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『ホーランジア』07 ここで生きる覚悟

昇さんについて行くと、荒れた畑の隅に木造のバス停とか無人販売所みたいな小さな上屋があった。そこにもたれかかるようにして軍服の男の人が座っているのが見える。

「あの人! 日本軍の人!?」
「そのようだ」
「寝てる? 具合でも悪い? それとも怪我してる?」
「…………」

何も言わない昇さんの様子が気になったけど、私は味方を見つけた気持ちでテンションが一気に上がった。

「行くな!」

はやる気持ちが抑えられなくて足早になっていた私を昇さんが止めた。そうだった。敵とか味方以前に、この格好のまま他の人に見つかったらマズいんだった。昇さんの後ろに戻り、隠れるようにゆっくりとついてゆく。だけど近づくにつれ、異様な臭いがするのに気がついた。甘くて独特な臭い、私はこれが何の臭いなのかをたぶん知っている。だから悪い予感がしたけど、その時の私はまだ認めたくなかった。そのまま足を止めずに近づいた。

「ひ……っ!」

その人の顔にはおびただしい数の虫が張り付いていて、思わず声が出てしまった。くぼんだ目や、半開きの口の中へも虫が出入りしていた。これは、悪い予感が当たってしまったようだ。死んでいる、そう思ったけど、かすかにお腹が動いた。

「昇さん! 生きてる! この人、生きてるよ! どうしよう、こんなに虫付いちゃって、助けなきゃ!」
「よせ」
「だって」
「もう死んでる」
「嘘! 生きてるよ! 今お腹動いたもん、息、してるんだよ!」
「腐ってガスが溜まっているだけだ。それにもし生きてたところで、薬もない。何もしてやれることなんかないんだ」
「そんな……酷いよ、昇さん」
「……なんとでも言え。お前の時代じゃない」
「あ……」

お前の時代じゃない。それはそうだよ。だけど、気持ちの持って行き場がなくて素直に謝ることができなかった。戦争中なのはわかっているけど、私だって好きでこんなところに来たんじゃない。なんでも揃って医療も充実している時代に生まれたのだって、私が選んで生まれたわけじゃない。恵まれている奴は黙っていろ、みたいなのは、正直、言われたくなかったな。

そんな私をよそに、昇さんは軍人さんに長いこと手を合わせていたけど、それが済んだら軍人さんの靴を脱がし始めた。昇さんが触れたことで、軍人さんの体がかすかに揺れた、その瞬間。

「あっ、嘘……っ」

くぼんだ目から、ドロリと何かがこぼれ落ちた。一緒にくっついてた小さな虫が、地面を逃げていく。あれって……眼球だ………! どうしよう。見ちゃった。すごいもの見ちゃった。この人、本当に死んでしまっているんだ。

吐き気がした。そうしたら、またお腹がぐにょりと動くのが見えて、体の中が腐ってガスが充満しているところを想像してしまって、我慢できず吐いた。

「だから向こうで待っていろと言ったんだ」
「だ、だって、うえぇ……っ」

人が死んでいるところなんて、初めてみたんだよ。お葬式でならあるけど、座ったまま腐っているのなんて、普通は見る機会なんか絶対ない。無理だ。こんなところ、無理。

吐き気は収まったけど、体がぶるぶると震えだして、涙が止まらない。自分の歯がカチカチと鳴る音を聞きながら、骸骨がカタカタと笑うのが頭に浮かんで、また恐ろしくなった。死ぬんだ。人は、死ぬ。ここにいたら私もすぐあんな風に……。そう考えたら、怖くて怖くてしかたがなくなって、その場でへたり込んでしまった。なのに。

「これを履いて」

昇さんが、静かな声でそう言って、軍人さんが履いていた靴を私の顔に近づけた。その冷静さが、ショックで。それ、死んだ、亡くなった人の靴だよね? しかも死体に集った虫もついていたような不潔な靴だよ。洗ったって、そんなの使いたくないよ。

気になり始めている人の側にいるのにお風呂にも入れていなくて、その上こんなの履くとか、もうこれ何の罰ゲーム? 昨日の昇さんだったら、仕方ないな、って抱きしめてくれたんじゃないかとか、私がさっきあんなこと言ったから怒っているんだとか、そんなことを思ったら余計に泣けてきて、自分でもなんで泣いてるのか訳がわからなくなってきた。

