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メンクリ行ってモヤった話

以前自分ひとりで抱え続けることがどうにも苦しくて、人に相談したくて足を運んだメンタルクリニック。
初診時に対応してくださった先生は、穏やかでこちらに寄り添ってくれる人だった。

辛かったね、苦しかったね、今も辛いと思うけど、絶対に治るからね。元通りになれるからね。
そう声をかけてくださって、安心したし救われたような気持ちになれた。
ここに通えば現状も良い方に向かっていくかもしれない。
そう思ってむかえた再診。
初診時に「次は違う先生になるかもしれない」とは言われていたけれど、そう大きく変わることは無いだろうと思っていたし、そう思いたかった。
現実はそううまくはいかなくて。
結果として、モヤモヤを解消したくて行ったはずなのに、余計にモヤモヤして帰ることになった。

診察室で迎えてくださったのは、若い女の先生。
目を合わせて挨拶をしたとき、何の勘が働いたのか、得も言えぬ不安感に襲われた。
薄ら寒い上辺だけの笑顔を貼り付けたような表情の先生が怖くて、不安で。
そんな状況で、何がしんどいのか、辛いのかと問われた。

普通に食べたい、親とか友達とかにも食のことで気遣わせて迷惑かけることが辛い、芋類主食類揚げ物ぜんぶ食べたいのに食べられないのが辛い、苦しい。

初診時も言葉をうまくまとめて話せたとは言えないけれど、そのときの倍ほどの時間をかけても気持ちがまとまらず、しどろもどろになって言葉に詰まりながらも、必死にそう伝えた。
そんな私に、同じ笑顔を貼り付けたまま話を聞いていた先生はこう言った。

「ちゃんと食べれてるならそのままで大丈夫ですよ。」

その言葉を聞いて、心が冷えたような感覚がした。
そんな私に先生は続けて「そのへんは食べなくても大丈夫だけどたんぱく質とれてます?」と言った。
まとまりのない私の伝え方も悪かったのかもしれない。今になってそう思うこともあるけれど、当時の私はひどく失望した。


食べても食べなくても大丈夫なことくらい分かってる、今生きてるから。
食べたいけど怖くて食べられないのがしんどいのに何がどう大丈夫なの?生命を維持できるってこと?
今の食生活で生命を保てるのは分かってる、長生きはできないだろうけど。
精神を健康にしたくて病院に来てるのに、現状改善したくてお金払ってるのに、現状維持の話されても困る。

何がしんどいですかって聞かれて、周りに食のことで迷惑かけたり心配かけたりしてることと、食べたいのに食べるのが怖くて食べられないのがしんどいって言ったことに対して、大丈夫っておかしくない?何も大丈夫じゃなくない?
食べたくなくて食べられないけど食べた方がいいのかってことに対してなら大丈夫でもわかるけど、私は食べたいの
でも怖くて食べられなくて、それがしんどいのに大丈夫ですよって言われても
これからも食べられないものは親や友人に押し付けろってこと?
出されたものはきちんと食べたいのに、恐怖心とか凝り固まったくっだらない拘りとかのせいで、食べられない辛さなんて普通に食べられる人には分からないでしょうね
だから大丈夫しか言えないし大丈夫って平気で言うんでしょ
駄目でしかないでしょ


当時の私が、ぐちゃぐちゃの感情をそんな風に書き残していた。

病院の先生だから、わかってくれるに違いない、この気持ちを解消してくれるだろう、と私も期待しすぎていたのだと思う。

それでも、軽々しく「大丈夫」だなんて、言わないでほしかった。言われたくなかった。

「大丈夫」じゃないから病院に来てるのに、第三者の少し悩みを話しただけの人に、ましてや病院の先生ともあろう人に、そんなことを言われるとは思いもしなかった。

何が「大丈夫」なのか。何を基準に「大丈夫」なのか。

そんなことをモヤモヤと悩んでしまい、私はメンタルクリニックに行くのを辞めた。
病院なんて、通わなきゃ治らないことも分かっているけれど、あのときの「大丈夫」が心に刺さったまま今も抜けない。

私は「大丈夫」だから摂食障害じゃないし、精神疾患者でもないし、痩せ細って上手く食べられない「可哀想な私」を慰めてほしいだけ。
ただの甘えで、我儘なんだと思う。

それでもやっぱり、食べることに対する罪悪感は消えてくれないし、芋類、粉物、ごはん物、麺類、揚げ物に対する不安感や嫌悪感も無くならないどころか増す一方で。

一体いつになれば、食に対して罪悪感も不安感も嫌悪感もない「普通」になれるんだろう。

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