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キャロル・ケイとフィル・スペクター

某局でキャロル・ケイに関する番組が放送されると、友人に教えられた。

2012年の震災のちょっと前ぐらいから、テレビなしの生活をしているので、キャロル・ケイが好きな友人たちにこれを知らせたところ、録画を送ってくれた。

番組内容がどうであろうと、彼女のようなアメリカ音楽史の黒子だった人が、ハリウッドから遠く離れた、地の果ての国のメディアでも称揚されるのは、じつにすばらしい。

いや、内容も、限られた時間と予算の中でやっつけたのだろうが、一応の調査をした形跡は見られ、「まあ、とにかく、彼女の名前を知らしめてくれたのだから、それで十分、あとはあれを見た人がどう受け取るかの問題でしかない」と思った。

また、いまも否定する人間がいっぱいいるのに、彼女が60年代のモータウンのトラックでプレイした、という点にも言及してくれたことは、非常に嬉しい。1990年代後半に、キャロル・ケイがオフィシャル・ウェブ・サイトを開いたのは、モータウンの録音のことを主張するのが第一の動機だったのだ。

友人への礼状には、noteに書くかもしれない、としたためたのだが、ひと呼吸ついたら、ずいぶん以前からテレビと新聞を拒否している人間が、テレビのことを書くのは変だ、と思い直した。


キャロル・ケイ ストラップをかけているのでライヴなのだろう。60年代、彼女のベースはフェンダー・プレシジョンばかりだったようだし、スタジオ仕事が忙しくて、ライヴ・パフォーマンスはしなかったということなので、したがって、これは70年代の撮影と思われる。


しかし、一晩寝たら、また気が変わった。キャロル・ケイ(公人敬称略の原則に従う)には、おおいなる借りがある。かつて、ひとかたならぬ世話になったのだ。

彼女はわたしにとっては教師だった。いや、ギターやベースではない。わたしの場合、彼女の「講義」科目はハリウッド音楽史だった。あんなに一所懸命に、縁もゆかりもない外国人に、膨大な知識と洞察を授けてくれた人への恩義を忘れるわけにはいけない。

「彼女があの番組を見たらコメントしたであろうことは、生徒として書き記しておく義務がある、ボケッとしているんじゃない、すぐやれ!」と自分を叱咤してPCに向かった。


キャロル・ケイとフェンダー・ジャギュア
ベース・プレイヤーとして有名になったが、もともとはギター・プレイヤー、ベースを弾くようになってからも、ギターの仕事はたくさんやっている。しかし、これは60年代の写真。まだベースを弾きはじめる前のことかもしれない。ジャギュアを弾いている写真はこれ以外には知らない。


◎ハリウッド音楽史という重箱の中のコップの底の隅

これから、あるテレビ番組について、事実関係の確認のようなことを書くが、その前に、しつこく繰り返しておく。あれから半世紀以上もたって、こんな遠隔の地で、キャロル・ケイの業績がテレビで語られたのは、すばらしいことだ。よくやってくれたと思う。

そのうえで、キャロル・ケイという、万事にわたって厳格な人のかつての「生徒」として、やはり、訂正すべきことは訂正しようと考え、責務として、いくつかのことを書く。できるだけ、重箱の隅をつつくがごとき真似はしないように心がけるつもりだ。

しかし、かつて、ある人に「たんなるカタカナの羅列」と揶揄されたことがあるが、つまるところ、ハリウッド音楽史の小さな出来事、はじめから重箱の世界の話なのだ。それについて語れば、どうしたって、コップの中の戦争じみた、重箱の隅をつつくような仕儀に至らざるを得ない。その点はご了承を願う。


オフィシャル・キャロル・ケイ・ウェブサイト初期のランディング・ページに掲載されていた写真。ちょっとお年を召してから。しかし、このベースはどこのなのやら。


◎いわゆる「レッキング・クルー」問題

キャロル・ケイのことを、たんなる文字ではなく、現実の人物として知ったのは、ハル・ブレインの回想記でのことだった。そのタイトルが「ハル・ブレインとレッキング・クルー」。