「服も拝借する。腐敗が進んでいるから崩れて臭うかもしれん。離れていろよ」

私は、動かなかった。動けなかった。私は令和の人間で、中学生で、受験生で、きっと本当は今頃めんどくさい授業をなんとなく受けて、お昼になったらお母さんの作ったお弁当を食べて、学校が終わったら玲奈とTOBUとかスタバ寄って、帰ったらご飯食べてお風呂入ってさっぱりして、ネットの見放題で映画見て、そんでふわふわのベッドで寝るんだ。

なのになんで私は今、腐った死体を目の前にして、しかもその人の靴を履けなんて言われているの? しかも服まで着ろって。髪だって一生懸命伸ばしていたのに、いびつな坊主にされて。

いきなり過去に飛ばされて、だけどこんなところじゃなかったら、映画に出てくるような本土とかなら、戦時中だってちゃんと女の子でいられて、出会うのは昇さんじゃないかもしれなくても、もっと可愛い私として恋が出来たんじゃないかとか、もう、頭の中は過去と未来が混ざったせいで、現実と想像の区別がなくなったみたいにぐちゃぐちゃで。

「もう………嫌だよ……こんなとこ、いたくない……」

雨が、降りだした。明るい空から降る雨が、軒先から滝のように流れ落ちる。草木を雨が打つ音は、まるで決断を迫るドラムロールみたいに私を包囲する。

「ふ……っ、うわあぁぁああ」

その責めるみたいな雨音に耐え切れなくて、敵に見つからないようになんてことも考えられなくって、子供の頃だってこんなに泣いたことないんじゃないかというくらい、感情のままに泣き叫んだ。そんな私に向かって、なおも冷酷に昇さんが言い放った。

「選べ弥生。ここで弥生として死ぬか、この軍服で生弥として俺と生きるか。ふたつにひとつだ」

答えられるわけ、ない。どっちも無理だよ。死にたくなんかないし、そんなの着たくない。でも。

「ひっく……帰れないくらいなら、もう、死んだって、っく、いいよ……」
「弥生!」
「痛っ」

私は思ってなんかいないけど、でも嘘でもない、半ば投げやりな言葉を呟いた。そうしたら、昇さんが凄い剣幕で私の両肩を強く掴んで揺さぶった。指が食い込むくらいの強さで、掴まれたところが痺れるみたいに痛い。

「ちょっ」
「頼む。どうか辛抱してほしい。お前の住んでいた未来の話を聞けば、今がこの上なく野蛮で下衆な時代なのは承知だ。その上ここは未開の地で、この時代の俺でさえ不潔で非文明的な場所だと感じている。だけど俺はお前をこのまま置いて死なせるわけにはいかないんだ」
「昇、さん」

昇さんが私の座り込んだ高さまで腰を落として、目を見て語りかけてくる。

「髪を切ったときにもうお前が覚悟を決めたと勝手に思っていた。だからこの期に及んで往生際が悪いと少し苛立ってしまった。すまない。俺もこんな仏さんを見て、自覚しているより動揺しているのかもしれない。これから先も道のりは険しく、こんな思いを何度もするだろう。それでも俺と来てほしい。どうか頼む」

真剣なまなざしと言葉が、私の心を射るように、まっすぐ向かってくる。

「お前のことは、必ず俺が守るから。そのためには、なんだってするつもりだ」

そうだ。私、不安だったんだ。浮ついた気持ちで昇さんを意識して、そのドキドキでごまかしてきたけど、私はずっとこの時代のこの場所でアウェイで、頼れる人が昇さんしかいなくて。なのにその昇さんがこんな、亡くなった人の衣服を剥ぎ取って平気な顔をしてるなんて、なんだか知らない人になってしまったみたいで。でもそうじゃなかった。

こんな得体のしれない私の話を信じてくれて、さっきだってこの人にすごく長いこと手を合わせていた。私のために着ているものを取り上げることを、詫びていたのかも。

軍服が道中で調達できると言っていたのは、こういうことだったんだ。森の方で出会わなかったから、危険な湖岸のそばまで来て……全部、私のためだった。今ようやくそのことを理解した。

テントが半分になって窮屈でも、笑って、笑わせてくれた。虫を怖がった私を自分の上に乗せて、寝返りもしないで一晩過ごしてくれた。半分……あれ? そういえば。昇さん、今朝、乾パン食べたっけ? 昨日のお昼だって。それに晩ご飯だってやけに早く食べ終わっていたのは、もしかして私に分けるために自分の分を減らしてるんじゃ……!

