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【世界トイレ化計画】

私自身が一番芸術家をしていたのは高校生の時です。
その行為がアートであるか?ないか?正直そんなことはどうでも良かったのです。高校生の目から見た社会への憤りを表現した行為、それを芸術活動と言えるとしたらその一つが「世界トイレ化計画」でした。

高校生の当時、トイレで読書をするのが習慣になっていました。なぜか落ち着くし集中できるという理由でした。ある日、知人が撮影に使ったというTOTOの洋式便器を捨てるというのでもらってきました。これでトイレに行かずとも自分の部屋で本が読める。そう思い、重たい洋式便器を部屋に運び入れ着席して読書をはじめると、、、
なんと!すぐに便意が、、慌ててトイレに駆け込みました。
部屋に戻ってくると、部屋の片隅に便器がありました、その時に思ったのです。部屋がトイレになっている。。。その存在感とデザインに圧倒されました。

この形状に座ることで人は条件反射的に?便意をもよおす。冷静に自分の部屋に設置してある機能しない便器を見た時に、そう理解したのです。機能しなくてもこの形状は椅子ではなく圧倒的に便器である。
つまり、自分の部屋自体がトイレになっていることに気がついたのです。四方を囲まれた閉鎖空間の壁を拡張するとその空間は全てがトイレになるという大きな発見でした。

トイレの壁について考えてみましょう。
まず男女の分断を生む壁と、個人を分断する壁。トイレはこの二つの壁で囲まれることで成立する場です。もしこの壁がなければ男女の分断、個の分断もない平等な社会が実現する。便器が壁のない公に曝されることで世界はトイレ化して、人間はトイレに生きていることになる。

この発見をもとに私は当時住んでいた金沢の公園や道路の真ん中に洋式便器を置いてみました。「どうだ!世界をトイレにしてやったぜ!これで全ての人間は平等なトイレの住人になったのだ!」

当時の自分はこの行動をすることで自分の発見を正当化し、同時に世間を愚弄して悦に入るという屈折した高校生でした。人から見れば高校生の奇行ですが、これを当時の自分はアートだと思ってやっていなかった様に思います。当時いじめにあっていたことや、家庭の不破や、不条理な愚かな大人達や社会に対す憎悪を表現して、お前らとは違うのだと主張したかったのです。「お前らにはトイレを持ち歩くことも、世界をトイレにしてしまうことすらできないだろう。。」
芸術家は内発的な怒りや憤り、愛や祈りといった初期衝動を自分なり表現で世間に訴えかけることからはじまるのだと思います。

その行動を見た友人が「デュシャンみたいだ」と評価しました。「デュシャンの泉」それは現代アートの象徴でもありますが、当時、デュシャンなど聞いたこともありませんし、作品の背景も意味も異なります。

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世間私の行為をアートだと言いました。そのうち金沢美大でインスタレーションをさせてもう様になりました。そうしてやっと自分がしていることがアート気がつき始めます。

現代アートの作品は意味不明、難解と思われがちです。ペンキをこぼしただけの様な作品や、ひたすらブツブツばかりある作品など、、、でも、そこには生きるための表現があります。伝えたいものがあるのです。

こんな言葉を思い出しました。
「どんな仕事に就いていようと、その人が今日よりも明日、明日よりも明後日と、自分の生命の輝きに一歩でも近づけたならば、虚飾と愚かさに満ちた社会の中であっても、それは人間として生まれたことを示す、一つの立派な足跡となるのではないでしょうか。」(「水玉の履歴書」草間彌生)


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