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雪崩に遭遇した父と高級カメラは無事だったのか? 家族が語る遭難後の3日間

「お父さんが山から滑落したんだって。警察から電話がかかってきた」

2月のある日、姉から電話があった。父が長野のアルプスを登山中に、滑落したという連絡を受けたらしい。それ以外のことは何もわからないと言う。当時、私は妊娠5ヶ月。北海道で暮らしていたが、3日後には父と母のもとへ里帰りする予定だった。

一睡もすることができずに朝を迎え、旦那とともに千歳空港へ向かった。ところが、全国的な大雪のため、ほとんどの飛行機が欠航していた。辛うじて1便が羽田へ飛ぶことを電光掲示板で知り、慌ててチケットを購入し、なんとか東京へ飛んだ。空港から新宿駅まで行ってはみたものの、列車のダイヤも大混乱。そんな状況でも、特急あずさに乗れたのは奇跡だった。列車内でドコモのガラケー携帯を開くと「アルプスで雪崩。67歳男性、意識不明」というテロップが流れた。父のことだ。山の麓にある駅で電車を降り、警察署へ向かった。着いたのは夕方だったと思う。

警察署には母と兄がすでに到着していた。「救助ヘリが、悪天候のために飛ばないんだって」と、母が弱々しい声で言った。「ロープウェーの駅からお父さんが見えるらしいけれど」。仕方なく、私も警察署の一室で救助が進むのを待っていた。そのうち遅れて姉が到着した。

すると、父と一緒に登山をしていた人たちがやってきた。何度も何度も謝られた。何度も頭を下げている姿を見て、逆に申し訳なく感じた。気の毒に思った。だって、ひょっとしたら背負うべきでない罪悪感とともにこれから生きていくのかもしれないから。それに警察の取り調べを受けなくてはならないから。特に登山届けで「リーダー」として申請した人は徹底的に尋問されたらしい。雪崩に遭遇した事実があっても「事件」としての可能性がゼロではないと疑ってかかるのが警察の仕事らしい。リーダーにはとても迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ない。とにかく、父が雪崩に遭遇したのは彼の運命だったわけで、別に一緒にいた人たちのせいじゃない。

その日は結局、救助のヘリコプターは飛ばなかった。私たち家族は肩を下ろして、警察署近くにある古い旅館に宿泊した。昭和の匂いが漂う部屋のテレビから、7時のニュースが始まった。トップニュースは大雪のこと。そしてどうでもいいニュースに紛れて、父のことも報道されていた。

翌朝になり空を見上げると、ヘリコプターが飛べそうな天候だった。でも警察は、どこかの山小屋に宿泊中の登山者数名がなんらかの中毒にかかり救助要請が来たという。そちらを優先に救助にヘリコプターを飛ばすと言われた。父が救助されないもどかしさが胸に迫る。

警察署では私たち家族のために一室が用意されていたので、そこで待機していた。すると、父ぐらいの年齢の方が、遠方から3人ほどやってきた。高速道路は通行止めだし、公共交通機関がほぼストップしている中、なんとか裏技を使って長野までたどり着いたらしい。テレビのニュースで父親が遭難したのを知り、「いてもたってもいられなくなった。ヘリコプターが救助に向かわないなら私たちで雪山に登って救出する」と言うのだ。手にはピッケルとアイゼン、そして太いロープを持っていた。ずいぶん昔に国体の競技「登山」で父が監督をしていて、「その時にお世話になった御恩をお返ししたい」とのこと。もちろん、危険なことなので丁寧にお断りしたが、その気持ちは本当に嬉しかった。

さて、聞いた話によると、父は登山仲間5人と山の麓で合流し、ロープウェーに乗った。昼食を食べ、雪山を登り始めた。だけど途中で吹雪になり、視界の悪いなかで登山ルートを間違え、そこに大きな雪崩がやってきて、父を含む3人がのみ込まれ300メートルほど滑落した。ともに雪崩に遭遇した一人が助けようと父親のもとに駆け寄ったけれど、父は頭からの出血が激しく言葉での反応はなかった。しばらくの間、彼は心臓マッサージや人工呼吸を施していたが、次から次へと雪崩が襲いかかり、その度にまた雪に流され父のところに戻っては救命しようとした。ところが、その甲斐なく父の息が絶えてしまった。そして、身を切る思いで父を残して、雪崩のなかを下山し、ロープウェーの駅まで戻った。雪崩で山に取り残されたのは父だけで、他の仲間たちは一命を取り留めたとのこと。

一通りの説明を聞くと、ふと私は思った。

「あの高級カメラはどうなっているんだろう?」

「高級カメラ」とは、父親の自慢のMamiya 7という大きなカメラだ。重すぎるし、複雑そうな趣がある。フィルムは一般のサイズよりも随分大きく、とうてい私には撮影することができないと思う。人を遠ざけるカメラだ。というよりは、撮影者を選ぶカメラだ。少なくとも私はそう思う。

そのカメラを愛用していた父は、1940年に生まれた。戦後、父の父親、つまり私の祖父が四国の小さな集落でカメラの仕事をしていたので、私の父も中学生ぐらいの頃からマイ・カメラを持っていたらしい。当時としては、なかなか奇異な家族だったのだろう。なんせ食うだけで精一杯というのに、中学生が高価なカメラを趣味にしていたのだから。

父の自慢のMamiya 7というカメラは、父は山岳写真専用に使っていたので、普段は絶対に撮影することのない虎の子だった。家ではもっぱらカメラ収納ケース、つまり湿度や温度調節が自動で保管できる防湿庫に入れられていたので、どれほど父が大切にしているものかは一目瞭然だった。普段は安い小型カメラを使っていたので、私はMamiya 7を「高級カメラ」と呼んでいた。

