見出し画像

『ホーランジア』06 ふたりきりの夜

日が暮れて、足元はもうほとんど見えない。昼間はあんなに暑かったのに、だんだんと冷え込んできた。鳥も敵機も飛ばない静かな空のかわりに、今度は地面が騒がしくなっている。たぶん鈴虫みたいな虫とかカエル。鳴き声に涼しさを感じて、地元と似ているなと元いた時代のことを思い浮かべる。

夏になると「熱帯夜、熱帯夜」と繰り返すテレビに違和感しかなかった。テレビ局がある東京は、夜も暑いらしい。だけどうちのあたりは、夜になれば寒いくらいの日だってある。真夏に毛布を被って寝ることがあるのを、東京から来た先生が寒くて驚いたと言っていたのを思い出した。ここは、その感じと似ている。

「なんだかんだで暗くなるまでよく歩いたな」
「あ、うん、でももう無理……寒いし」
「本当は岩場のほうがいいんだがな、この辺りにはなさそうだ。仕方ない、今夜はここで休もう」
「うん」

昇さんが荷を解いて地面に固い布を敷いた。

「天幕を張るから、少し手伝ってくれるか」
「うん……?」

返事はしたものの、テンマクが何のことかわからなかった。だけど手慣れた様子で杭を打っていく昇さんを見て、テントのことだとわかった。なるほど、漢字で書いたら天幕かな。いまさっき敷いた布がそれだ。

布は半分に折ってあり、その上側だけを持ち上げて屋根にした。細長くてトンネルみたいだ。人が中に入ったら、ケバブみたいになりそうな感じ。天幕をピンと張ると、何もなかった空間が一気に人間らしい居場所になった。

「これでよし、と」

そのあとは毛布を敷いてくれて、座るよう促された。そこで昇さんが食事の用意をするのを見ているだけという、なんとも情けない女子力の低さ。こういう場所だと、料理も女子力というより人間力かな。可愛らしいお弁当を作ってアピるようなチャンスは、まずやってはこなそうだ。

「今日は天気が良かったから助かった」
「でも倒れそうなくらい暑かったよ?」
「雨だと、火が付かないだろう? 飯だけじゃなく明日の飲み水も作れないんだぞ」
「あ、そっか」
「未来は、暮らしやすそうだな」
「ん? まあそうだけどなんで?」
「お前みたいなのが暮らせるんだもんな」
「う」
「冗談だよ。面白い顔すんだなぁ」

昇さんが私をからかいながら、集めた枯れ枝の上に飯盒を掛けた。手際よく火をおこすとあっという間に火が大きくなる。炎に照らされた昇さんの顔が、柔らかく微笑んでいた。

「じきに食えるからな」
「うん」

虫たちの声と、炎がパチパチと枝を焼く音が耳に心地いい。昇さんと一緒なら、こんな野宿だってとても楽しい。ご飯の炊ける匂いが、今日の疲れを吹き飛ばしてくれる感じがした。みそ煮缶と一緒に炊いているから、甘い味噌の香りが鼻をくすぐる。

「もういい頃だな。蒸気が熱いから顔をひっこめろよ」
「あ、うんっ」

匂いにつられてテントから出たまでは良かったとして、少し火の側に近寄りすぎていたみたい。意地汚いと思われたかな。恥ずかしい……。

「わあ……」
「上出来だ」

蓋をあけたら、魚と味噌で炊けたご飯のいい匂いが一気に立ちのぼった。お昼が乾パンちょこっとだけだったから、たったこれだけでもすごいご馳走に感じる。昇さんが蓋によそってくれた。

「ありがとう! いただきます」
「まだ蓋も熱いから気を付けろよ」
「ほんとだ、でも持てるから大丈夫」
「汁も漬物もなくて悪いな」
「未来の若者は汁とか漬物あんまり食べないから問題ナシ!」
「そうなのか? じゃあどんなものを食っているんだ」

不思議そうに訊いてくる昇さんは、やっぱり昔の人で。普通の満足な食事といったら、旅館の朝ごはんみたいな『味噌汁、漬物、焼魚、卵、海苔、ご飯』って感じかな。私といえば朝はバナナだし、卵かけご飯だけとか、トーストだけ、みたいなのも慣れているから、この食事でも普通に満足だ。

「こういうのも普通に食べるよ。あっためてもいないサバ缶をご飯にかけるだけとか、あるある。うーん、未来っぽいのでいったら、ハンバーグとかコロッケ、カレーライスとか」
「それなら別に未来ぽくもないな。家では食べたことがないが洋食屋でならある」
「あそっか、洋食屋かぁ。じゃあ意外とそんなに変わらないかも」
「まあそれでも、それを家で食うのが普通だというのは驚くぞ」
「そうかも。あ、レトルトとかコンビニ、マックとかスタバなら絶対に未来っぽいよ」
「なんだそれは?」

