『ホーランジア』14 140度の彼方
非常用持ち出しリュックに限界まで食べ物や飲み物を詰めて、私はチャリで駅まで飛ばした。ここからはタクシーだ。
「ゼロポイントまで! 急いでください!」
汚れた軍服に身を包んだ私を、運転手さんが嫌そうな目でチラ見したのがわかった。乗車拒否されなかっただけマシだ。
「サバゲー、ってやつですか?」
「ああ、まあ」
「本物の軍人みたいですね」
「あは、は」
本物の軍人じゃないけど、本物の軍服ですよ。弾まない会話が止み、景色は徐々に山道になっていく。戻らなきゃ。戻ったからって、どうなるものじゃないかもしれないけれど。また過去に戻れるなんて確信してるわけじゃないし、行けるとしたってあの時代に行けるとも限らない。経線上の、どこに飛ぶかだって定かじゃない。飛んだら全然違う場所の違う時代で、もっと最悪な事態に巻き込まれて、昇さんに会えなくて、この時代にも帰ってこられないかもしれない。
それでも、戻れる可能性がゼロじゃないなら、昇さんに会えるなら、助けられるかもしれない。違う! 絶対に助けなきゃ! それに、私まだ伝えてない。あなたが好きですって、言ってない。言って振られちゃうかもしれないけれど、それならそれでいい。令和の日本を見たいって言っていた昇さんと、どんな関係でもいいから一緒に生きたい。だってあと1年ちょっとで戦争は終わるんだから。
そこまでなんとか生き延びれば、あとは戦後のどさくさに紛れて私もあの時代の人間になって、東京オリンピック見て、一緒に歳をとるんだ。絶対にあの時代に戻って、昇さんと生きたい。
「雨、降ってきましたねぇ。今日は雷雨らしいですよ」
運転手さんがまた声を掛けてきたけど、それに返事をする余裕はなくて。徐々に波打ちだす窓ガラスを見つめて、早く、早くと心の中で車を急かしていた。
***
到着したゼロポイントは想像していたより地味だった。ちょっと犬の散歩でもしようかくらいの緑地。雨のせいもあって人の気配もなく、閑散としている。道路の脇にのぼり旗があってこの近くだということは分かったものの、ここから先がわからなくて仕方なく行く先のないまま足を進める。芝生に一筋、草の生えていない線があるのを見つけた。森の中にもあった、人が歩いたあとだ。雨の中、湿った土の上を歩くと、あの森の感覚が蘇る。このまま歩いて行けば辿り着けるんじゃないかと思うほどに。木立を抜けると白い柱状の標識を見つけた。あれだ。
標識が見えたすぐ側に誰かが立っているのも見えた。観光かな、仕方ないけどなんとなく嫌だな、と思いながら近づいたら晶だった。私がタイムスリップする条件に気づいていたのだろう。先回りしたのか鬼みたいな顔をして立っている。ごめん晶。昇さんの生まれ変わりなんていわれても、ピンとこないよ。私が今、大好きで大好きで助けたくてしかたないのは、昭和19年にいる昇さんなんだよ。
「行くな!」
「邪魔しないで!」
叫ぶみたいな晶の声に気持ちが揺らいだ。
『町田、やよが意識戻るまでの間ね、ずっと言ってたんだよ。こいつがこんな目に遭ってるのは俺のせいなんだ、って』
玲奈が言っていたあれは、もっと早く生まれ変わりを言い出していればってことだと思う。潮干狩りで遠くに行くなって言ったのも、あそこでタイムスリップすることがわかっていたから。
「弥生!」
晶の表情が渡河に失敗したときの昇さんみたいに見えて、一瞬だけ晶と昇さんが重なって見えた。もうこっちには戻らないって決めたのに、そんな顔されたら。本当はどうなるかわからなくて怖がっている弱虫な私が晶の手を取ってしまいそうになるのをグッと堪える。
「俺、さっき言いそびれたこと言いに来た!」
「え?」
「だから行くな!」
言いそびれたこと?
