素晴らしいアイデアです。
 このアイデアを、M先生はこのように記述しました。
 
(引用開始)
 
 僕たちは「他者」に憧れ、「他者」に機能を果たそうとします。それはもしかしたら「他者」とは自分のことだからかもしれません。
 
(中略)
 
 他者とは「未来の自分」であり「過去の自分」、あるいは自分とは「未来の他者」や「過去の他者」なのかもしれません。だからこそ僕たちは他者に未来の自分を見出して憧れ、他者に過去の自分を見出して機能を果たしたくなるのでしょう。その逆もまた然りです。
 
(引用終了)

 
 これを私なりに解釈しますと、他者は「未来の私」であり、常に今の私に向けて必死にメッセージを送ってくれているのです。
「お願い、私のメッセージに気づいて、応えて!」
「このメッセージには、あなたが私のところまで辿り着くための重要な情報があるんだ!」
 と。
 
 そのメッセージとは、例えば、先生の言葉かもしれませんし、友達との雑談かもしれませんし、ブログの文章なのかもしれませんし、はたまた駅内の広告かもしれない。
 未来の私は、あらゆる手段で私に対してメッセージを送ってくれているというのに、私たちは中々それに気づけない。
 
 それは何故か?
 答えは、自分の力だけで何とかしようとするから。
 自分だけで何とかしてしまおうとするから、すぐそばにある救いが目に入らないのです。
 まるで「蜘蛛の糸」のカンダタです(ちょっと違う?)。
 
 未来の私は、今の私にとっての救世主です。私を愛し、私に期待し、私の成功を確信してくれています。
 何故なら、過去の私があって、未来の私があるから。
 未来の私から見れば、今の私はあまりにも弱く、情けなく、みっともないのですが、それが逆に愛おしいのです。
 良く頑張ってくれたね、と褒めて褒めて、褒めまくりたいのです。それが未来の私です。
 
 そんな未来の私の存在を確信して、百パーセント体重を預けて、その足元に縋ろうとするのが、仏教における他力という考えなのでしょう。
 南無阿弥陀仏です。
 
 そう考えると、私が嫌いな人物も、私にとっては救世主なのです。その方はあえて私に嫌われるという手段を取ることで、私を未来へと導いてくれるのですから。
 そう思うことは、中々難しいですけれど、論理的に考えると、そういう結論になります。
 
 ニーチェも。
 イエスも。
 仏陀も。
 M先生も。
 みんな「未来の私」であり、私を未来へと導く為にメッセージを送ってくれているのです。
 
 ほんと、なんて素晴らしいアイデアなのでしょうか。
 しかも、これは逆向きにも左右するのです。
 他者は「未来の私」であると同時に、私は「未来の他者」でもあるのです。
 
 つまりは、私もまた「未来の他者」として、他者を未来へと導く為のメッセージを送っています。常に社会や個人に対して、機能を果たし続けています。
 
「あなたは生きているだけで偉い!」
 いや、本当にそうなんです!
 私たちは生きて、息を吸って吐いているだけで、何故か他者に対して、機能を果たし続けています。
 
 ただ、何者でもないと、他者の私に対する重要度は下がるので、当然メッセージが届く可能性も低くなります。
 私たちは自らの能力を伸ばし、最適な役割を獲得することで、他者を未来へと導くメッセージを送る、という機能を向上させていきます。
 
 『究極の善行』とは、つまり、他者を未来へと導くという行為のことを指すのかもしれません。
 
 しかし。
 ここで、私たちが「生きる道」が見えてきます。
 いえ、生き方は人それぞれですが、あらゆる幸福な生き方に共通する真理とも言えそうなモノが見えてきます。
 
 「良い人」になれば良いのです。
 
 「良い人」になれば、「未来の私」がまるでお釈迦様のように蜘蛛の糸を垂らしてくれます。
 そして、その糸を掴んで登る必要すらなく、ただ掴んでいるだけで「未来の私」がスルスル〜と糸ごと私を上に引っ張り上げてくれます。
 
 では、何故、「未来の私」が私を上まで引っ張り上げてくれるのでしょうか?
 
