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『ホーランジア』08 ジャングルの洗礼

それから丸4日かけて、昇さんが言っていた湖の西端、ヤコンデまで辿り着いた。

敵襲に怯え、地図にはないような小さな川、湿った森の中で火がおこせない夜、先を歩いた人の息絶えた姿を嫌というほどに超えて、やっと。

だけど、見回しても人の気配はなくて、誰かが暫く留まっていたらしき跡だけがあった。

「ああ、どうやら先に進んだようだ」
「ごめん、私のせいだよね」
「いや、お前はよく頑張っているよ」

木の枝にメッセージが書かれた紙が刺さっていた。

『山路ゲニム向カウ 至急追及セヨ』

「追及って? ゲニムって?」
「追及は追いつけよってことさ。ゲニムは転進中の部隊が一度そこで集合することになっている。その後、更に西へと進んでサルミというところまで行くのが今回の令だ」
「遠い……?」
「遠いな。サルミまでは300㎞くらいある」
「ええ! そんなに? えっと、うちのあたりから東京までだいたい150㎞だから……軽く往復分!? 徒歩で!?」
「ははは。しかしサルミに行けば武器も食糧も潤沢に備わっているというぞ」
「食……」
「それにゲニムまでなら数十㎞だ。頑張れよ」

もう、あんまり食べるものもないんだよね。私が女だってバレないかが心配だけど、早く軍の人たちと合流して補給したい。

「明日の早朝、湖岸で食べられそうなものを探してから出発しよう」
「うん」
「銃でもあればあの鳥を落とせるかもしれんのにな」
「え、殺しちゃうの? 可哀そうだよ」
「ハンバーグも牛を殺して食うだろ」
「そう、だけど自分では殺さないから」
「お前の腹に入る生き物は誰かが代わりに殺しているということさ。ここじゃ自分でやるしかない」

冗談交じりに、昇さんが言った。私はまだ、自分が暮らしていた時代の生活を基準に考えているんだなって、こういうとき思う。昇さんは、昭和19年だからそうなのか、軍人さんだからなのか、それともこの状況だからなのか、いろんなことにすごくシビアで。それが生きるためなのは頭では理解してるつもりだけど、どうしても気持ちがついてこない。

夕日が沈んで少しずつ暗くなり始めたジャングルに天幕を張るのは、いまは私の仕事だ。人間、やればできるもんだな、と思う。テントなんて張ったことなかったけど、3日でだいぶ手際も良くなってきた。その間に昇さんが火をおこす。だけど今日もスコールのせいでジメジメしていて、上手くいかないみたい。昨日もダメだった。雨が降れば汗は流せるし喉を潤すこともできる。とはいっても服が乾かないと夜は凄く寒くて体が冷えて眠れないし、今みたいに火がつかなくてご飯が炊けない。やっぱり雨は困りものだよ。

乾パンは昨日までで終わってしまった。缶詰もない。つまり、今日はご飯を炊けなければ食事抜きってことだ。今までなら、一晩くらい夕食抜きでも別に構わないとか言っていたと思う。でも、毎食が乾パン3個とか、そんな極端なダイエットみたいな状態。木の根っこ近くに生えてるキノコが美味しそうにみえるくらい、ずっとお腹が空いている。だから食事抜きなんて、ちょっと考えたくない事態。昇さん、頑張って!

「くそっ、今日もダメか」

昇さんが、がっくりと肩を落とす。はぁ、ご飯抜きだ……。

「食うか?」
「え? あるの? 食べ物!」
「いや、あまり勧められたもんじゃないが、食おうと思えば生でも食えるから」

そう言って昇さんがポリポリとお米を生で食べ始めた。お米、生で食べたらお腹壊すって言われたことあるけど……。昇さんが食べるのを見ていたら、お腹がきゅーきゅーと鳴りだした。

「ちょっとだけ、食べてみる」
「おう。無理すんなよ」

手のひらに、小さな米粒。口に入れて奥歯で噛んでみる。固っ……! だけど、ここは世界一堅い煎餅だと思って、必死に噛み砕く。口の中、わずかだけど甘みを感じる。乾パンもそうだけど、よく噛めばこうして甘みが出てくる。いままで小麦とかお米の甘みなんて、気にしたこともなかった。おかずがある前提で、ご飯は味がないもの、みたいな。

それに、お米は炊けて出来上がっているのが当たり前で、家では全部お母さんがしてるし、炊飯器のスイッチ押せば食べられるものだと思っていた。だけどここでは違う。火が点かなきゃ炊けないとか、お米を洗う水もないとか、そんなところからもう違う。当たり前だと思っていたものが、ぜんぜん当たり前じゃなかった。

