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物質主義者の共依存がタイムラインを闊歩して、そんなのを横目に眺めながら厭世気分を引っ提げて、今日もまた頭のお薬を貰ってきた。最近の私はどうにも調子が悪い。

それまでも新しいフォルダをF2で「歴史」という名前に更新し続けていたけれど、20年8月のバージョンアップは、ブルースクリーンを強引にセーフモードで起動し続けるような真似しか出来なくなった。

とどめを刺されたのか、延命をされたのかもわからずに、いつか終わりが来ると知りながら生の消費に焦って怯えて、それでも今の私は全く動くことが出来なくなってしまった。

溺れてた頃は足掻けてたから、沈んでしまった今は抵抗する意味もなくなってしまっている。

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他者とのコミュニケーションツールとしての、記号としての言語は私にとって多大な脳内変換を要するので、実際のところこれくらい意味の通りづらい抽象的で行間を読むような言葉の方が幾分か紡ぎやすい。

それだけでも、私にとって生きることや歴史を共有することの面倒くささというのが相当だというのはわかってもらえるかと思うのだけれど。

現在に於ける環境に必要な歴史を引っ張り出してくるだけでも、密度が高すぎて説明というのは困難だ。一方で、削ったとすれば不足が出て、その不足というのは私の人生に取っては命取りになるようなエピソードばかりだ。

例えば、明日には両親か前職の教育係に殺されているかもしれない。親友はトリッキーにこの世を去っているかもしれないし、自分が首を括っているかもしれないし、アレルギーで命を失うかもしれない。

人の目に映る自分は、現在と未来だ。だから、必要性のある場面では、現在と未来を正確に把握させなければいけないのだ。

社会保障のような支援の手続きを受けるための状況説明だったりもするし、誰かに心を許すという行為の前段階でもあるのだろうと思う。前者であれば心を殺して、自分のPTSDの数々をビジネス文書に落とし込めばいい。必要なのは事実と補填であり、情動や同情ではないのだから。

問題は後者であると幾度となく痛感する。

何故ならそれは「不要」であるからだ。「心を許す前段階の努力」であり、それは一方的なエゴである。他者からすれば、興味のない映画を見るような押しつけがましいかまってちゃんの自分語りに過ぎないだろう。

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絶賛厨二病を拗らせ続けていた高校時代の洗脳実験では、これを逆に活用してレズビアンの製造に成功した。(うまくいき過ぎてひどく反省した)

かまってちゃんの自分語りを傾聴し、欲しがっている相槌を与えれば、大抵の人というのは簡単に動くと思う。本音を好きにベラベラ喋る人間というのは枯渇が丸見えなので、疑似的にでもそこを補填してあげればいいのだ。

短絡化させた洗脳術だと思うし、洗脳で恋愛をする必要性を感じないので、私はこのロジックが通ることを知ってから一切を手放した。見ていないけれど、YouTuberなんかが「モテ術」とか言ってるのは大抵がこれだろうと思う。

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話は逸れたけれど、私の歴史や状況というのはあまりにも拗れすぎて、自分は自分の人生に食傷気味だ。自分自身が、直線の人生として認めてしまえば重たすぎて生きることは叶っていないだろうと思う。フォルダ分けが功を奏す。

両親、養育環境、虐待、育児放棄、養育環境の問題点、精神分野、学歴、虐め、功績、趣味嗜好、職歴、パワハラ、セクハラ、モラハラ。自分の記憶力が悪いのって、自分の人生に記憶領域を割き過ぎてるせいなのかな。

遭ったことを知覚しつつ、PTSDの発作が起きないように左脳でだけ処理する。仕事で必要な過去の事例を淡々と本棚から出して処理するような形に似ている。

漫画だとか映画だとか、何かの弾みに、気を引き締めそびれてPTSDが暴発することはあるけれど。そんなのも、大抵は題材の段階で、右脳や記憶を切り離しておけばいいので滅多にないと思う。

自分の中では「そうするしか生きる手段が無かったから」逃げとして身についた、当然の生存戦略だったのだけれど。多分、ここまで面倒くさい記憶管理をしている人もいないのだろうなと思う。残念ながら、自殺するか、殺すかした方が圧倒的に合理的だよね。

その辺りで、私は馬鹿だったとというか、独りっていうのが確定した瞬間なのだろうなと何度か考えた。一度や二度とか、最近とか、そういうんじゃなくて「きっとそうなんだろうな」ってずっと諦めがこびり付いている。