 それは、「未来の私」は同時に「未来の他者」でもあるからです。
 ファインマンの仮説を思い出して下さい。世界は一つの電子なのです。
 「未来の私」は、私を救いたくて救いたくて仕方がないのですが、同時に、あらゆる生命も救いたくて救いたくて仕方がないのです。
 何故なら、あらゆる生命は「私」でもあるからです。
 
 誰だって、「私」は大切だし、救いたいし、幸せにしたいですよね。それと同じなんです。本当に同じなんです。
 「私」を救いたいから、「あらゆる生命」も救いたいのです。だって、それも「私」だから。
 
 だから、「未来の私」は、他者に対して機能を果たそうとする「良い人」を、上に引き上げたくて仕方がないんです。
 何故なら、「良い人」は、また別の「私」を救ってくれるからです。
 
 何も考えないで気楽に吐き出した言葉よりも、一ヶ月以上朝から晩まで知恵熱が出るほど考えて、掛けてあげた言葉の方が、他者が救われる確率は高いでしょう。
 そういうことができる「良い人」を、「未来の私」は早く上に引っ張り上げて、能力を与えて、より多くの「他者=私」を救わせてあげたいんです。
 
 だから、有名になりたいなら、金を稼ぎたいなら、幸せになりたいのなら、「良い人」になることです。
 まさに岡田斗司夫先生の『「いいひと」戦略』です。
 
「持っていないなら、せめてあるふりを」
 
 良い人を演技しましょう。
 良い人という仮面を被りましょう。
 その仮面はやがて顔面と同化します(恐らく)。
 まさに、ヨルシカの「思想犯」です。
 
 でも、そうやって「良い人」になり、成功してしまうと、途端に人は傲慢になってしまうようです。
 私にはまだ想像することしかできない世界ですが、どうやらそうらしいのです。
 
 まさに「蜘蛛の糸」のカンダタです。
 分からない人の為に、あらすじをちょっとだけ解説します。
 
 カンダタは生前、沢山の罪を犯して地獄に落とされますが、昔生きている時に、一度だけ蜘蛛を助けたことがありました。
 それを見ていたお釈迦様は、「もしかしたら、こいつは実は良い奴で、他者を救ってくれるかもしれないぞ」と、カンダタに対して期待をし始めます。
 
 何故、多くの人を殺しておいて、たった一匹の蜘蛛を助けただけで、お釈迦様がカンダタに期待したのかというと……お釈迦様にとって、蜘蛛と人に差は無いからです。
 こう聞くと、「蜘蛛と人が同じな訳がないだろう!」と人間のエゴを発揮してしまいそうになりますが、お釈迦様はあらゆる生命なので、蜘蛛もまた自分なのです。
 
 余談ですが、悟りとは、「差を取る」という意味らしいですよ。蜘蛛と人に差はない。身も蓋もないですが、論理的に考えると、そうなっちゃいます。
 
 話を戻します。
 
 お釈迦様はカンダタに期待したので、蜘蛛の糸をスルスル垂らして、カンダタを地獄から現世まで引っ張り上げようとします。
 当然、カンダタは喜び勇んで、蜘蛛の糸を掴んで登り始めるのですが……他の亡者達まで蜘蛛の糸を登り始めたので、「おい、お前らまで蜘蛛の糸を登ろうとしたら、蜘蛛の糸が切れちまうだろうが!」と怒り、亡者達を蹴り落とそうとしてしまいます。
 すると、プツンと蜘蛛の糸は切れ、カンダタと亡者達は地獄まで真っ逆さま。上から眺めていたお釈迦様は「カンダタは他者を救ってはくれなかったか」と、残念そうな顔で去ってしまいます。
 
 これが、大まかなあらすじです。
 この物語から、私たちが学ぶべきなのは、カンダタのようになってはいけないということです。
 カンダタは、悪いロールモデルなのです。
 反面教師なのです。彼から、私たちは生きる姿勢を学ばなければなりません。
 