「約束したろ! 今度は俺が――」
その瞬間、物凄い閃光と、まるで爆弾が落ちたみたいな音と地響きがして、すぐ側の標識に落雷した。激しい雨の中で、標識が燃え上がる。雨の飛沫と、炎と煙が私と晶を隔てて見えなくなった。バチバチと焼ける音で、声も聞こえない。蒸し暑い。煙を吸い込んでしまって、意識が遠のくのを感じた。ああ。火事は煙を吸って倒れるのが一番の死因だってテレビでやっていたような。だけどこれでもしかしたらまたタイムスリップできる、そんな気がした。お願い! もう一度、もう一回だけでいいから。昇さんのところへ! 遠のく意識の中、私はただ、それだけを強く願った。
***
辺りは酷く焦げ臭くて、蒸れていた。そうだ。落雷で……。私、生きているの? 横たわった体や手のひらに、不快な泥の感触。頬にはり付いた枯れ葉を肩で拭って、顔を上げる。ここはゼロポイント? 違う、この臭いは、爆撃の……間違いない。戦場の臭いだ。来られた、来られたんだ! ぬかるんだ指の上を、ブローチみたいなメタリックの昆虫がのそのそと通り過ぎた。昔、晶が言っていた「食べられる昆虫」だ。すごい、本当にいたんだ……。
見上げれば、空に向かって高くそびえる樹々。鬱蒼と葉が茂って、あちこちにツタが絡んだ深い森。遠くで、笛みたいに透き通った涼しげな鳥の声がする。南の島ならどこも同じかもしれないけど、信じよう。信じるしかない、奇跡を。立ち上がり、軍服の脚についた泥を払って、私は3度目の大地を踏みしめた。
***
飛んできた地点が140度ちょうど。地図で確かめたサルミまでの距離は真横に直線で30~40㎞くらいのところだった。目標のサルミはゲニムから北西のほうにあるから、その方角を目指す。磁石が合っていれば、この方向でいいはず。問題は……昇さんが元気なら、もうかなり先まで歩いて行ってしまっていそうだということと、サルミまでは惨劇のトル川以外にもその手前に少なくとも4本、大きめの河があるということ。渡り切るまでに6、70メートルあると書いてあるのも見た。そろそろ雨季が終わる時期みたいだけど、この湿りようをみるとまだまだ油断できない。ひとりで渡河、できるかな。今までの渡河は深さもせいぜい腰上までの小さい川だった。浮き輪も持って来るべきだったな。玲奈と去年の夏、インスタ映えとか言って色違いで買ったドーナツ柄の浮き輪が頭に浮かんだ。映えもクソもない濁流の中で、坊主頭の私が可愛いドーナツに掴まってプカプカ浮かぶのを想像してしまった。インスタ、やっていないけど。今はそんなのより船についてるみたいな、岩に当たっても破けない実用的な浮き輪が欲しい。そんなこと考えたってしかたない。あるもので行くしかない。持ってきた地図と磁石がある。とはいえ現在位置の目印になるものがない。だから奇跡を信じて進むしかない。どうか昇さんに、会わせて。
***
私が飛んだ地点は今さっきまで空襲に遭っていたようだった。あちこちから空に煙が昇っているのが見える。少し歩くごとに東から何日もかけて歩いてきたであろう人たちが斃れていた。空も陸も地獄だ。考えたくなかったけど、昇さんじゃないことを確かめるためにひとりひとり、顔を見て回った。調べて、どんなところかわかっていたはずなのに、実際に目にした光景は言葉なんかで言い尽くせるようなものじゃなかった。最悪すぎて、気が遠くなりそう。爆撃以前に果てたような人も少なくなくて、ウジの巣になってる人、雨水に打たれた頭頂や肩先が白骨化している人もいた。まだ、息がある人もいるけれど、目を合わすのもままならないほど衰弱して、かろうじて呼吸だけしている、そんな人たち。うわごとのようにお経を呟いている人や、私を見てサルミまで連れて行ってくれと縋ってくる人もいた。だけどみんなもう大した腕力はなくて、私が軽く振り払うだけで折れ曲がるように崩れ落ちていった。
「ごめんなさい!」
死んでしまった人より、生きている人の方がものすごい異臭を放っている。優しくしてあげたかったけど、何日も洗っていない体臭と排泄物の臭いが混ざって、強烈すぎて無理だった。ゲニムの前に逝ったみんなはこんなじゃなかったから、もしかしたらまだ幸せだったのかもしれないとさえ思った。私は昇さんに生きていて欲しいと思いながら、嫌なことも考えてしまっていた。もし生きていても、さっきみたいな異臭がするような状態だったら? 寒気がした。昇さんにじゃない。無理かもしれない、なんて考えが頭をよぎった自分にだ。
鼻から、嫌な臭いが消えない。
頭から、嫌な考えが消えない。
べっとりと、湿った枯れ葉みたいにまとわりついて消えない。
ここまで来て、なに考えているんだろう。気分を替えようとリュックをおろし、中からとっておきの一品を取り出した。
「冷たい」