コラボレイティヴ・ライターが五流で、本としてはひどい出来だったが、とにかく、隠された事実があふれ、それまで不思議に思っていた疑問の数々が解き明かされて、驚き、かつ、深く納得した。

それをきっかけにハル・ブレインの資料を集め、彼が語っていた、隠されたハリウッド音楽史の裏取りをやっているうちに、キャロル・ケイのオフィシャル・ウェブ・サイトを発見し、そのBBSに挨拶を書き込んだ。そこで知り合った日本からのヴィジターを介し、数人の友人ができたが、それは別の話。

ハル・ブレインの本を読んで以来、さまざまな盤を聴き直し、クレジットなしでハルのプレイを見つけることに没頭した。一説に五万曲といわれるほど録音した人なので、むろん、大量に見つかった。

しかし、如何せん、裏付けがない。のちになると、さまざまな盤に、あとから調査したクレジットが書かれるようになったが、あの時代はまだそういう盤は稀だったのだ。


ハル・ブレインと彼のオクトプラス・セット。特許を取っておけばよかったと書いていたが、こういうマルチ・タム・モンスター・セットの嚆矢だった。キャロル・ケイがこのセットをはじめて見た時、それでメロディーでも叩くの、とからかったら、本当に8個のタムでドレミファソラシドを叩いたのでひっくり返った、とか。冗談ではなく、トーナルにチューニングしたらしい。


キャロル・ケイは自分のサイトで、彼女がプレイしたヒット曲のリストを公開しており、それは彼女のノート、仕事をしたものに対して、のちにきちんと料金が支払われたかどうかを確認するための、日々の記録からとっているとあった。

そうであるならば、彼女はわたしの疑問のいくつかに答えてくれるのではないか?

意を決して、わたしは彼女にファン・レターのようなものを送った。いくつか彼女のプレイをあげ、これとこれのベースは大好きだ、あなたがモータウンのトラックの数々でプレイしたということを知って驚いた、といった当たり前のことを書いた。


Stevie Wonder - I Was Made to Love Her, 1967
この曲のベースがキャロル・ケイのプレイと知ってひっくり返った。素晴らしいグルーヴで、子供の時からのフェイヴ。たしかに、ジェマーソンが弾いたというテンプスのMy Girlのベースとは対極にある、ダイナミックに動くプレイ。


すると、翌日には長文の返信が届いた。簡単な言葉、たとえば、遠隔の地にあるあなたのような人間がわたしの仕事を楽しんでいるのは嬉しい、といった程度の常識的なものしか期待していなかったので、驚いたし、すごく嬉しかった。

すぐさま、(添削サイトはもちろんまだなかったし、自動翻訳ソフトは笑いをとろうと必死のウケない駄洒落連発芸人状態だったので)リーダーズ英和辞典のみを武器に、必死に構文を確認しつつ(いつだって前置詞と冠詞の使い方はチャレンジングなのだ!)、いきなり具体的な話を書き送った。

いや、あの記録を取り出すのはひどく面倒なことになっているので(メーラーが壊れ、ひとつの長いテキスト・ファイルとして保存してある!)、あいまいな記憶が頼りなのだが、まず、ヴェンチャーズのことを聞いたのかもしれない。あるいはハーパーズ・ビザールのことだったか。


The Ventures - Walk Don't Run, 1960
ヴェンチャーズ初期のスタジオ録音は多くのプレイヤーが関与しているが、最初の三年ほどは、たとえば、ドラムズ=ハル・ブレイン、ベース=レイ・ポールマン、リズム・ギター=キャロル・ケイ、リード・ギター=ビリー・ストレンジという顔合わせが多かったと考えられる。