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最初は無意識、後から意識的に人格を複数持った。心を開くのが面倒臭い上に勝率が低いことがわかりきっていたから、自己開示が出来ない以上、人より層が一つ増えた。三層目は複数のキャラクターに分けた。

ひとつは実名の私、もう一つはインターネット上の私、その後は用途に応じて複数のキャラクターを演じた。ずっと、マーケティングとブランディングの繰り返しだ。

実名の私は真実かと言えば、単なるオフラインであって両親からも「あんた」「お前」とばかり罵られてきた。なので、そんなに自分という自覚はないけれど、記号としての歴史への愛着がある。別にそこも居場所ではないのだけれど、両親の追撃から逃れるために実名を一時殺すしかなかった。

それに伴って、人間関係も大きく変わった。マーケティングやブランディングというのも「素」じゃないから決して楽じゃないけれど、「素」がわからないので何が意志に反しているかわからない。そんなわけで苦労しながら積み上げた人間関係だったのだけれど、それも一掃する形になった。

「素」じゃない分、その点に置いての精神のダメージは少ない方なのかなと思う。ただ、女という賞味期限が短い生き物が、長い時間苦労して積み上げたものが振り出しに戻って、ああもう流石にやり直しは難しいなという無気力がすごい。

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その自暴自棄と共に、ネット上もよくわからなくなった。理解されたいと思いつつも、理解できる人間がいないという絶望を何度も味わってきている。

でも、自分自身が不自然な生であるから理解が難しいわけで、自然な生からすると理解ができないのが当然なのだ。それは、健全であるし、私は自分が理解(幸せ)を諦めているから、他者が望んでこちら側に来るのは建設的ではない。

複合的問題を抱えた、私に似た状況の人々を幾度か見た。自助グループのように共感できれば良いのだけれど、それぞれが種類の違う複合的問題だからそういう問題でもないのだ。

彼らは大概「諦めない」を選ぶし、いつか「理解をされること」を叫び続けている。それはとても素晴らしい事で、彼らが幸せを感じられていればいいなと思う。一方で、私というのは良くも悪くもとても優秀な血筋が混ざってしまっているので「見え過ぎてしまう」というきらいがある。

日本人の幸福度が低い原因の一番を煮詰めたような感じだと思う。少なくとも賢過ぎて血縁者が2人自死している。

きっと、どんなに優しくされても、どんなに幸せな環境に置かれたとしても「ああ合わせてくれているな」というのが、本人からしたら潜在意識でも感じ取ってしまうのだ。感じ取るというのは正しくないね。それまでの行動とのロジックが瞬時に組み上げられるような感覚。

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上記の厨二実験のように、早いうちから「モテる」という事は私にとって難しい事ではなかった。虐待を受けていたおかげで、外界への適応速度が上がったこと、家がビジネスライクだったおかげで、需要と供給の要領を掴みやすかった。

外見に対しても、両親からの罵詈雑言によってずっと醜形恐怖症ではある。けれど、虐めや弄りの場面で容姿が出ないこと、褒める言葉が多い事、一定の年齢になるとナンパや一目惚れされることが珍しくなくなったことから、自分の容姿が一部の層に需要があるということを知った。

そこから、周囲の発言内容などを聞いて、客観的な自分の容姿と、それに応じたブランディングというものはすぐに理解できた。おそらくだけど、フェミニン系を着てフローラル系の香水でも付けて、上記の洗脳的モテ方の振る舞いをすればモテることは出来たと思う。

一方で、それを知った自分は嫌だと感じた。

10年以上は悩み続けているけれど、私は恐らくFTXだと思う。女性的な服装をしている時は「男の娘」とか「コスプレ」の気分に近い。ボーイッシュとかマニッシュな服装の方が好きだし、香水だって好きなのを付けたい。趣味も女性らしさも男性らしさも色々ある。

知覚できる範囲は少ないものの、抑圧された奥の方に自我というのはきっちりと存在している。

人生というのは誰のためにあるのかと問えば、自分の人生に責任を取れるのは自分だけなのだ。世界に都合よく生きたって、媚び諂って自分を隠してそれが人生の全てになっても達成感もなんもない。

ある程度の攻略法がわかったからこそ、私の人生は屈折する。

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自我は強いのに、言語化が追い付かない。それらも関連するのか、どんどん複雑化した歴史が、現在や未来の足を引っ張る。

言葉というのは難しい。端的にしてしまえば、ニュアンスが伝わらなくなる。だから、理解されたい時ほど丁寧に話すけれど、それは冗長で現代人の頭に入りづらい話なのだろうなと思う。