そうだよ、次の補給までの10日分って、昇さん1人分の計算で10日なんだよ。私が未来から突然やって来たせいで、半分になっているんだ。ううん、半分どころか! 慣れない時代に来てしまって苦労を知らない私のために、自分の分を減らして多くくれているはず。

私、馬鹿だ。なんで今まで気づかなかったんだろう。足らないとか、こんなんでも充分とか、どんだけ上から目線だったんだろう。不潔だからとか、キモいとか言っていられる場合じゃない。

「昇さん、ごめんなさい。私、今から生弥になるよ。男として生きのびる」

私は昇さんの手にあった靴を両手でしっかりと受け取って、そう誓った。

***

降りしきる雨が腐敗の臭いを軽くしてくれている。軍人さんの服も、軒から落ちる雨で洗うことができた。

「雨でよかったな」
「うん。でもこないだは晴れで良かったって言ってなかった?」
「晴れも雨も善し悪しあるさ。これだけまとまって降っている間は敵も飛んで来ないし、こうして洗濯ができるんだ。今日は雨がいい。お前は運がいいぞ」
「運が良かったらタイムスリップなんかしないよ」
「それもそうだな、ははは」

私がぷうと膨れてみせたら、昇さんも声を出して笑った。昇さんが笑うと、名前の通りおひさまが昇ったみたいに気持ちが晴れになる。こんなところにタイムスリップしたのは運が悪いのかもしれない。だけど、ここじゃなきゃ、昇さんには逢えなかったんだから、私はきっと運がいい。もう、昇さんじゃない人と出会って、なんて思わない。私は、この時代の、この場所で、昇さんと生きる。

「さて、やるか」
「なにを?」
「仏さんを埋めてやらんと」
「あ、私も」

雨の中、私たちは上屋の脇に穴を掘って、私のために裸になったその人をできるだけ丁寧に埋葬した。

「結局、名前はわからないままだね」
「背嚢があれば記名のあるものが他にもありそうなんだが。もう持てなくてどこかに置いてきたか、先にここを通った者が持ち去ったか」
「容赦ないね。私たちが言えた義理じゃないけど」
「皆、生きるのに必死なだけさ。誰も悪くない」
「うん」

軍服の記名は刺繍が擦り切れていて読み取れなかった。だから埋葬したとき彼の名前を呼ぶことができなかった。それでも、心からの哀悼の意と感謝を込めて、手を合わせた。

ハイノウ、は、話の前後からしてたぶんリュックのことだと思う。中に身元の分かるものが入っていれば本土に持ち帰ってやりたかったとか、乾パンでも入っていればよかったのにと言っていたから。私と食糧を分けて何日も過ごしてきたから、やっぱり足らないんだろうな。

それはそうと。人が入るだけの大きさの穴を掘るのは本当に大変で、潮干狩り帰りの私はどうしても思い出してしまった。貝を掘るだけの作業をあんなに大変だと思っていたのは、なんだったんだろうって。潮干狩りもまだ昨日の朝のことなのに、すごく前のことみたいに感じる。私の人生は昨日を境に大きく変わってしまった。

お父さんお母さんに葉月、晶や玲奈、学校のみんなはどうしてるかな。もう、会えないかな。今頃みんな私を探しているかな……。元の時代のことを考えたら、胸が詰まるように苦しくなった。だけど戻りたいと泣いていてもここでは生き延びられない。覚悟を決めたんだ。今は目の前のことだけ考えよう。改めて心の中でそう誓って、顔を上げた。

「きゃ……っ!」
「あ?」
「なんでっ、そんな恰好…っ」
「ああ、すまない。サッパリしたくてな」

びっくりした。昇さんのほうを向いたら、上半身裸になって雨を浴びていた。男子の上半身なんて別に見慣れているけど、いきなりだったから。

「ああ、何日ぶりだろう。やっぱり今日が雨で良かった。お前もどうだ? サッパリするぞ」
「え? 無理!」
「ははは。頭だけでも洗っとけ」
「でも、髪乾かないし」
「坊主頭が何を言っている」
「あ、そうだった」

ぎゅうっと絞ったタンクトップを開いてパンパンと鳴らしながら水を切ると、昇さんはまだ濡れたままのそれを着て、手拭いで頭や顔を拭きながら空を仰いだ。空が、さっきまでよりも一段明るくなっていた。

「そろそろ止むかな」
「止みそうだね」
「雨が上がる前に、また森に潜行するぞ」
「うん」

それを聞いて、まだ濡れたままの靴を履く。大きいから、マリンシューズを履いた上から。少し重たいけど、格段に歩きやすそうだと思った。


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