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痛みを伴わない教訓には意義がない

 昨日観た『愛してるって言っておくね』という12分のショート映画が、衝撃的でしたので、紹介させていただきます。
 以下より、あらすじを引用します。
 
(引用開始)
 
 学校で銃乱射事件が発生し、突然の悲劇で我が子を失った悲しみと虚無感にさいなまれる両親の心の移ろいを描く。


(引用終了)

 
 この映画では、愛する子供の死をきっかけに、両親の心の距離が離れていく様子が描写されています。
 自分の子供を失った悲しみ、絶望。あの時止めていれば、という狂おしいほどの後悔。
 そんな負の感情に囚われたことで、目の前のパートナーの悲しみすら、ふたりは、想像することができなくなってしまっていました。
 
 わたしには子供はいません。
 だから、想像することしかできません。
 大切な子供を失った悲しみは如何程ばかりなのだろうか、と。
 きっと誰だって、自分が一番悲しいと思ったときが、一番悲しいのだと思います。
 
 だから、たとえば、
 
「お前は子供を失って悲しいだろうが、世の中には産んだ子供がみんな死んでしまった母親もいる。それに比べれば、お前の悲しみは些細なことだ」
 
 という言葉は、あまりに優しさに欠ける発言で、誰だって眉を顰めることでしょう。
 でも、悲しみを他者と比較することには、たしかに意味はないと思いますが、
 わたし以外にも、わたしと同じ悲しみを抱いた人間がいる、と認識することは重要かもしれません。
 
 なんの話?
 と問われますと、抽象度の話です。
 以下より、まといのばのブログの記事を引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
 娘を亡くして泣き叫んでいる母親に対して釈尊はこう語りかけます。
 
『テーリーガーター』の第51偈です。
ジーヴァーという娘を亡くして泣き叫んでいるウッピリーという母親に向けてこう言います。

(引用開始)
母よ。
そなたは「ジーヴァーよ!」といって、林の中で叫ぶ。
ジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘(だび)に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?(引用終了)(『尼僧の告白』p.19)

ここに「抽象度を上げる」ことの肝があるように思います。
単純に視点を上げていくだけにとどまらず、必ず具象的なものとの強いリンクがあるのです。
ふわふわと遊離したカタチの抽象概念をもてあそぶのではなく、カタチも重さも重力もある具象的なものとの強い関係が残るのです。

ここで母親が自分の娘の名を呼んでいることは自明です。

しかし母親の言動だけを虚心に観るならば、84,000人のどのジーヴァーに呼びかけているのかは決定不能です。我々が分かったつもりになれるのは、そのコンテキストを深読みしているからです。

そして釈尊の指摘によって、84,000人の娘がここで荼毘に付され、そしてその娘の死を悔やみ、泣き叫ぶ多くの母親がいて、父親がいて、兄弟姉妹がいて、友人や知人がいたことが容易に想像できます。その悲痛の総体が重くのしかかってきます。

特に自分が苦しんでいる最中だけに、彼らの苦しみを自分のものとすることができます。

そのときに84000通りの哀しみの共同体を俯瞰し、俯瞰しつつも、その一つ一つの痛みを感じることで、自らの抽象度が一気に上るのです。

そのときの抽象世界というのは、ダイレクトに物理世界と結びついています。
 

 
(引用終了)
 
 抽象度がイマイチわからない人のために、簡単に説明します。
 抽象度とは、物事をどのくらい高い視点から見るか、その度合いを言い表した言葉です。
 
 たとえば、飼っている犬の名前を“クロ”とします。
 クロはチワワという犬種なので、クロは「チワワ」という概念に含まれることになります。
 だから、チワワは、クロより少し抽象度が高い概念だと言うことができます。


 これをさらに発展させると、チワワ→犬→哺乳類→動物→生物という順に、ひとつの概念が含む世界は大きくなって、抽象度が上がっていきます。
 
 難しいのは、抽象度が上がるということは、情報量が減っていく、ということです。
 とはいえ、先ほどのチワワのクロを例に挙げると、もしかしたら理解がしやすいかもしれません。
 
 たとえば、クロは女性にはよく懐きますが、男性にはワンワン! と強く吠えて威嚇する犬なのかもしれません。
 その場合、チワワは、この「女性にはよく懐きますが、男性にはワンワン! と強く吠えて威嚇する」という情報は持ちません。
 
 当たり前ですね。
 なぜなら、それはチワワ全般に共通する性質ではなく、クロの個性だからです。
 
 だから、抽象度が上がると情報量は減っていくのです。
 
 しかし、同時に、チワワは「女性にはよく懐きますが、男性にはワンワン! と強く吠える」という情報を潜在的に保有しています。
 
 だから、たとえば、飼い主がこのクロを売ったペットショップに対して、
「女にはよく懐くのに、俺みたいな男にはワンワンと強く吠えてくるんですが、もしかしたら本当はチワワではないのではありませんか?」
 とクレームをつけることはありません。
 
 そういうチワワもいることを、潜在的に知っていたからです。
 
 これが、抽象度の高い情報は抽象度の低い情報を包括している、ということの意味だと思います。
 つまり、抽象は必ず具体と強くリンクしているのです。

 だから、具体とのリンクがない抽象は、どこか夢の世界のようにフワフワしています。
 たとえばそれは、経験を伴わない言葉に、わたしたちが共感しないのと同じことです。
 
 まさに「事物を離れて観念はない」のです。
 ちなみに、この言葉はわたしの先生がブログで紹介してくれた言葉なので、少し紹介させていただきます。
 
(引用開始)
 