いや、そういうことは、いまはどうでもいい。あのテレビ番組に関係のあることを書こうとしていたのだ。

彼女の怒涛のメールで、やっぱりそうか、と思ったことがある。ハル・ブレインは回想記で、「レッキング・クルー」という名前を使っていたが、彼女はこの名前を全面否定したのだ。

「レッキング・クルー」などというバンドは存在しなかった、あれはハル・ブレインがでっち上げたにすぎない、そもそも、あれはバンドですらなかった、たんに、あのころ、どこの仕事場でも一緒になる、一握りのミュージシャンたちがいただけだ、と明言していた。

これが、訂正しておきたい第一点。番組では、レッキング・クルーを自明のこととし、そのバンドで彼女がプレイしたような印象を与える物言いをしていたが、キャロル・ケイは、はっきり、レッキング・クルーなどというバンドはなかった、と云っていた。

ハルの本が出てから、トミー・テデスコを筆頭に、何か名称が必要であることに理解を示し(名前のないものは誰も認識できない、したがってPRもできない)、レッキング・クルーという名前を追認した人もいる。


トミー・テデスコ自伝 A Confession of a Guitar Player: An Autobiography
乱雑な構成だが、いかにも人生をシャレのめした男にふさわしい、随所に興味深いエピソードを発見できる、「食うためにギターを弾いた男」の面目躍如たる回想記で、おおいに笑った。


ビリー・ストレンジ(この人にもいろいろ教えていただいたのだが、やはり公人敬称略の原則に従う)もそのひとりで、いくぶんかの揶揄を込めつつ、レッキング・クルーという言葉をいちおう追認した。ただし、彼は、自分のサイトのBBSで、ときおり、それは事実ではないと思う、ハルの法螺じゃないか、などとコメントすることもあった。

その後、トミー・テデスコの息子が「ザ・レッキング・クルー」なるタイトルの映画までつくったりしたことも寄与して、音楽ファンのコミュニティーでは、この言葉はほぼ市民権を得た。


トミー・テデスコとハル・ブレイン
トミーが手にしているのはダンエレクトロの12弦なんていう面妖なギター。


それはそれでけっこうなことだが、その過程で、これはあくまでも便宜的な名称に過ぎない、当時、そんなバンドが存在したわけではない、ということは忘れられてしまった。

キャロル・ケイ自身、テデスコの息子の映画に出演し、協力したので、もういいのかもしれないな、と思ったのだが、念のために彼女のウェブ・サイトを見たら、ランディング・ページの中段に、「Message」と銘打ち、レッキング・クルーなどというバンドは存在しなかった、あれはハルのでっち上げだ、という文言があった。

九十近くになったいまも、キャロル・ケイは闘う人であることをやめていない。仲間たちのプレイも容赦なく批判したように、ハル・ブレインの自己宣伝に利用されるのは、断固として拒否し続けているのだ。


だいぶお年を召してからのキャロル・ケイ。手にするギターはIbanez、エッ?


だから、ハル・ブレインやトミー・テデスコに関する番組ならいざ知らず、キャロル・ケイに関する番組では、たとえレッキング・クルーという名称を使ったとしても、彼女自身はそんなバンドの存在は否定していたことを付け加えてほしかった。

宣伝のための便宜を、歴史的事実として提示するのは、歴史の改竄である。

◎ギター・プレイヤーとして

テレビ番組は、あくまでもベース・プレイヤーとしてのキャロル・ケイに焦点を合わせていたが、彼女がフィル・スペクター・セッションでベースをプレイしたのは、番組でも流されたティナ・ターナーのRiver Deep, Mountain Highなど、ほんの一握りだけだろう。


Ike & Tina Turner - River Deep-Mountain High, 1967
名義もフロント・カヴァーの写真も夫婦になっているが、いつもアタシェに札束と拳銃を入れて持ち歩いているような亭主にうろうろされたら仕事にならないので、スペクターはアイク・ターナーをスタジオから締め出し、ティナひとりにして、ヴォーカル・オーヴァーダブをしたという。