生き物を殺さなきゃお肉は食べられないとか、煮沸したりしなきゃお水も飲めないとか、そんな当たり前のことも気にしないで、自分がそれをしないで生きてこられたのは、昇さんの言う通り誰かがそれを代わりにしてくれていたからなんだ。ネットがあれば何でも買えるとか、そんなふうに何不自由なく暮らしていられたことのありがたみが、今ならわかる。ようやくテント張りくらいは出来るようになったけど、便利な生活から放り出された私はあまりにも無知で、無力で、昇さんがいなかったらもうとっくに死んでいたと思う。

「明日は晴れるといいね」
「そうだな」

ポリポリとお米を噛む音と、虫の声が、小さく響く夜。見上げたら、生い茂る大きな樹々のすきまから瞬く星が見えた。

***

食べるものがなくて早々に眠ったせいか、それとも空腹のせいか、その両方かもしれない。まだ夜が明ける前に目を覚ましてしまった。辺りは真っ暗で、だけど星明りがほんのり空から照らしていて、次第に目も利くようになってくる。テントを出て少しだけ歩いてみた。カエルの合唱と虫の声が響いていて、歩くと急にそこだけ静かになる。虫やカエルは、私がいた時代と同じだ。日本を遠く離れた場所でも、過去でも。なのに、私だけが切り離された。

「っ……っく……」

軍服の件以来、もう昇さんの前で泣くのはよそうって、気を張っていたけど。独りになった途端、生弥から弥生に戻ってしまった。もうどうしようもなく、感情がこみ上げてしゃがみこむ。

「ふう……っく、っく……」

帰りたい。戦争のない時代に。なんでもあるのが当たり前の時代に。みんなに、会いたい。昇さん、ごめんね。やっぱりここは辛いよ。映画や小説の主人公みたいに、昇さんを好きって気持ちがあれば何でも乗り越えられるって思っていたけど、私には無理かも。頑張れる、やっぱりダメ、でも頑張る、だけど辛い。その繰り返しで気持ちが揺れまくる。もっと強くなりたいのに。

「こんなところにいたのか」
「昇さん」

後ろから声を掛けられて、急いで涙を拭う。暗いから、きっとバレないよね。しゃくりあげる呼吸を、必死になだめる。

「……泣いていたのか」
「泣いてなんっ、か」
「ほら、やっぱり泣いてたんだろう。無理をさせているな、すまん」

昇さんが隣に座った。私は強がりを言ったけど、思いっきりしゃくりあげてしまった。そうしたらポンポンと昇さんの手が私の頭を優しく包んだ。大きな手。その手のぬくもりに、また涙が溢れだす。

ふいに、昇さんが頭に乗せた手をぐっと自分の方に引き寄せた。これって今、昇さんの肩にもたれかかっている状態じゃ……。揺れ揺れの感情がまとまらないまま恋人にするみたいなことをされて、固まる私に昇さんが呟くように言った。

「辛いよな、こんな生活」
「……」
「戻りたいよな、元の時代」
「……」
「大事なやつがいるんだよな……」

えっと、大事なやつ、って好きな人がいるってこと? 私に? いないよ! じゃない。いるけど、それは昇さんで! こんな恋人みたいな状況のせいで、テンパって喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

ちょっと待って。落ち着こう私。もしそこを昇さんが気にしているとしたら、それはヤキモチみたいな感じで、つまりは昇さんも私を好きってことで。それはない! 力強く否定できるのが悲しいけど、絶対ない。断言できるよ。だって私、足手まといもいいとこだもん。

見た目だって女の子らしいメイクとかできないし、それどころか坊主だし、何日もお風呂に入れていないし、好きになってもらえる要素ゼロ。だからきっと昇さんの言う「大事なやつ」は、たぶん家族とか友達の事だ。

私の感覚だと「やつ=男」って感じだけど、言葉遣いも物の名前も少し違う昭和19年の感覚では、きっともっと広い範囲を指しているんだと思う。きっとそう。

この、肩に頭を寄せているのだって、きっと照子さんとか、そういう妹分みたいな感覚に違いない。だからここは素直にこの優しさに甘えよう。そう思ってコクリと頷いた。

朝になり、私たちは敵の目を警戒しながら湖岸を目指した。開けた道は歩くのが楽だけど、いつ敵が襲ってきてもおかしくない。人が生活している集落らしき建物も見える。だけど昇さん曰く、原住民は敵側についていることも少なくないから、迂闊に近寄ってはダメらしい。

会話もしないで、息を殺すようにして歩く。食糧調達がこんなに命がけだなんて、元の時代じゃ考えられない。だけど、魚じゃなくてもいい、とにかく何か水産物を獲らなくちゃ。毎日朝から日が暮れるまで、沼地や山道をへとへとになりながら歩いてるのに、普段だらだら暮らしてた時の1食分にもなっていない。