 では、カンダタの何がいけなかったのか?
 それは、明らかです。
 カンダタは他者を救おうとしなかったからです。
 むしろ、他者を蹴落とそうとしてしまったのです。
 今までの文脈で述べるなら、カンダタは「良い人」であることを辞めてしまったのです。
 
 お釈迦様は、カンダタが良い人だったから、他者を救ってくれると期待して、蜘蛛の糸を伸ばしたのに、カンダタにその気がないのだとしたら、そりゃもう糸を断ち切るしかありません。
 カンダタを見捨てるしかありません。悲しいことですが、お釈迦様にも全ての生命は救えないのです。
 本人にその気が無いのなら、いくらお釈迦様でも救えないのです。
 
 お釈迦様あるいは「未来の私」の助力を得る為には、私たちは一生「良い人」で在り続けるしかないのです。
 でも、別にそれは何も悪いことではありません。
 むしろ、良いことです。とっても良いことです。
 私たちは人を殺すと、嫌な気分になりますけど、人を助けると、良い気分になることができます。
 それは、今までの脳科学が証明してくれています。
 
 「嫌な人」になるより、「良い人」になった方が気分が良いし、素敵だし、何より「未来の私」が助けてくれます。
 なら、もう「なる」一択しかないでしょう!
 あなたも私と一緒に「良い人」になりませんか?
 
 はい!

 では、そろそろ「ナマステ」について、答え合わせしていきたいと思います。
 いや、私が答え合わせなんて、そもそも傲慢なんですけど、でもそこはちょっと見逃して下さい。
 面白い感じに文章を書きたいなと模索していたら、こんな形式になっちゃいました。
 
 ナマステは「あなたに帰依します/あなたに服従します」という意味になります。
 ちなみに帰依とは、仏教用語で意味は「神仏や高僧を信じてその力にすがること」となります。
 
 ナマステが挨拶の所作として使われている理由は、多分ここまで読んでいる人なら、分かるのではないでしょうか。
 
 挨拶する相手が「神」だからです。
 神という言葉が不満なら、「未来の私」だからです。
 私たちは、「未来の私」の助力を得る為に、つまり、救って貰う為に、ナマステと挨拶して、「あなたに帰依します」と誓うのです。
 
 ナマステは挨拶の言葉であると同時に、誓いの言葉でもあるのです。というより、誓いの言葉を挨拶として使っているのです。
 
 挨拶することで、私たちは「未来の私」の存在と、「未来の私」がもたらしてくれる「救い」を確信できるのですから、やらないと損です。
 インドやネパールの人達は、それが分かっていたから、ナマステという挨拶が生まれたのでしょう。
 
 なんだか南無阿弥陀仏という念仏を思い出してしまいますね。
 
 ちなみに、昔の日本人は太陽のことを「今日(こんにち)様」と読んでいたそうです。太陽と聞くと、我らが主神『天照大神』を連想してしまいます。
 天照様は、大日如来と同一視されています。
 そこから、「こんにちわ」という挨拶を、「ナマステ」と同一視するのは、ちょっとこじつけですかね?
 
 結論として、「良い人」となり、未来の私に救って貰う為には、「ナマステ」という挨拶が有効ですよ、ということです。
 多分、この文章から宗教っぽさを感じる人も少なくないかと思いますが、まあそれを仕方がないと思います。
 私は、聖書も浄土真宗を正式に学んだことはないですが、多分書いてある内容はそんなに変わらないと思います(うわぁ、傲慢だぁ)。
 
 でも、それは、ひっくり返すと、それだけ有効なシステムだから、長く残っている、とも言えそうです。
 リンディ効果です。
 古くとも存続しているものは、より存続していく。
 カビの生えた本は、カビを払ったとしても、またカビが生えるまで、古く、長く残り続けます。
 
 キリスト教はこれから先も残り続けるでしょうし、浄土真宗もそうです。私の考えはどうでしょう?
 ていうか、別に私の考えでも無いですけどね!
 ただ書いてあるのが、見えるようになっただけで、これで私の勘違いだったら、正直目も当てられない。ただちょっと自信はありますり
 
 と、長々と書きましたが、そろそろ終わりたいと思います。
 
 それでは、また。
 

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