昇さん、空になった飯盒に昼間汲んでいた水を入れて沸かしている。手際が良いし、男の人は食べるの早いんだな。あれが、明日飲めるお水。ここの水は沸かさないと病気になって、最悪は死んでしまうらしい。

「レトルトはね、袋入りで何年も保存できるハンバーグとかカレーがあるんだよ」
「へえ、缶じゃないのか。そいつはすごいな。しかしお前が話すとつくづく英米人みたいだ」
「え? なんで?」
「そんなに敵性語がポンポン出てくるんじゃあ、もしここじゃなくて本土に飛んでいたとしたら、着ている物と併せて非国民まっしぐらだったぞ」
「敵せい……、あ、カタカナ語のことか!」

お腹が膨れて気分がいいのか、さっきまでよりも更に機嫌よさげに昇さんが笑う。私は昼間に言われて謎だった敵セイ語がなんのことかわかって、すごくスッキリした。そういえば映画でもたまに外来語規制してるのをみたことがある。

「でもさ、昇さんは普通に乾パンとか言うよね」
「敵性語と言ったってもう浸透しているからなぁ。軍じゃいちいち日本語に直されちゃ仕事にならんよ」
「そっかぁ。あ、カメラもだね」
「ああ、あれは形見なんだよ」
「え」

カメラをカバンから取り出した昇さんは、思い出深そうに手で抱えながら膝に乗せて話しはじめた。カメラは、ホルランヂヤでお世話になった人のものらしい。一緒にいたところで戦闘機に攻撃されて亡くなってしまったそう。

「撮ってばかりだからと、俺が無理やりカメラを取り上げて撮った笑顔が最期になった」

それから昇さんは目頭を押さえて、しばらく黙ったまま俯いていた。それって昇さんの目の前で、ってことだよね。辛すぎる。

「このカメラは軍の記録用だけど、俺は仲間たちの写真をたくさん撮って帰りたいと思ったんだ。縁起でもないが、写真1枚残さず死んでいくなんてそのほうがよっぽど酷い話だろ。生きてりゃ、あんときは苦労したなと酒の肴になるんだから」

そう言って、ニカっと子供みたいに笑った。

「そうだね、写真って、あとで見るとすごく楽しいよね」
「だろ」
「私も撮ってよ」
「もう、全部撮り終わってるんだ。すまんな。海でお前を撮ったのが最後だったと思う」

昇さんはカメラの蓋を開けると、単一電池みたいな円筒状のものを取り出して手渡してくれた。

「え、これ何?」
「フィルムさ。未来にはないのか? さて、と。腹がまた減らないうちに寝るぞ。夜が明けたら出発だからな」
「え、あー、うん、と」
「ん? ああそうか」

二人で腰かけている毛布は1枚。しかも、シングルサイズくらい。この急な展開に思いっきりわかりやすく動揺してしまっている私の心臓、落ち着いて。顔が熱い。今、絶対に真っ赤な顔をしているに違いない。意識しちゃってるのバレバレでしょ。

「心配するな。何もしないから」

そんな私を見て、昇さんがふんわりと笑って言った。バレバレかと思ったけど、どちらかというと私が怖がっていると思ったみたい。動揺しているのがバレていなくて良かった。

「あの、でも……」
「嫁入り前のお嬢さんに手を出すような男にみえるか?」
「う、ううん! そんな!」

スパイ容疑の時は怖かったけど、女の子を無理やりどうにかするような人じゃないのはわかる。私は大きく首を横に振って否定した。

「狭くてすまないな」
「ううん! だって私が何も持ってないせいだから」
「過去に飛ばされるなんて非常事態に備えてる奴なんておらんだろう、気にするな」

だけど、いざ横になってみれば畳1枚くらいのスペースに、ふたりっきり。意識するなというほうが無理だ。全然寝れなくて、寝息を立て始めた昇さんにため息をつく。

「ちょっとは意識してよ……女の子とふたりきりなんだよ」

当然、返事が返ってくることなんかなくて、ふて寝するしかない私も目を瞑った。フィルム、返し損ねちゃった。朝になったら返そう。

……足がムズムズする……。腕もこそばゆい……。ほとんど無意識にその場所を手で払って、最初は気のせいだと思っていた。でもやっぱり違和感は拭えなくて、ついには、それが顔の上で起きた時、肌を伝う感覚と払った手に答えを確信してしまった。

「きゃぁっ!」
「どうした?」

私の叫び声で昇さんがガバっと起きて、険しい顔を向ける。

「む、虫が体の上に……顔にも来て、無理無理無理」
「なんだ、虫か。マラリアや刺されると腫れるのもいるがもう諦めろ」
「無理キモい! 寝らんない……」

見るのも嫌というほどではないし、家でだって虫が出ても一番騒ぐのはお母さんだ。だけど顔に来るとかは絶対無理!

