心に留めておく程度の問題

最近になって、いや昔からか、死に触れる機会がよくある。
幸いなことに現実世界の死はあまり経験していないのが不幸中の幸い。
私はインターネットに生きてインターネットに死んでいくと言ってもいいほど電脳世界に囚われた愚かな人間だ。
インターネットというのはそれはそれはとても色んな人間がいる。
自分の才能を発信する者。
心に余裕が無い者。
何かを求めてインターネットに居る者。
無意味に特に何もしない植物のような者。
そのような人間の中に、死にたい者が幾らかいた。
私と一方的に関わりがある人、情報の海に流されて遊泳中の人間たちに見られる全く関係無い人。
人が死んだ時私は何故か筆を握ってしまう。
メモ帳を開いて文字を打ち込んでしまう。
その人の死を無駄にしないという本能なのだろうか。

今年の2月に自殺配信をした「minmin」というTwitterユーザーに向けて私はnoteを書いた。【自殺配信】というタイトルで。
https://note.com/452786411/n/n10a7db7e7a84
これは私の予想を遥かに凌ぐほど拡散され、相当数の評価を得た。
その時私はふと思った。
「偽善だとしても、私は彼女の死を無駄にはしなかったんだ」と。

全く知らない人が死んだ時ですら、人間の感情はこんなにも変化する。
それが同じような共感性を持っていても持っていなくとも。
たまたま「minmin」は私と同じような共感性があった。

もし、全く私と似た共感性がない人間がまた1人インターネットの中で命を絶った時、私は何かするだろうか。
何もしないかもしれない。だがその人の死は私の脳内、体内どこかしらに必ず刻み込まれるだろう。
もしその人の記憶を私が忘れ去ったとしても、その人の死は私の感受性、経験値、想像力、色んな部分を創ってくれる。
それでいいではないか。

死にたいと言う人を否定はしない。
その人が死んだところで何も無くなってしまうわけでは無いのだから。
でもいちばんは誰も死なない世界が良いってだけの話だ。

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