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存在を登録する

ホワイトホース到着2日目の朝8時半、SINナンバー (Social Insurance Number: カナダのマイナンバー) を取得すべく、町の中央にある Service Centre Canada に向かった。

SINナンバーの発行に必要なものは、パスポート、Work permit、住所を証明する賃貸の契約書の3つだ。運良く初日に住まいを契約してもらうことができたおかげで、すぐに申請できる。本当に良かった。

建物の重い扉を開けると、3,4階まで吹き抜けになった、少し暗いロビーが私を出迎えた。1階右手側に Service Centre Canada が見えた。そっとドアを開ける。
手前にいくつかPCが置かれており、その奥には灰色の吸音パネルで仕切られたブースが3つほど並んでいた。役所とは、世界のどこでも似たようなインテリアなのかもしれない。室内を見回したが、日本の区役所のように受付番号を発券する機械はなかった。うろうろしていると、ブースのひとつから「空いてるよ」と声が聞こえてきた。
声のする方に向かう。そこには、少し長めの黒いカールヘアをオールバックにして、髪と同じ色の黒い髭を短く切り揃えた、30〜40代くらいの男性が座っていた。眼鏡をかけ、耳にはゴールドの小さなリングピアスをしている。

私は「Hi, SINナンバーを取得したいんです」と話しながら必要書類を渡した。
彼は受け取ると短く「OK」と言い、淡々と書類の確認を進めていった。
私のパスポートをぱらぱらとめくる。ふと、「フランスに行ったことがあるんだ? 何回も」と、パスポートから目を離さずに聞いた。おそらく出入国スタンプを見ている。
「うん。アートも街も食べ物も人も美しくて、大好き」と私は答えた。
彼はまず口角を上げた。それから俯いたまま、ゆっくり目だけを私の方に向けた。初めて彼と目が合う。
「私はフランス出身なんだ。ようこそホワイトホースへ」と彼は言った。
私は映画のワンシーンみたいな仕草だなぁと思った。私が真似したって、全く格好つかないだろうな。

その後いくつか簡単な質問に答えると、最後に「これは銀行や雇用先以外、むやみにシェアしてはいけないよ」と念を押されて、SINナンバーの書かれたコピー用紙を受け取った。ついに、SINナンバーを手に入れたのだ。ようやくこの国で私の存在を証明できる。

サービスセンターを後にした私は、その足ですぐ近くにある銀行に向かった。銀行口座を開設するためだ。
カナダには5つメガバンクがあり、ホワイトホースには全ての支店がある。私はCIBCとTDで迷ったが、クレジットカードが作りやすいと聞いたCIBCで最初の口座を持つことにした。

まずは正面のカウンターに並ぶ。先ほどまでいたサービスセンターよりも、やや緊張感のある雰囲気が漂っていた。列はどんどん進み、ものの5分で自分の番がやってきた。
「ご用件は?」担当者は茶色いカーリーヘアで眼鏡をかけた、かなり年上の女性だった。薄いグリーンの花柄のワンピースに、ブラウンのカーディガンを羽織っている。耳には細かいビーズで作られたレインボーフラッグの大きなピアスをしていた。周りを見ると、カウンターの人たちはみんな何かしらレインボーグッズを身につけているようだった。
「すみません、新しい口座を開きたいんです」
「予約は?」
「ノー。ありません」
「口座の開設には予約が必要です。ちょっと待ってね」
女性は眉間に皺を寄せながら、カタカタとPCのキーボードを叩いた。おもむろにこちらを向く。
「今日の午後1時なら空いてる。よかったね!当日に予約できないこともあるんだから」
口座の開設に予約が必要なんて、知らなかった。運が良くて本当によかった。
「本当に?私はとてもラッキーだったんだね!」
私はイェーイと胸元で小さく拍手した。女性は私のリアクションを見てハハハッと笑い声をあげると、笑顔で予約の手筈を整えてくれた。

アポイントまでの約2時間、私は街をふらふらと歩き回って時間を潰した。遅れてはなるまいと、12時59分には銀行に戻った。1時にアポイントがあると銀行の人に伝えると、ガラス張りの個室の前にある椅子で待つよう促された。

いくら待っても担当者はやって来なかった。日本で生活しているとき、私は5分前行動が苦手で、比較的だらしない人間だった。でもここでは2〜3分遅れたところで、相手の方がはるかに遅れてやってくる。バスだって10分以上来ない時もある。時間ちょうどに来るだけでも、ここならすごくちゃんとした人間でいられると思った。誰かを待つのは全く苦じゃない分、とても気が楽だった。

約束の時間より15分ほど遅れて担当者がやってきた。どうぞとジェスチャーがあり、ガラスの個室に入る。パスポート、Work permit、SINナンバー、賃貸契約書の書類をまとめて渡した。
担当してくれた男性は、頭髪を刈り上げ、黒い髭を少し生やした、穏やかそうな人だった。
PCの奥にあるコルクボードには、七福神の大黒天と思しきイラストが貼られていた。よく見ると、モニターの下にも手のひらサイズの白い大黒天が鎮座している。
担当してくれている男性に目を向けると、彼は少し福耳だった。だんだん彼自身が大黒天に似ているような気がしてきた。そう思うと、あれやこれやと憶測や妄想が頭の中に飛び交ってしまい、話に集中できなくなってきた。
口座開設のための質問をしているうちに、やがて彼は私の国籍から日本の話をし始めたので、思い切って話題に出してみることにした。
「この神様も、たぶん日本にいるよ。7人の神様の1人として」
彼は笑いながら答えてくれた。
「日本にもこの神がいることは知ってるよ。私はインド出身だけど、これは友人からもらったんだ」
大黒天はインド神話のシヴァ神にルーツを持つ。インドでは大きくて黒い破壊の神様だが、日本では大国主命と習合して福徳の神様になった。彼が身の回りに置いている大黒天は、もしかしたら日本で作られた品物なのかもしれない。インドにも、私が知らないだけで白い大黒天はいるのかもしれないけれど。
とにかく海を越えた銀行に大黒天がいる状況なんて、ちょっとおもしろいなと思った。

その後も大黒天たちに見守られながら、順調に口座開設の手続きは進んだ。
そして最後に一枚の赤いカードを渡された。キャッシュカード兼デビットカードだ。
口座の必要残高、引き出し額、一回あたりの決済など、さまざまな上限が1000ドルに設定されているとのことだった。実際に使ったことはないにせよ、日本では100万、200万とクレジットカードを使うことが許されていたのに、ここでは10万円ちょっと。私は今、10万円分の信用しかない人間ということだった。信用も一から積みなおしなのだ。頑張ろう。
「これから仕事を探すのかい?Good Luck!」
と見送られて、私は銀行を後にした。

さて、自分はそんなに英語を話せないと思っていたけれど、ここまで何の問題もなく生活基盤を整えることができてしまった。
ユーコンにやって来たのは憧れが最大の理由だが、英語をもっと話せるようになることもワーホリの目的の一つである。
しかしここまで全く不自由することはなかった。今の英語力のままでもぬるっと生きていけてしまうのでは? 自主的に勉強しないとこれ以上伸びないのでは? というあまりにも舐め腐った危機感を持ったのだが、そんなことは杞憂に過ぎなかった。
というか、学ばなければ乗り越えられなそうな出来事がちゃんと起こった。

それは仕事探しである。
また今度書こうと思う。


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