そしてその詩の作風、あるいは文体は、観念を排した極めて即物的なものでした。これに関しては僕が説明するよりもウィリアムズの薫陶を受けた、同じく詩人のアレン・ギンズバーグの言葉を引くのがいいでしょう。

※アレン・ギンズバーグ


(引用開始)
ウィリアムズはあらゆる観念を捨てました。「抽象」を捨てた、ということです。そして事物から始めたのです。そうすると、どんな人で物事をあらゆる異なった角度から見ます。つまり「言葉自体は、事物そのものではない」ということ。コトバ、つまり、この「コトバ」という言葉が、それ自体概念であり、すでに抽象的なことなのです。つまり、「観念」なのです。そう、この世の中自体が、虚構(フィクショナル)なのです。「言葉それ自体が観念なのだ!」この言い方自体、ちょっとした二重性をもっていますが。しかし、誰でもある同じ場所へ降り立ち、そこからはじめることができるのです。誰もが降り立つことのできる、ある場所。そんな場所が、ひとつ存在するのです。
(引用終了)(原成吉・訳編『ウィリアムズ詩集』アレン・ギンズバーグ「事物の世界の中のウィリアムズ」・遠藤朋之訳・P.124)
 
ことほど左様に観念と抽象を捨てて事物から始めるというスタイル・文体は、妄想を拒絶する気功とも通じるところがあります。僕は「事物を離れて観念はない」と聞くと、どうしても自分のメンターが錬金術の言葉を引用して声に出して伝えてくれたことを思い出します。

錬金術の世界にエメラルド・タブレットというものがありますが、そこに書かれている言葉が、ウィリアムズの「No ideas but in things(事物を離れて観念はない)」と通じるところがあるように思います。

「下にあるものは 上にあるものの如く 上にあるものは 下にあるものの如し」
 
(中略)
 
事物を離れて観念はないのです。ここで現実の事物を踏まえない誇大妄想は戒められます。

例えばこのブログでも人様のゴールをパクることを推奨していますが、それをそのままパクっただけでは自分のゴールにすることはできません。

必ずそれを自分の臨場感の持てるところまで引き下げる必要があります。また臨場感を持てる抽象度は人によって大きく変わります。

例えば偉大な人が世界平和のために活動していて、それに憧れてそのゴールをパクったとします。しかし僕を含めて多くの人が世界平和に対する真の臨場感はないはずです。

メディアを通じて戦争の悲惨さを知っていると反論されるかもしれませんが、それもやはり誰かに吹き込まれた観念でしかないのです。実際の、事物として争いの悲惨さを知っているのは当事者だけでしょう。
 

 
(引用終了)
 
 抽象度について語りすぎて、少し横道に逸れてしまいましたので、本題に戻ります。
 
 映画では、子供を失った両親は、それぞれ自分だけの悲しみの内に引き篭もります。
 しかし、そうしたことで、ふたりの距離がどんどん離れていきます。
 自分だけの悲しみしか見えなくなり、相手の存在が見えなくなっているためです。




 しかし、偶然、娘の部屋から音楽が流れます。
 それは、本当に偶然でした。しかし、その偶然によって、ふたりはある真実に気づきます。
 
「自分以外にも、深く悲しんでいる人がいた」
 と。
 
 その人とは、パートナーのことでした。
 今まで自分だけの悲しみに浸っていたふたりは、初めてパートナーのことを見て、その悲しみを想像しました。
 そして、その悲しみを自分のことのように理解して、ふたりは互いに寄り添ったのです。
 
 これぞ、まさに抽象度が上がった瞬間ではないでしょうか。
 
 釈尊は、悲しみに暮れる母に、強制的に、自分以外にも子を失った母がいたことを理解させました。
 そして、その人たちの悲しみを自分のことのように捉えさせ、ひとつひとつ痛みを味合わせました。
 
 それは、今の倫理観で考えると、鬼畜の行為であると思いますが、同時に、ある種の救いでもあるように思えるのです。
 
 自分より悲しんでいる人たちがいる、ではなく、自分と同じように悲しんでいる人たちがいる、と知ること。
 
 それは、悲しみを和らげる行為ではないかもしれません。
 その逆で、悲しみを客観視する行為です。
 悲しみを自分から遠くに置く行為、と言ってもいいかもしれません。
 
 だから、おそらく、きっと、悲しい、という感情が消えてなくなることはないでしょう。
 けれど、映画のふたりのように、今まで観えていなかったものが、観えるようになります。
 
 そして、観えるようになれば、操作することができます。
 映画であれば、パートナーの悲しみに寄り添い、癒やしてあげることができます。
 
 それが、きっと愛なのでしょうし、機能を果たす、という言うのかもしれません。
 
 この映画を観ていて分かったのは、抽象度が上がる瞬間というのは、このように苦痛が伴う、ということでした。
 思えば、漫画やアニメで覚醒を果たした主人公は、つねに絶望のどん底に突き落とされています。

 その痛みこそが、抽象度を上げて、別の可能世界に移動するための条件なのでしょうか。
 イヤですけど、ほんとうにイヤですけど、心構えがあれば、少しはその悲しみもマシになるかもしれません。
 
 ふと、『鋼の錬金術師』の主人公、エドワード・エルリックが物語の最後に残した言葉が頭によぎったので、それを紹介して、今日の文章を締め括らせていただこうと思います。

(引用開始)

「痛みを伴わない教訓には意義がない。人は何かの犠牲なしには何も得ることはできないのだから。しかし、その痛みに耐え、乗り越えた時・・・・人は何ものにも負けない、強靭な心を手に入れる。そう、鋼のような心を…」

(引用終了)
 
 それでは、また。
 またね、ばいばい。
 
(※抽象度について知りたいのであれば、まといのばのこのブログ記事がおすすめです。紹介させていただきます)


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