「仕方ないな……おいで」
「えっ……」

ふわりと両脇を抱えられたと思ったら、その瞬間、私は仰向けになった昇さんに被さるように乗せられてしまった。待って、ほんと待って。こんなの、無理! 虫も無理だけどこっちのほうが無理! 心臓が爆発しそうだよ! 恥ずかしすぎて死んじゃう……。

「これなら平気だろ」
「えっ、でも」
「じゃあ降りて寝るか?」

顔、超近いよ。そんな優しい顔しないで。身体じゅうを駆け巡る血が熱くなっているのがわかる。今めちゃめちゃドキドキしてしまっていること、今度こそバレてしまう。だって私と昇さん、ぴったりくっついてるんだもん。私は精一杯の平静を装って、やっとの言葉を口にした。

「むっ、虫は嫌! でも、私、重いよ」
「気にするな、重いくらいのほうが上等な木綿の掛布団みたいでいいさ」
「くっ、また失礼なことを」
「ははは」

昇さんは絶対に私で遊んでいる。私がこんなに意識しているというのに、昇さんは平気な顔。大人ってずるい。

「明日も早いぞ。おやすみ」

頭をポンポンされて完全に子供扱いだと思った。まるで子守唄でも歌っているみたいに、昇さんの大きな手が私の坊主頭を撫でている。胸についた耳に、昇さんの鼓動がきこえる。優しくて、落ち着いた音だ。だけど落ち着くどころじゃなくて、ぜんぜん眠れない。私ばっかり、どんどん好きになっていくよ。とくん、とくん、と、昇さんの温かくて心地良い響きに身を任せる。

ここは、どこ? まるで雲の上にいるみたいに、体がふわふわする。

「……ろ、弥生、起きろ」
「んん……」

そうか、夢の中。この綿菓子みたいな甘くてふわふわの夢から、覚めたくないのに。呼ばないでよ。私を呼ぶのは誰? 「弥生」なんていうのは晶くらいだ。もう、邪魔しないでよね。

「……晶、やめてよ……」
「ったく、何を寝ぼけている。そろそろ行くぞ、起きろ」
「んあ……、の、昇さん! おはようございます…っ!」

私は昇さんが起き上がった勢いで毛布の上に転げ落ちてしまった。痛い。昇さん、せめてもうちょっとゆっくり起きてくださいませんか……。とはいえ、一晩じゅう体に乗せていてくれたのだから、贅沢は言っていられない。だけど私、ドキドキして絶対に眠れないって思っていたのに、いつの間にかぐっすり眠っていたんだ。

「あの、昇さん、ありがとう。昇さんは寝苦しくなかった?」
「苦しくはなかったよ。だけどヨダレとイビキがなぁ」
「えっ、本当に? ごごごめんなさいっ!」
「冗談だよ、ははは。ほらこれ」
「あ、いただきます」

結局またからかわれて、朝食に乾パンと金平糖をもらった。昇さんに教えてもらいながら天幕を畳んで、毛布も土を払って畳み、昇さんがそれをリュックにセットし終わると、私たちは再び歩き始めた。スマホを見ると、まだ朝の5時にもなっていない。

そうだ。スマホのバッテリーが切れないように電源は切っておこう。夜のうちに雨が降ったのか、それとも朝露か、土や草が濡れていてジメジメしてる。ひざ下がガラ空きのこの格好では、足が無防備すぎるんだ。昨日歩いたときに出来た細かい傷が痛痒いのに、そこに濡れた草が貼りついて、更に痒い。

「長いジャージにしとけばよかった……」
「……そうだな。ジャングルの中より湖岸を歩いてみよう。そのほうがありそうだ。敵が来るかもしれないから、慎重にいくぞ」
「う、うん」

ありそう、って何がだろう。でもそれより、敵と言われて心臓が跳ねた。湖岸のほうが危ないけど歩きやすいということなのかな。言われるまま昇さんに従った。30分くらい歩いた頃、湖岸に面して開けた一帯に出た。

「ああ、畑が荒らされているな。このあたりを通ったようだ」
「みんな先に行ったの?」
「だと、いいがな」

警戒して険しい表情で早歩きする昇さんのあとを必死でついていく。辺りを見回す余裕はなくて、私はもう走るみたいになっていた。それなのに突然、昇さんの足が止まる。

「わぁっ」
「シッ、黙って」

昇さんの背中にぶつかりそうになって思わず声が出たのを、昇さんが振り向いてたしなめる。

「人がいる。ほらあそこ」
「ほんとだ」
「様子を見てくるから、少し隠れてて」
「えっ、怖いよ、一緒に行く」
「……気をつけろよ」
「うん」

行くのも怖いけど、置いて行かれる方がもっと怖い。そう思って、私も一緒についていくことにした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?