移動時間的にまだいくらも経っていないから、炭酸が喉ではじける。この時代もラムネならあるよね? いかにも昭和っぽいし。冷蔵庫に2本あったから、ガラスが割れたら困るなと思いつつ持ってきた。昇さんに飲ませてあげたい。未来のお菓子もたくさん持ってきた。ラムネが冷えてるうちに、昇さんに会いたい。
***
文字通り、いくつもの屍を超えて歩き続けた。途中、銃弾を受けて軍服の背中が黒い血で染まっている人がいた。まだ撃たれてから日が経っていないような。近くに銃を持った敵が潜んでいるかもしれないと思うと、すごく怖くなる。それでも進むんだ。明るいうちに、出来るだけ前へ行かなきゃ。赤くなる空にタイムリミットを感じて、ふと思ってしまった。足が止まる。
昇さんの命日、つまり死んでしまった日は明日。でもそれって、明日の何時? 誰かと一緒にいて死んだの? それとも死んでしまってから、誰かが見つけた? だとしたら、もう死んでしまっている可能性だってある。
ぶんぶんと首を振る。嫌だよ! そんなの嫌だ! ここまできたのに。振り払っても振り払っても、ネガティブな思考が頭から離れてくれない。ニューギニアのことなんか調べなきゃよかった。知らなければよかった。追い打ちをかけるように、絶望的な言葉ばかりが並ぶ画面を思い出してしまう。
ここへ来てから、死体と死にそうな人にしか会ってない。生きている人はきっと、もうとっくに河を越えてどんどん先に進んでいるんだ。戦死報告書の日付が明日なら、昇さんが生きていたってさっきの人たちみたいに異臭を放って行き倒れている頃だ。奇跡なんか信じてバカみたい。何しに来たんだろう。そもそも、なんで会えるなんて思っていたんだろう。こんなに広くて、ただ歩くだけでも迷子になりそうなジャングルの中で人探しなんて、最初っから無理だったんだ。
涙が、あとからあとから湧いてくる。瞬きをするたびにぽろぽろと地面にこぼれ落ちていく。なんの涙? 後悔? 淋しさ? 違う。違わないけど、情けなさかも。それから会うのが怖い。さっき一瞬思ってしまった自分の考えが、本音なんじゃないかって。昇さんを見つけられない不甲斐なさ、情けなさ、それに、もし死を前にして垂れ流す昇さんを見たら、それまでの気持ちが嘘みたいに消えてしまうんじゃないかって。だって私はあの人たちを見て気持ち悪いって思ってしまった。まだ会えてもいない昇さんに対して、会ったらこんなふうに思ってしまうんじゃないかなんて考えてる自分が情けなくて、そんな理由で探すのを躊躇っている自分が恥ずかしい。こんな気持ちじゃ、会えるとしたって会えないよ。
***
結局、自分の気持ちのせいで目的を見失った私は、どこへ行くでもなくただ彷徨い歩き、暗くなっても歩けるように灯りも持ってきたのに、それも使わず、食事もとらずに、日没とほぼ同時に寝袋を広げて眠りについた。悪いことばかりが頭に浮かんでなかなか寝付けなかったけど、いつの間にか朝になっていた。
私、いつから眠ってたんだろう。起きても、特にすることはない。だけどなぜか歩いていた。たった2週間足らずの生活だったけど、ここで私は毎日、日の出とともに活動を始めて歩き続けた。間をあけた今でも体が習慣を覚えているみたい。
昇さんは今日、死ぬ。ううん、きっともう。よそう。とにかく私はもう、また何かの偶然で戻れることがない限り、ここで死ぬんだし。昇さんと同じ土の上で死ねるなら、それでいいじゃない。そんなことをぼーっと考えながら歩いていた。昨日と違って行き倒れている人の確認をしていないから、どんどん進む。進んだって意味はないけど。進む理由がなくても、生きる意味がなくても、お腹は減る。太陽が真上にきて、私はリュックからチョコクッキーを取り出し、噛り付いた。昇さんと食べようと思って持ってきたけど、ちまちま食べる理由もない。そう思って、サクサクとやけ食いみたいに何枚も食べた。
「弥生?」
聞き覚えのある声。この時代で私をこの名前で呼ぶ人は、ひとりしかいない。私が思うよりも先に、涙腺がその人が誰なのかを理解した。瞬きもできずに見開いた目から、涙があふれ、頬を伝っていく。涙を拭くのも忘れて、その声を反芻する。
弥生、弥生、弥生……緊張で体がうまく動かなくて、私はスローモーションみたいにゆっくりと、少しずつ振り向いた。視界の端に、軍服姿の男の人。真っ直ぐに、立っている。血を流してもいなくて、汚れてるけど、少なくともここまでは臭ってこない。髪と髭が少し伸びているけど、この彫りの深い顔立ち――
「昇さん!」
「お前、戻ったんじゃなかったのか? 何しに、うわっ!」
生きてた!生きてた生きてた生きてた!!
私は嬉しさのあまり犬みたいに飛び掛かって、昇さんを倒してしまった。再会した昇さんは痩せていたけど元気そうで、とても明日死んでしまうなんて思えないくらい。私のみっともない心はこの際横に置いておいて、なんとしても昇さんに生き延びてもらおう、そう思った。
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