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【遊びと創造性】

僕らは本当に遊んでいるのだろうか?

先日、小学生と遊んでいるといつもゲームばかりしている彼らが炎天下の公園で「鬼ごっこしよう!」と言い出しました。「鬼ごっこ」はまさに遊びの基本です。
【逃げる>追う>捕まえる】 という単純な目的の為に、クソ暑い中、走り回っているうちに朦朧としながら「遊び」について考えました。

大人の「遊び」の多くが「飲みに行く」「カラオケ」「映画鑑賞」等、消費行動と結びついている様に思います。また、「遊び」は「労働」との対比でとらえられます。大人の遊びは「労働」との対比において消費行動から自分を「充足する」ことを意味していますが、幼児の遊びをみると目的性や生産性がない事に気付きます。つまり、「遊び」自体が目的です。そこに目的や評価や義務や報酬すらありません。

「遊び」を社会的発達の段階でみると
■幼児期
 単純な行動で目的性や成果を伴わない遊び。
■小中学生以降
「遊び」によってルールや集団行動の規範を学ぶようになっていきます。
■大人の遊び
「労働」との対比としての「遊び」になり社会行動で失われた自我の充足になる。

太古の「遊び」は神との対話をする為に心を「空ろ(虚ろ)」にする事だったそうです。そこに神が降りてくる。これが「遊び」の本質の様に思えます。

心を虚ろ=空っぽにする。幼児の遊びは目的性も成果も求められず、ひたすら生産性のない事に没頭する。その時の心は「虚ろ=無心」である。そこから様々なモノを吸収し、同時に創造していきます。

思考に「虚ろ=無心」を持つ事で、そこにアイデアがおりてくるのです。最新の脳科学では左脳=論理、右脳=創造ではなく、デフォルトモードネットワーク=虚ろ、エグゼクティブコントロールネットワーク=制御、そして、双方を仲介するサライアンスネットワークの3つの機能で説明されています。

また、パブロ・ピカソ『子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。』といっています。なぜ芸術家でいられなくなったのか?人は大人になるにつれて目的や評価や義務や報酬に囲まれて生きるようになります。子供が芸術家でいられたのはこれらの制約がない中で自由に物事を感じ表現できていたからだと思うのです。

遊ぶこと自体が目的の創造的活動から大人になるにつれて、遊びすら目的を持つようになってくると、そこに創造性は薄れてきます。そしていつか芸術家でなくなるのです。


創造性はこの「遊び」によって生み出される「虚ろ」から生まれてくるのだと思います。充足を目的にした、消費行動としての「遊び」からではなく、いかに日常に「虚ろ」を作れる「遊び」=クリエイティブをしているかが大切だと思いました。大人の皆さん!遊びましょう!


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