ビートルズ、スリートルズ、トゥートルズ、Free As a BirdもReal Loveも今は昔になりにけり
去年の秋には、来年のビートルズのクリスマス・リリースはどうするんだろうなあ、やっぱり、Please Please Meのスーパー・デラクス・エディションかねえ、2023年の60年前はあれだものなあ、と思った。
しかし、予想は外れ、60周してしまった結果、彼らは編集盤に逃げた。
◎年中行事:Reminiscing the Beatles
おそらく、スタジオ・ライヴ同然だったPlease Please Meオールデイ・セッションのアウトテイクには、箱をつくれるほどの潤沢な材料はなかったのだろう。
シングル曲だって、有名なPlease Please Meの初期スロウ・ヴァージョンすら残っていないのだ、ブートやAnthologyで目ぼしいものは出尽くし(というか、あの時期に「めぼしいもの」などない。しいて云えばOne After 909とHow Do You Do Itだが、ともにとうの昔にオフィシャルが出ている)、セールス・ポイントになるようなものはなかったに違いない。
日本人が云うところの「赤盤」「青盤」のリマスターについては、くだらねえ、最低。そもそも、オリジナルの赤盤、青盤ですらまったく関心がわかず、聴きもしなかったのだから、リマスターされても、「へえ、そうかよ」以外の言葉はない。
まあ、いちおう聴いたが、なんともしっくりせず、しまいには選曲のひどさに激しい怒りが湧いてきた。If I FellもI'll Be BackもNo Replyも入っていないビートルズのベスト盤など、どこをどう聴けというのだ! 馬鹿にするのも大概にしておけよ。
まあ、いってみれば、元日に屠蘇を飲むような、お盆に墓参をするような、クリスマスにケーキを食うような、年中行事か儀式みたいなものなんだから、そんなに血圧をあげるんじゃないよ、と自分をなだめた。
「人の死を悼むというのはすなわち、残された者たちが故人のことを思いだし、思い出を語り合うことなのだ、このところ、しじゅう死んだ友のことを仲間と話しているじゃないか、あれと同じだ」と気を取り直した。
クリスマスが迫れば、毎年、ビートルズが甦るのだ、そういうことにすぎない。ジョン・カーペンターの『ザ・フォグ』じゃないが、「奴らは時々還って来る」のだ。
◎ミート・ザ・トゥートルズ
赤盤、青盤は腹が立つだけだが、Now and Thenは、いくぶんかの感慨があった。故人をreminisceする、追想するよすがにはなったのだから、「時々還って来る」目的は達したことになる。
Now and Thenを聴いての最初の感触は、Free As a Birdと違って、ビートルズらしさを出そうという努力の跡は見えないな、ということだった。当然、何が違うから、ビートルズらしさを感じないのか、ということを検分した。
Free As a BirdとReal Loveのビートルズ没後シングルについては、二種のブートを持っている。それを久しぶりにプレイヤーに載せた。
ひとつは有名なパープル・チック・シリーズのMeet the Threetles、このタイトルには笑った。しかし、今年、「トゥートルズ」のシングルを聴き、くどいが、やっぱりスリートルズはまだしもビートルズの子孫に感じられた、トゥートルズに流れているビートルズの血は薄すぎる、と遡って、最初の没後シングルの評価を上げてしまい、自分で愧じた。
◎ジェフ・エメリックのサウンド
evaluateの軸が変わってみると、Free As a BirdとReal Loveに流れていた、ビートルズの血の成分がより明瞭に見えてきた。
まず、全体の音の感触、主としてミキシングに由来すると思うが、バードとラヴには、やはりジェフ・エメリックの音があった。かつてエメリックが録音したのは、リヴォルヴァーとその同時シングル、ペパーズと同時シングル、ホワイト・アルバムの三枚だけだが、あれが後期ビートルズの感触をつくったのは間違いない。
エメリックの仕事は、ポールの要求に応え、ベースの音を太くすることからはじまった。いまになるとあまりいい音には思えないが、エメリックは、スピーカーをマイクロフォンの代わりにするという、入出力を逆転させるイレギュラーな手法によって、Paperback Writerの太いベース音を実現した。
同時に、クロース・マイキング方式(マイクロフォンを対象物の間近にセットする)で、リンゴのキック・ドラムの音も太くし(外側のヘッドを外し、キック・ドラム内部に毛布を入れ、ヘッドを押さえて「リング」しないようにし、すぐに減衰する「デッド」なドラム音にもした)、これで後期ビートルズの音を確立した。
ほかにもいろいろなことをやっている(たとえば、Tomorrow Never Knowsのジョンのヴォーカルをレズリー・スピーカーに通して変形した)が、エメリックのやった大事な仕事は、以上のように、EMIの内規(低音を強調するとカッティングが浅くなり、盤が針飛びを起こしやすくなるので、抑制しなければいけない)を破り、ビートルズの低音を豊かにしたことだった。
Free As a BirdとReal Loveでは、エメリックがコンソール卓に就いたので、あの時代のビートルズの音が感じられる。リンゴのドラムはホワイト・アルバムのような音だし、ピアノ(イントロなどはデモにあったジョンのプレイが使われているのだろうが、ヴォーカルの裏で鳴っているのはポールがあとで重ねたものだと思う)も、Lady Madonnaを水で薄めたような感触がある。