しかも、このセッションは、四人のフェンダー・ベース・プレイヤーが同じラインをプレイするという異例のものだった、とケイは書いている。彼女が参加したセッションではあるし、音楽史的に重要な曲ではあるが、キャロル・ケイの代表作ではない。彼女がいてもいなくても、同じ音になっただろう。

そして、その前に、番組ではクリスタルズのDa Doo Ron Ronが流れたが、あのセッションでキャロル・ケイがプレイしたとしても、ギターであって、ベースではない。あの時期のスペクター・セッションでフェンダー・ベースをプレイしたのは、ほとんどレイ・ポールマンだった。


The Crystals - Sing The Greatest Hits
クリスタルズのDa Doo Ron Ronは45オンリーのリリースで、アルバム初出がたぶんこの編集盤。


彼女がスペクターについて書いたエッセイは面白かったが(彼女の家に来た時の話とか!)、音楽的なことに限ろう。もっとも重要なのは、noteの別の記事にすでに書いたのだが、スペクターは、彼女に、あのエピフォンを持ってくるのを忘れるなよ、とよく念押しした、というエピソードだ。

あのエピフォン!

もっともいい例はクリス・モンテイズのTime After Timeだと思うが、彼女のエピフォン・エンペラーは、ふつうのアコースティックに付きもののよけいな重さがない、なんとも軽快で素晴らしい音が出るのだ。スペクターがあの音を愛したというのは、よくわかる。

ここで思わずタイピングの手を止め、クリスのTime After TimeをFB2Kに載せて聴き惚れた。Just Friendsでも、エピフォンの生音がよく聴こえる。そちらも聴くに値する。


Chris Montez - Time After Time, 1966
日本では「モンテス」とされていたが、ご本人の発音は「モンテイズ」。ホーソーン・ハイスクールでは、ブライアン・ウィルソンやマイク・ラヴの後輩にあたり、よくいじめられたとか! クリスの趣味はジャズ・ギターで、キャロル・ケイのところにセッションをしに来たりしたという。


◎多重録音嫌いのフィル・スペクター

後年、ハル・ブレインが「レッキング・クルー」と便宜的に名付けた、ゆるやかなプレイヤー集団は、フィル・スペクターのハリウッド移転に伴って誕生したと見ていいだろう。だから、彼女の番組でフィル・スペクターへの言及があったのは当然だ。

しかし、ベースやギターのこと以外にも、気になった点がある。番組では、フィル・スペクターの特徴は多重録音である、としていた。これはどこから思いついたのだろう。

実態は逆だ。スペクターほど多重録音を嫌った人はいないと云っていいほどで、すくなくとも60年代にあっては一発録りの鬼だった。だから、腕のいいプレイヤーを大量に必要とし、あのプレイヤー集団が形成されたのである。多重録音をしたとみては、この因果関係がわからなくなってしまう。


ハリウッドはゴールド・スター・レコーダーのスタジオA
右端、フェンダー・ベースはレイ・ポールマン、ドラムズはハル・ブレイン、左端、なかばフレーム・アウトしているのはドン・ランディー、エレクトリック・ピアノはアル・ディローリー、アルの顔にほとんど隠れてキャロル・ケイ、さらにビル・ピットマン、トミー・テデスコらギターが四人。モニター・スピーカー(これがゴールド・スターの特徴)のあたりに不明のホーン・プレイヤーたち。ギターが四人いることに注意されたい。必要な本数は揃えて、一発で録るものだった。


ひとりのギター・プレイヤーにコードを弾かせて、それを四度繰り返し、ひとりのピアノ・プレイヤーにピアノを弾かせ、つぎはオルガンを弾かせ、さらにハープシコードを弾かせる、という多重録音によって、あのサウンドをつくったのではない。そんなことはありえない。