私が20歳になった頃、父親がゴソゴソと「高級カメラ」を出してきた。成人式の晴れ姿を「高級カメラ」で撮影してくれるというのだ。家で「高級カメラ」を使うのは、私が知る限りではこの時が初めて。びっくり仰天した私の着物姿を、お決まりの玄関の前で、何枚も惜しみなく撮影してくれた。シャッター音にも重みがあり、耳に焼き付く。写真を撮られながら、私はいつか自分の子供、つまり父の孫の写真を「高級カメラ」で撮影してもらいたいと密かに思っていたのだ。

だから、警察署で遭難の様子を聴きながら、「高級カメラ」が気になってしょうがなかった。登山時には父親が必ず持参していた「高級カメラ」は、雪崩の衝撃で壊れていないのだろうか。もしくは雪崩で流されて行方不明になっていないかと心配でならなかった。

3日目の朝を迎えた。ようやく天気が回復し、早朝に救助ヘリが飛ぶこが決まった。私たち家族は警察署を出てロープウェーの終着駅に行き、そこの広場から見守ることにした。報道陣も集まっていた。広場には望遠鏡が観光客用に設置されていて、私は覗いて見た。すると父の姿が見えた。そばにはザックが置いてある。歩いて行けそうな程の近距離というのに、迎えに行けないのがなおさら辛かった。望遠鏡を覗き込んでいた私は、遺体が運ばれる時は覗かないようにと警察から指示を受けた。グチャグチャになった遺体を見てショックを受けないように、という気遣いなのだろう。

コバルトブルーの大空に、待ちに待った救助ヘリコプターが飛んできた。そしてヘリコプターが空中停止し、そのまま中からスルルルっとロープに捕まった救助隊が降りてきた。着地すると父親にロープを手際よく装着し、抱き抱えてヘリコプターに合図した。すると二人を結んだロープを垂らしたままヘリコプターは上昇し、雪山から警察署まで飛んで行った。雪崩発生から救助を待つ時間はとても長かったけれど、救助そのものはあっけなく短時間で終わった。

そして警察署で医者が父の死亡を確認。

この時から私たちは「遺族」と呼ばれるようになった。

警察署の駐車場にある小さな小屋に行くように言われた。きっと遭難死した人のための小屋なんだと思った。そこで父親と対面。どんな姿だったのかは表現しないほうが読者のためだと思う。ちなみに「死因・脳挫傷。即死」と書類には書かれていた。

父親が背負っていたザックも警察署で渡された。私は血まみれのザックを勇気を出して開けてみた。しかし、あの「高級カメラ」はザックにはなかった。きっと雪崩で流されたのだろう。ああ、孫の写真を撮ってもらうことがもうないんだと思うと、父が死んでしまったという事実を突きつけられた気がした。お腹の赤ちゃんは5ヶ月なのに。もうちょっと長く生きて欲しかった。

さて、警察は棺桶を用意してくれて、父を入れてくれていた。父を連れて実家に帰ることにしたが、霊柩車を頼むとなんと40〜50万もかかると言われた。兄は高額な請求書に腹を立て、霊柩車を断った。そして車に棺桶を乗せて実家までの500キロを運転するんだと無茶なことを言い始めた。どうやら遺体は荷物扱いになるらしく、医者の死亡確認を受けて書類もあるので、家族で運ぶのは問題がないらしい。

警察署を出発する時に、救助にあたった隊員たちが、裏の駐車場で一列に並んで私たちを待っていてくれた。遺族も一列になって並び深々とお礼をし、母は感謝の意を述べた。このように整列して救助隊員に遺族がお礼をするのが習わしだと、後になって知った。

ようやく私たちは出発することになった。ところが事情があって、言い出しっぺの兄は棺桶入り車を運転せず、代わりに姉が運転した。長野の高速道路は山を切り開いて作られているので、曲がり道が多い。カーブを曲がるたびに棺桶も揺れる。急な坂道も多いので、棺桶が車内でゴロゴロ動きまくっていた。だからかなり速度を落として走行した。そしてサービスエリアで休憩をしていると、通りすがりの人が不思議そうに車の中を覗いている。まさか誰も自家乗用車の中に棺桶が乗っていて、その中には死体があるとは思ってもいないだろう。お茶目な父親は、きっと棺桶から突然飛び出して人々を驚かせたいって、ムズムズしているに違いない。

7時間ほどの予定が、ゆっくりと運転したので12時間ほどかかった。ようやく家に着いたのは真夜中だった。家の前で車をいったん止め、棺桶を開くと、硬直して苦しそうだった父の顔が、穏やかに微笑んでいたのには驚いた。道中、母が葬儀場を手配してくれたので自宅では車から降りず、そのまま近隣の葬儀場へと向かった。

深夜0時ごろに葬儀場に到着。凍るような寒さの中、驚くほど大勢の人たちが葬儀場からあふれ沿道に立ち、父の到着を待ってくれていた。拍手が湧き上がり「おかえりなさい」という沢山の声が響いた。こんなにも多くの方に愛された父だったというのを強く実感した。それまで泣けなかった私の頬に、初めて大粒の涙が流れてきた。

それから数ヶ月後、暑い夏の日に私は第一子を無事に出産した。実家で父の遺品を整理していたら、カメラ収納ケースの中にあの「高級カメラ」が泰然と鎮座しているではないか! なんとあの日、父はアルプスに持参していなかったことが判明。なんだか狸に騙されてしまったような感覚で、そっと「高級カメラ」を手にした。この父の遺品を大切にしていこうと思った瞬間、隣にいた私の母は「『高級カメラ』はいらないから質屋に出そうかしら。高く売れるかしら?」と言ってきて、私は絶句した。そんな12年前のお話は、これでおしまい。






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