むろん、エメリック(とジェフ・リン)は、意図的に昔の音を再現しようとしたはずだし、三人の生き残りたちも、それを望んだから、ああいう音になったのだろう。偶然ではないのだ。
◎浮かび上がったジョージ
Free As a BirdとReal Loveを聴いた時、「ジョージ、円熟のスライドだねえ」と思った。スライド・ギターは速さとは無関係な、あくまでも「ギターに唄わせる」奏法で、さすがに年を取って、ジョージのスライドにはなんとも云えない味が出てきた。
とくにReal Loveだ。セカンド・ヴァースから入って来るジョージのスライドによるオブリガートは素晴らしい。なかでもいいのはセカンド・ヴァース、たぶん三本、ひょっとした四本のスライドを重ねたギター・オン・ギター・サウンドで(ジェフ・リンのアイディアか)、思わず、「ジョージ!」と心の中で拍手した。
ギター・ブレイクもいい。短いあいだに二度出てくる二分三連のフレーズが効いているし、チョーキングに関しても、音程、上げて下ろすタイミングともにいい。しばらく聴かないあいだに名手になっていたな、と感嘆した。
◎ジョージの声
しかし、それは昔聴いた時のこと。今回、Now and Thenを聴いて、味が薄い理由の第一はジョージの声の不在だと感じた。
ハーモニーというのはおかしなもので、平均律で考えては駄目なのだそうだ。純正律じゃないと綺麗に響かないのだという。現代の楽器は平均律でチューニングされているので、ハーモニーのほうが妥協するしかない。だからウィーン少年合唱団は伴奏を使わず、純正律のハーモニーを実現している。
ジョージ・ハリソンはポールやジョンのようにピッチがよくない。とくに初期は外すことが多かった。Don't Bother Meの初期テイクでの悪戦苦闘ぶりにそれが如実にあらわれている。
しかし、3パート・ハーモニーになると、ジョージはじつに綺麗にはまり込む。典型的なのはThis Boyだが、ジョンのうしろでポールと唄った2パートだって、ジョージはちゃんとやっている。ジョージのハーモニー・ヴォーカルなしでは、初期ビートルズのハーモニーは成立しないのだ。たぶん、それはジョージのピッチがちょうどいい具合に平均律からズレていて、うまいこと純正律に近いピッチになっているからだと考えている。
結局、Free As a BirdとReal Loveのビートルズらしさのうちのかなりの部分はジョージがつくっていたと思う。ジョン、ポール、ジョージの三人の声が聞こえると、ビートルズと認識できるのだ。
◎そして今は
1995年、Anthologyのボーナス・トラックに「新曲」を、と企図した時、ジョンのデモ・テープから三曲が選ばれた。Free As a BirdとReal Love、そしてNow and Thenだ。しかし、最終的に前二者だけが仕上げられ、Now and Thenは放棄された。今年のシングルはあのセッションのアウトテイクなのだ。落穂拾いである。
まあ、それでも、叮嚀に仕上げれば、シングル曲として格好がついてしまうのは、締切が来てしまい、簡単なやっつけ仕事になってしまったAll You Need Is Loveをチャート・トッパーにしたバンドだけのことはある、やっぱり腐っても鯛だとは思う。しかし、素材の弱さはわれわれの目にも明瞭に見えてしまう。これは如何ともしがたい。
そして、ポールは強い意志の力を失ったのかもしれない。
Free As a BirdとReal Loveの時は、ビートルズらしさをつくるために、ポールはできる限りのことをした。新しいパートを書き、コードを変更し、ジョージの舞台を演出し、ジョン・レノンのパートナーとして、唄い、弾き、自分自身を強く押し出して「ジョンとポールのビートルズ」を感じさせようと活躍している。
それがNow and Thenには感じられない。リンゴと一緒にハーモニーを唄っているのだが、ミックスのせいもあって、その声が聞こえてこない。ポールがそのミックスを承認したのだから、それでかまわないと思ったのだ。たぶん、もうビートルズらしさに固執する必要はないと思ったのだろう。
付随的なことにすぎないが、ストリングスが強すぎるし、アレンジもふつうで、68年ごろの、チェロやヴィオラをフィーチャーして低音部を強調したビートルズ・スタイルのサウンドでないことも、気分を殺いでいる。これにも、ポールの放心、あるいは達観が見える。
◎To Reminisce, Again
わたしにとっては、厳密に云うと、ビートルズはRubber Soulまでで終わり、その後は余生だった。Sgt. Peppersで興味が復活したが、結局、それは一時的なことで、ジョンとポールの唯一無二、空前絶後のハーモニーが失われると同時に、子供のわたしも、他の音楽に関心を移した。
しかし、子供の時に寝食を共にした音楽とは一生縁が切れることはないのだろう。無茶苦茶に仲が良かった幼友達なのだ。久しぶりに消息をきけば、ああ、あのころは信じられないくらい楽しかったな、それにくらべて今はなあ……お互い、年を取っちゃって、もうお迎えが来るまでの暇つぶしだねえ、まあ、この世は順繰り順繰りだからしようがねえな、と苦笑いするのであった。