そして、私自身も自我を正確に把握できていないから、こうやって薬でどうにか心の痛みを散らすしかないわけで。結局、理解してもらうっていうのは相手側が集中力を切らさずに、私の話をすべて聞いたうえで、私以上に私の潜在意識を理解することなのだろうなと思う。

先に述べたけどね、血筋もそうだし、自分自身も全国模試で表彰されたり偏差値も決して低くなかったんだよ。学歴はクソだけど。だから社会に出て、大抵の難しい仕事ではとても評価を受けるけど。

じゃあ、私以上の頭脳を持った人が、私なんかに時間を割く暇あるのかね、と思うと「ああやっぱり絶望的だな」って思う。

学歴とかじゃなくてね。早慶レベルでも馬鹿な人は山ほど見てきたし、逆にF欄でもそこそこ賢い人も見てきたよ。社会と学力はそこまで密接には関係していないと思う。問題は精神力で。

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「求めすぎ」ってのは十二分にわかりきっているし、そうじゃないと、私はきっとこの年まで誰とも交際してこなかっただろうなと思う。少しは妥協と希望を持って、人と対峙する気になったから自己開示の努力もしたけれど。

理解されるには、やっぱり人生100週目とかじゃないと難しいよねと思ったり。デフォルトでの精神主義思考前提とか、やっぱ現代じゃ難しいって。

とはいえ、自分の命自体が「両親が物質主義スケールで不要とみなした命」だから「不要だから死ななければいけないのに生きている」という鬱の自殺企画から抜け出すために精神主義を当然にしなきゃいけないわけで。

私は、自分以外の人に(自分と生活を共にする等がなければ)寛容だし、幸せになってほしいと思うからその為に行動をしたいと思っていて。自分のことを好いてくれる人たちには一層そう願うわけで。物質主義社会の中で本人たちに不必要なら、精神主義を押し付けるのは混乱の元なんだよね。

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そう思うと、大体二つ位の生き方が見えてきて、その二つの間でずっと揺らめいてるのが今までの自分の人生だったなあって思う。

一つは、理解されることを諦めてでも、肉体的快楽や契約的メリットを考えて、情動に流されて恋愛をすること。ただ、こっちに関しては先を考えた時に本当の意味での恋から愛への変換が難しいので「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」にはならないだろうなと思う。

二つ目は、交際自体を諦めること。これは東京に来てから、結構貫いていたこと。マジで有難い事にモテないわけではないので、何度か真剣交際の誘いはあったものの「今はそういう気分じゃないし、仕事だから」と言ってはぐらかしては「婚期のがしますよ!」とお節介な男性陣から浴びるように叫ばれてた。

二つ目の方を選んだほうが、圧倒的に他者に対して幸せなんだよね。交際をしないだけで、遊びはするし、息抜き程度に遊びたい男性って沢山おるから。結婚願望が著しく低いというか、生き遅れる前に死ぬだろうなという感覚しかないから、惨めとかもないしね。

一つ目を選んだ場合だと、相手の人生を浪費してしまう。これは元彼で4年半やった反省。その後、二人の女性と付き合って、今はやっとうまくやってるっぽいけど、私がプロポーズを渋ったりウダウダやってなければ、もっと早く彼の願う子供のいる幸せな家庭を叶えたかもなって。

そう考えると、圧倒的に二つ目で生きた方が良いし、それはそれで異業種の会話とかくっついてきたりして、情報で知的好奇心が満たされたり役に立ったりする。

ってのはわかってんだけど、自分も左脳だけで生きてないんだなあと実感することが多い。そもそも左脳だけで生きてれば、書き出しみたいな意味のわからんポエムみたいな言葉を書き連ねたりできなかったと思う。情動のキャッシュのフラストレーションで抽象画ばかり書いている。

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なんというか、恋愛ってそういうレベルで悩むことって少ないんじゃないかなと思ってさ。あんまり使いたくないけど、普通の人が羨ましいなと思うし、自分は障害者なんだなって実感する。日常生活に支障をきたすって認めなきゃなって。

生きるってすっげえ苦しいし、しんどいんだよね。それはもう、私からしたら小学生から当然みたいな感じなんだけど。希望って怖いね。運命はいつも上げて落とされての連続で。もう私はボロボロだから、今更になって壊れてもどうでもいいけど、人を巻き込むのだけはエゴとして自分の心が痛むからやめにしたいね。

生きる道を選ぶのなら、もう少し自分を律して、もっと強くならないと駄目なんだろうなと思った次第でした。なさけねー。

でも、もう少しだけ、私にも優しくしてくれてもいいだろ。世界。

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