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GARNET CROW「晴れ時計」をアセクシャルの異性と関係性を作る物語と解釈してみる

はじめに

こんにちは、2000年前後のbeing作品の歌詞の解釈について書いている「品川みく」です。

ふとしたことで小松未歩をはじめとしたbeingアーティストたちの曲への愛が一気に湧き出し、この溢れ出す気持ちを言葉にしなければ!という思いで記事を書いています。

私は2000年ごろ10代で、現在は30代。10代のころ好きになって何百回も聴いていた曲も、いま改めて聴くと以前とはだいぶ違った感じに聴こえてきます。私の場合は歌詞の「物語性」に特に着目しており、この曲はいったいどういう物語を描いたものなのか歌詞を解釈していくことが当時からすごく好きでした。20年の人生経験を経て、一つの曲の解釈がどのように変わっていったのか。その変化をお楽しみいただければと思います。

今回は、GARNET CROWの「晴れ時計」(2006年)を紹介いたします。

15年前の解釈:傷ついた君との関係性をゆっくりゆっくり積み上げていく物語

GARNET CROWはボーカルの中村由利の歌声が女声としてはとても低く中性的で、歌詞も中性的に描かれていることが多く、男性視点の曲としても女性視点の曲としても楽しめます。このため、よく、歌い手の性別を特定せずに曲を解釈していました。聴くときの気分によって今回は男性視点、今回は女性視点で聴いてみよう…という具合に。

この曲がリリースされたとき、当時私は大学生。広がる世界に新しい出会いがとても楽しい時期でもありました。人を好きになると、すれ違いを恐れずに一気に距離を詰めていこうとする。そんなイメージを歌い出しの「昨日買った靴を履き水たまりをさけながらゆく」に感じていました。でも、やっぱり水たまりに突っ込んじゃって「泥にまみれ」ちゃうんですね。

「明かされた秘密」とはいったいどんなものでしょうか。それは「好きだ」という気持ちを、君に気づかれないよう息をひそめなければならないようなもので、明るい曲調とは裏腹のかなり重い秘密のように思います。たとえば、幼少期に親から性的虐待を受けていたとか、前の恋人に深い傷を残された、とか。

でも、その秘密を知ってもなお、歌い手は君のことを好きで、会いたいと願い、関係性をつくろうとするのです。

そんな二人にとって色づいたクリスマスの街は苦手。きれいにイルミネーションされて街ゆく恋人が腕を絡め、抱き合いキスをしてたりさえする。それは、まるで「愛しさを」キスやハグといった外形的な行為で「計るように煽り立てる」よう。それは本当にやめてほしい、僕らは僕らのスピードで関係性をつくっていくのだから!

「哀しい話は消えな」い。でも、1日1日朝日がのぼり新しい日を迎えるごとに君との関係を積み上げている手ごたえを感じる。その実感を歌い手は「晴れ時計」と呼んだのだと大学生当時の私は思いました。

現在の解釈:アセクシャルの君と「息をひそめて」関係をつくろうとする物語

この曲のリリースから15年が経ちました。今でも私はこの曲を当時と同じ解釈で聴くこともあります。けれど、もっと大胆な新しい解釈で聴くこともあります。それは、この曲で描かれている「君」がアセクシャルだったのではないかという解釈です。

アセクシャル(sexualに否定のaをつけたもの)とは、性的指向がない人のことを指します。近年、異性を性的に好きになる「異性愛者(ヘテロセクシャル)」のほかに、同性を性的に好きになる「同性愛者(ホモセクシャル)」、同性も異性も性的に好きになる「両性愛者(バイセクシャル)」がいることはよく知られるようになってきました。しかし、この他にも両性いずれも性的に好きになることのない「無性愛者(アセクシャル)」という人も、人口の1%ほどいるようです。

私がアセクシャルのことを意識するようになったのは、十数年ぶりに会った旧友から自らをアセクシャルであると打ち明けられたことがあったからです。その方とは当時仲良くしていたことがあったものの、「私との関係を恋愛関係のように見られることが辛くて、逃げてしまった」と。その方いわく、今思えば、それはまるで異性愛者が同性と恋愛関係にあることを噂されるような嫌な気分だったと。当時はその方自身もアセクシャルという言葉すら知らず自分でも整理がつかない感情に苦しんだそうです。

当時の私としては何もできなかったわけですが、でも、もし、当時からアセクシャルをよく知っていたら、もしかしたら私たちが関係性を積み上げる道もありえたのだろうか? 最近、「晴れ時計」を聴いていてそんな物語が頭に浮かんできたのです。

「秘密」というのは結構重い言葉で、それはセクシャリティのカミングアウトであってもおかしくありません。性的関係への期待もありつつ相手に近づいていこうという中、セクシャリティが合わないことを打ち明けられるのはなかなかのショックですよね。でも、相手の人間性に強い魅力を感じているならばーー「好きだという気持ち」を「息をひそめ」ながら、付き合っていこうと思えるかもしれません。

旧友の件をきっかけに、私は少しアセクシャルについて勉強しました。自分か相手がアセクシャルであっても、気持ちにうまく折り合いをつけながら、パートナーと共同生活を送っている人もいる。それが異性であれば法律上結婚することもできるし、(多くの人は)生殖能力がないわけでもないので子どもを持つことだってできる、と。アセクシャルでない「有性愛者」の私としては、パートナーと性的結びつきを持てないことはとても辛く寂しいことに感じてしまいますが、それでもなお、どうしてもこの人とともに生活を作りたいと思うような人がいれば、「息をひそめ」ながら関係性を作っていく可能性もゼロではないなぁ、と思いました。

その視点で聴くと、Cメロは心に刺さります。クリスマスの街並み。カップルが幸せそうに愛を表現する季節。今では異性カップルだけでなく、同性カップルが連れ歩く姿も好意的に見られるようになってきている気がします。でも、それでも99%の有性愛者と1%の無性愛者の間には大きな溝があるように感じます。好きな気持ちを表現する手段はカラダだけじゃないんだ、僕たちは僕たちの方法で関係を作るから!という歌い手の叫びが聴こえてきませんか。

おわりに

歌詞の解釈に正解はありません。私の解釈もその一つに過ぎず、どういう解釈をするかは自由です。こんな大胆な解釈を「晴れ時計」の本当の意味だなどと主張するつもりもさらさらありません。けれど、時間を経て経験を経て同じ曲が違ったものとして聴こえてくること、一つの曲からいろんな物語を思い浮かべられることが、私にはとても面白いのです。ひとりでもふたりでもこういう話を面白いと思ってくれる人がいたら、ぜひコメントをいただけると嬉しいです。