特にたんぱく質が圧倒的に不足している。ダイエットもバランスが大事、特にたんぱく質は抜いちゃダメっていろんな雑誌やネットで読んだ。湖って、貝、いるかな。ここへ来る直前に持っていたはずの草とり鎌を思い出して、あれがあったらなとため息をつく。

「ぬかるんで沈んだり急に深くなったりするから陸の近くだけにするんだぞ」
「うん」

靴や服が泥だらけになるのも構わずに、湖の中に足をすすめる。もともとこのままの恰好で河にも入ったし、泥だらけだから気にしない。道具もないので昇さんから借りた飯盒の蓋で水底をさらう。貝! 出てこい、貝!

さらっては湖岸に泥を捨て、手の平で広げて何かないか探るけど、1時間くらいかけて獲れたのは、カニとエビだかザリガニだかよくわからない小さな生き物が合わせて9匹。貝なんていなかったし、とてもふたりでお腹いっぱいって量じゃない。

むしろ、腰を曲げて泥さらいをしたぶんの消費カロリーのほうが深刻だと思う。こういうの徒労っていうんだろうな。

「よくやったな! 量はともかく、良いダシになるぞ」
「昇さん、ありがとう」
「なに、礼をいうのはこっちだ。レイワ育ちもなかなかのもんだ」

昇さんは褒め上手だ。私がいなかったら、もうとっくに他のみんなと合流してもっと先に進んでいるはずなのに、文句も言わない。もたもた歩く私を気遣ってたくさん休憩をしてくれたり、早めに1日を終わりにしてくれる。それで休憩のときやテントを張るときには必ず決まってこう言うの。

『お疲れさん、よく頑張ってるな』って。頭をポンポンしながら。そのたびに申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、よし、また頑張るぞ、って思える。食糧探しがこんなにショボい結果に終わっても、こうやってねぎらってくれる。優しくて強いんだなって思う。

湖岸で服や靴についた泥を濯いでいたら、鳥たちがけたたましい鳴き声と羽音を立てて一斉に飛び立った。何? と思って見上げたら、太陽を何かが遮るみたいに大きな影が通りすぎた。

「まずい!」
「あっ」

敵機だ。私たちは降ろしていた荷を急いで両手に持って、樹の方へと駆け込んだ。心臓がバクバクいっている。こんなに近くを敵機が通ったのは、昇さんと会ったとき以来だった。やっぱり見通しの良い場所は危険なんだ。何機もの戦闘機が私たちの逃げ込んだジャングルに銃を向けて乱射してくる。嵐のような銃撃のすぐ側を、地を這うように逃げ惑うしかなかった。ラッキーなことに、ガジュマルの根っこの下が大きく空いているのを見つけて、私たちはそこに逃げ込んだ。

「はぁ、はぁ」
「あ! カニ! 飯盒の蓋!」
「命があればそれでいい。気にするな」
「……ごめんなさい」

慌てて逃げたせいで、せっかくの獲物を入れた布袋を大切な飯盒の蓋ごと置いてきてしまったのだ。気にするな、って言われたって、気にするよ。しばらくして、銃声は止んだように思えた。と、そのすぐ後でまた数機が飛んでくる音がして、私たちは小さく丸まって身構えた。だけど銃声はなく、かわりにドボーン!!という大きな水音が重たく響いた。

「爆弾!?」
「そのようだ。ひとつは湖に落ちたな」
「まだくる?」
「さあな。だけど様子をみて湖に戻ろう」
「え? いくら蓋取りにいくにしても危ないよ」
「このままじゃ撃たれて死ぬ前に飢えて死ぬ。沼や湖に爆弾が落ちると魚がたくさん浮かんでくるんだ」

言っていることは正しいのかもしれないけど、そんなの本当に本当の命がけだよ? そうまでして食糧を確保しなきゃ生きていけないの? 今までだって命がけ、は何度もあった。だけど実際に見つかってターゲットにされたのは、たぶん2度目で。1度目は昇さんと会ったあのときで、まだ状況が把握できていなくてどこか現実感なかったんだなと思う。だから実はさっきまでは、こんな状況でもまだ気持ちに余裕があったんだ。

覚悟を決めたなんていっても心のどこかで大丈夫って根拠もなくタカを括っていたというか。だけど実際に攻撃されてみてわかった。これが、紛れもなく戦争だってこと。そして、逃れようのない現実だってこと。ヤコンデにつけば補給もできて一安心と考えていた昨日までと、それが断たれた今日では、状況や認識が変わってしまったということも実感した。