四本のギターが必要なら、たとえば、トミー・テデスコ、ビル・ピットマン、キャロル・ケイ、ボブ・ベインを呼び、三人のキーボード・プレイヤーが必要なら、ドン・ランディー、リオン・ラッセル、アル・ディローリーを呼んで、全員一緒にプレイさせ、一発でベーシック・トラックを録音したのだ。

◎Be My Babyセッション:論より証拠

この点に関しては、当時の録音について書かれたものを読んでもいいのだが、百見は一聞に如かず、記録された音を聴けば、ひと耳でわかる。

Phil Spector - The Gold Star Sessionsという、ブートCDセットがある。このヴォリューム1に、Be My Babyのテイク1から33まで、およびヴォーカル・オーヴァーダブのセッション抜粋が収録されている。この録音過程には、ハル・ブレインのドラミングの変化も記録されていて、非常に興味深いが、それはいまは無関係。


Phil Spector - The Gold Star Sessions
手前、コンソールに向かっているのはゴールド・スターのエンジニア、ラリー・レヴィン。のちにA&Mに移籍して、録音部チーフとなり、A&Mスタジオを設計する。右端、腕組みをしているのは、この時期、スペクターのアシスタントだったニーノ・テンポ。Deep Purpleという立派なビルボード・チャート・トッパーを持つシンガーが、何をやっているのやら! スペクターの魔力か。


このトラッキング・セッションを聴けばわかる。ヴォーカルとストリングス以外は完成しているのだ。リズム・セクションとホーン・セクションは全員がそこにいて、一発録りでつくっていた。

これを「多重録音」と云ってしまったのは、マルチ・トラック・レコーディングと混同してのことかもしれないが、たとえそうだとしても、マルチ・トラックはメイジャー・スタジオではごく当たり前で、スペクターの特徴などではない。あの時代でもすでに、シングル・トラック・レコーディングを見つけることのほうが難しかっただろう。

(ちなみに、重箱の隅だが、Be My Babyは3トラックのテープ・マシンで録音された。ホーンを含むベーシックはひとまず1トラックにトラック・ダウンされ、空いた2トラックにヴォーカルと弦を録音、最終的にモノ・トラック・ダウンしてリリースされた。3トラックによる録音では、これはごく一般的な慣行だった。3トラックでステレオ・ミックスにしたいなら、リズム・セクションをステレオで録音し、残ったトラックにヴォーカルと弦や管を押し込め、それをセンターに定位するしかなかった。)


The Ronettes - The Ultimate Collection
うちにある15種ほどのBe My Babyのうち、2種のみがステレオ・ミックスで、このベスト盤はそのひとつ。電気的なトラック分解をしない限り、元が3トラックだから、リアル・ステレオ・ミックスは、右、左、中央というステレオ・バランシング以外にやりようがない。このミックスでは、オーヴァーダブされたストリングスは、右に振られているため、間奏も右チャンネルのみ。


スペクターはバンドの鳴りを重視した。長いリハーサルによって、バンドが一体化し、ひとつの楽器として鳴るように、タイトに、タイトに締め上げてサウンドを完成していく、それがフィル・スペクターの手法だった。オーヴァーダブはヴォーカルやストリングスなど、技術的に避けられない最小限のものに留められた。

まだ、いくつか指摘したい点はあるが、いよいよ重箱の隅を顕微鏡で見るような話になっていくので、ここまででいったん終え、残った問題は数日後に書くことにする。

今回、彼女がプレイしたさまざまなトラックを再聴したので、できれば、彼女のすぐれたトラックのことも書きたいと考えている。

昔、ブログでキャロル・ケイについて山ほど書いたので、最後にそのリンクを貼り付けておく。

Songs for 4 Seasonsブログ、キャロル・ケイ・タグ

Harpers Bizarre - Anything Goes, 1967
つぎは、できれば、このアルバムのことにもふれたい。キャロル・ケイとハル・ブレインの素晴らしいプレイがたくさん聴ける。


「続・キャロル・ケイとフィル・スペクター」につづく)



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