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可視化のための仮死化

4月も終わり、ゴールデンウィークから5月が始まりましたね。

業種的に祝日は逆にかき入れ時みたいなところがあって働き詰めになっています。まあ、それは

それで別日の空いているタイミングでお休みが取れるし、電車は空いているので悪いことはないです。多分。


そんなことはどうでもいいのですが、この間どういう人なのか文字化してみようと思って書いた文章が思ったよりも表面的でこんなちょっとしか見えてないんだなと不思議に思った次第です。それはそうとして、今度は自分の勉強スタイルについて今日は文字化していけたらなあと思います。


 勉強スタイルなど大それたことを言っていますが、勉強を始めたのは1ヶ月前です。その意味意義について考えたのは昨日です。この時点で浅い笑

勉強を始めたきっかけはむぎちゃんのStudy With Meというのは1番最初のnoteでちょっとばかり書いたような気がします。大学を卒業した今まで全くと言っていいほど勉強を楽しいと思ったことが一度もなく生きてきました。ただ机に向かうだけの苦行をなぜしなければならないのか。スマホをいじっている方が面白い。ずっとそう思っていました。だからむぎちゃんのSWMを見て「Study」はどんなことをしてもいいんだ、と驚いた次第です。もちろん資格といった目に見える勉強も良いし、教養を深めるための勉強、使用する知識を使えるように整理する勉強もそれぞれ楽しい。これを知ることができたのが本当に自分にとっては大きな収穫なのです。


 話はガラッと変わりますが、自分は「わかりやすくエモい曲」が好きです。曲名出すとすごく失礼になってしまう言い分なのですが、いわゆる恋愛や友情を美しくも切ない雰囲気で書き出した曲が好きです。この説明はあまりにも他者に不親切なのでもう少し分かりやすい言語化を図ろうと歌詞分析から定義していくことにしました。題材は最近よく聞いているプロジェクトセカイ書き下ろし曲でVIVID BAD SQUADが歌唱している「仮死化」という曲を取り上げることにし、ついでにイベントストーリーもあたれると良いなぁと思いながら分析を開始した次第です。中身はまだまだ検討途中なので言えることはあまりないのですが、検討していく過程で自分の考えの指標になっていく曲でもあるなあと思うところがあったのでその部分を抽出して「可視化」していきます。


「仮死化」という曲を分析していくにあたって重要なワードがあります。それが「仮死」「歌詞」「貸し」「瑕疵」「可視」の5つです。「かし」というふた文字をひらがなから変換するだけで意味が少なくとも5つに分岐します。これは日本語の美しいところですよね。ではそれらの言葉をイコールで繋ぐとしたらこのように文字起こしする行為は「可視化」でありその行為をしている今は「仮死化」している状態なのではないかと思った訳です。自分は今、一応社会人として昼間は仕事をし、終わり次第自分の時間として学習などのインプットやこのようなnoteでアウトプットを行っています。仕事は大変なものですし、心を殺して耐えている人もいますから「死」と捉えることもできるでしょう。しかし、私個人は「生きるために必要なお金を稼ぐ」行為であるため、「生」とカウントするのが収まり良いと感じています。そうなると、仕事を終えて自分の自由な時間はお金を稼ぐ行為ではないですし、「仮死」していると捉えることができるでしょう。ここまでは一般論的な部分です。この「仮死」の時間はただお金を稼いでいないから、という訳ではなく「私」ではない時間と捉えている部分が大きいと思っています。人間は他者と関わる時に何らかの仮面を被ります。夕凪しおが「夕凪しお」であるのは見ている主体がそう思っているからであって他の主体からはそう思われていない場合もあると思います。そのような他者から求められる「夕凪しお」を演じている私は、退勤して自宅に帰るまでの短い時間の間だけは「何者でもないただのニンゲン」になることができていると思っています。その時間だけはありとあらゆる人格、名前、考え方たちは「仮死」状態に陥っていると捉えることができます。あと、単純に自分はこの時間に昼寝(?!)をするので「寝る」行為も「仮死」と言える行為なのではないかと思っています。


 ではなぜ人間には「仮死」する時間が必要なのでしょうか。私個人の話をするならば、どこかで「夕凪しお」本体に少しずつ死を訪れさせないと希死念慮が永遠に沸くからです。死にたいというだけ言って死ねる訳でもなく、死にたい割には困難が少ない方ではあるのでしょう。最近気づいたのですが、社会活動をするには私の耐えられるキャパは狭くてどこかで折り合いをつける必要があります。現状で上手くハマっているのが「学び」なのだと思います。学び自体は誰にでも許される行為であって何者かでないといけないこともありません。そのような「何か」であることを殺すことで最近は希死念慮をある程度抑えることに成功しました。常に頭の片隅には死があって50代で死にたいとは思っていますけれど、変な焦燥感と共に現れる希死念慮は減ったように思うのです。「得体の知れない恐怖」のようなものが知識を詰め込むことで薄くなっていくとはなんとも面白い。


 結局のところ、何者でもない私が何者かになるための儀式の一つなのだろうと思います。なんでもないになろうとしてんのにね。ウケる。世間のあたりまえ(そんなものない)に溶け込むために毎日メイクをして、毎日スキンケアをして、毎日オイルをつけてから髪をドライヤーで乾かして、毎日勉強をして、毎日何かを続ける。書き出したものは今まで続けてこれなかったものです。ズボラって言ってたけど、何かを長期的に継続するのが壊滅的に下手くそなだけでした。でも、推しがコラボをしたからスキンケアをして、推しに髪を切ってもらったからヘアケアも頑張って、なんとなく見れる顔にしたいからメイクをして、なりたい自分に近づく推しに少しでも追いつきたいから勉強をする。何者かには多分なれないけれど、自分のなりたい自分に近づくのはきっとできる気がする。もっといろんなことが知りたい。知識欲がこんなにも自分にとってプラスに働いてくれるなんて知らなかったな。知りたいこと、考えたいことは沢山あるのに全然時間が足りない。今までこんなふうに考えたことが一ミリもなかったから少し不思議です。だからこそ、今やる気があるうちにいろんなことを消化しておきたいなあ。直近で6月に漢検の試験があって、近い目標で頑張るぞ!と思ったら、舞台のチケットをとっていました。10月に変更します。草。舞台自体も、卒論で書いたくらい大好きなシリーズが自分の興味ドンピシャなキャラ編成でやってくるのでインプットもアウトプットも両方できるんじゃないかしらとワクワクしています。


 こないだのnoteで男アイドルについて書きたいみたいな話してたけど、もう少し先になりそうだな。今はもう少し仮死化の方に思考のソースを割いておきたい。あと、ちょっと体調悪くて勉強が上手く行かなそうの時に読み始めた村田沙耶香さんの生命式も少し感想とかまとめられたら良いなあと思っています。あとそのうち卒論の手直しもしたい。やりたいことまみれだ〜〜〜!!!!!!!!やりたいことがたくさんあるってこんなに充実してるんだなあと不思議に思っています。最近訳のわからない散財が減りました。グッズとかは買うけど()

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