最初から元いた時代とは比べ物にならない原始時代みたいな生活だったけど、数日を乗り切れば軍に頼れるからなんとかなる、なんて甘い考えがどこかにあったんだ。次の合流地点ゲニムにだって、間に合うかわからない。だから、すべてを自分たちでなんとかするしかないということなんだ。

昔、テレビで見た野生動物の特集を急に思い出した。野生動物は、次の瞬間に食われるとしても餌を探すことを止めない、って。同じだ。今の私たちはそれと同じ。次の瞬間に撃たれて死ぬとしても、食べるものがなかったらそれも死。だから食べ物を探すことを止められない。

「ここで待っているか」
「ううん。また襲撃とかあってはぐれでもしたら、それこそ生きていけないから」
「よし、それでこそ生弥だ」
「うん」

荷を整え終わった昇さんに続いて、根をくぐった。空は、怖いくらいに静かだった。その晩、私たちは数日ぶりの白いご飯と、食べきれないほどの焼魚を頬張った。昇さんが残り少ない塩をふって焼いてくれた魚は、少しお母さんの味がした。家じゃ、夕飯が焼魚の日は葉月と文句を言いながら嫌々食べていたのを思い出す。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。湖の魚は少し泥臭かったけど、それでも本当に今まで食べたどんな魚よりも美味しく感じた。昇さんとふたり、その日は満腹でぐっすり…………のはずだった。

「っく……」
「大丈夫か? 俺もおかしいんだ」
「行って、きます、絶対こっちこないでね!」

眠りについて少ししたあたりで、お腹がきゅるきゅると痛み出した。深夜になってその数倍の痛みに耐えきれず、テントからできるだけ離れたところで用を足そうと、体をくの字にしながらなんとか歩いてきた。新鮮なのに焼いて食べてもお腹を壊すの? なんで? 頭の中はハテナでいっぱいだった。だけど考えてもわかるわけもなく、ただひたすら治まるまで耐えるのみだ。そうしているうちに空が白くなってきて、ようやくお腹が落ち着いてテントに戻った。

「おかえり。治まったか?」
「うん、なんとか。昇さんは?」
「俺はそう酷くなかったから、しばらくして治まったよ。久々にたらふく食ったせいか湖の水か」
「あ、飲んだつもりなくてもあるんだ……恥ずかしいから言わなかったけど、河を渡ったあとも少しなったんだ」
「そうか。獲っている時に少し口に入ったかもな。なんにしても大事なさそうで良かった」

こんな話を好きな人とするなんて、もう絶対に昇さんとは恋人にはなれないな。そもそも生弥だし、もうどっちかっていうと戦友だよね。『同期の櫻』って感じ?

落ち着いて少し和んだところで茂みからガサガサと物音がして、後ろから急に人が現れた。体調に気を取られていて、こんな時間だということもあって敵襲を全く警戒していなかった。昇さんは瞬時に刀を抜いて、同時に私をかばうようにしながら振り向いた。すると。

「おおお、やっぱ松田だべ!」
「阿久津か! おお! 山根も、そっちは向井か! 無事だったんだな」
「おおよ! 向井がな、夜中に焼魚の匂いがするって言っでよ、腹が減りすぎておがしくなったんだろってこづいてもきかねぇもんだから夜明けで言う通りの方向に歩ってみたんだけんども。やー、兵長殿だったとはなぁ」
「兵長はよせと何度も言っているだろう」

どうやらお仲間みたい。野太い声が夜明けの冷えた空気を一気に熱くする。

「ところで松田。その後ろの若っけえのは?」
「ああ」

どうしよう。心の準備が出来ていないのに。自己紹介、えっと、軍の自己紹介って、どんなだっけ……。

「こいつは古賀だ。古賀生弥。行き倒れていたんだが頭でも打ったのか、名前しか憶えていないらしい」
「生弥、このむさくるしいやつらは阿久津に山根、向井だ」
「よ、よろしく頼むでありますっ!」
「ははは、なるほどサマになっでねえや! 憶えちゃねえのは気の毒だが生きててなんぼだ、よろしぐな」

私は精一杯の低い声で軍人らしく挨拶したつもりだったんだけどな。そのあと阿久津さんたちは昇さんが止めるのも聞かずに、残っていた魚を食べ尽くして、案の定、歩き出してから三人全員が不調を訴えて、その日は殆ど距離を稼げなかった。つまりは、湖の水じゃなかったということみたい。熱に強いばい菌がいたか、生焼けか、もしくは飢えで弱った胃腸にがっつり魚は重かった、そんなところだという話で落ち着いた。補給のない生活は、こんなふうに始まった。


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