2019年ベストアルバム補完ミドルレビュー集2: Kel Assouf, Kim Gordon, The National, Bonnie ‘Prince’ Billy & Bryce Dessner & Eighth Blackbird, Iggy Pop, Visible Cloaks & Yoshio Ojima & Satsuki Shibano, Uboa

2019年ベストアルバム4: 25位〜1位2019年ベストアルバム3: 50位〜16位で取り上げたアルバムから前提の説明にある程度文字数を要する等して、やや長めの文章になったが1記事にするほどでは無い、という文字数で落ち着いたレビュー集。最初からお目通し頂きますと有り難く存じます。

45. Kel Assouf - Black Tenere

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サハラ砂漠を旅する遊牧民トゥアレグ族の面々によるハードロック・バンド。
Funkadelicの名盤『Maggot Brain』を思わすジャケがインパクト大。これは何もトゥアレグの暮らす砂漠のイメージを奇妙に表現しただけでなく、実際ファンカデリックへのオマージュも込められているのだろう。ファンカデリックはその名盤でJames BrownやSly & The Family Stoneが礎を築いたファンクとLed ZeppelinやBlack Sabbathらのハードロックを融合させた。さて、トゥアレグのギターバンドと言えば、00年代には元ZEPのRobert Plantらの太鼓判によってTinariwenらが”砂漠のブルース”として注目を集めたが、このKel Assoufによる音楽はファンカデリックにとってのJBやスライをTinariwenに、つまりファンクを砂漠のブルースに置き換えた上でハードロックをプラスしたものと言えるだろう。

アフリカのロックに注目している方は既に本作を2019年のハイライトとして数えているだろうし、一筋縄では行かない音楽を求める向きにもここまでの簡単な説明である程度食指を伸ばしていただけるかと思う。しかし、HR/HMを主な領域とするリスナーにも「ああ、よくある変わり種ね」としてスルーは禁物だと伝えたい。まず単純にハードロックとしての躍動感が非常に優れていて、「Tenere」「Ubary」といった楽曲を聴けば、大きなフェスでトリの前を務め、トリを求めて場所取りを兼ねて居た客すら暴れ回らせる事が出来るはずとの思いを共有してもらえるだろう。
そして「America」「Amghar」「Ariyal」といった楽曲で聴けるギターとベースの関係性。ZEPを基調としつつ(そして非常に深い研究の跡を感じさせつつ)、それを一歩先に進めようという意識なのか、トゥアレグの音楽のグルーヴ感とのバランスを追い求めた結果としてそうなったのか、ハードロックのタイムラインにある程度様式美を守りつつアンサンブルの在り方に新鮮味を与えるアプローチとして…大きく出ればハードロックの未来を担うアプローチとして聴く事も出来る。

もちろんトゥアレグによるロックのファンも満足させるTinariwenから受け継いだギターリフもあれば、アフリカ大陸全般の音楽を好む向きや新鮮なグルーヴを追求しているDJにも、アフリカンなクラップのパターンとハードロックらしいドラムの絡みが興味深く聴けるだろう。更には芳醇なリヴァーブを含んだギタープレイと優しく暖かい土着的な歌メロがアンビエント的に響くトラックもある。あらゆる音楽ファンに一度は聴いて欲しい一枚。

37. Kim Gordon - No Home Record

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オルタナティヴ・ロックの祖たるノイジーなロックのレジェンド、Sonic Youthの元ベーシスト/ヴォーカリスト。バンド解散後、ファン心理に複雑な描写も話題を呼んだ自伝を経て完全単独名義としては初のフル・アルバム。
自伝がファン心理に複雑だったというのも、恐らくバンドを知る殆どの者が抱いていた”クールなアヴァンギャルディスト”とでも言うようなイメージが重荷であったと告白し、積年のそれを精算せんとばかりにありふれて生々しい生活描写で上書きしたからだ。”生活”から逃れられる者など存在しない。ロックスターも前衛芸術家も同じ事だ。そんな2015年の自伝は、今思えばポップスターがメンタルヘルスケアの重要性を第一に訴える時代に向けての曲がり角だった。

では”重荷”を捨て去ってのソロは、自伝の描写のように地に降りてきて(地下から這い出て、と言うべきか)通俗的な生活感に近づいたのかというと、アーティストとしてはあくまでクールさを貫く事を冒頭で早速宣言する。それも強烈なサブベースを伴ったミュータント・エレクトロ的サウンドによってだ。「バンド時代の事は忘れてくれ」という声明にも聴こえてしまいつつ、暴力的でありながらも快活なエネルギーに圧倒されて疑問を差し挟む余地を奪われる。
僅かな曲間に「ああ、バンドとは決別したのだな」という感慨を持つや否や「結局ソニック・ユースやんけ!」というNo Waveギターが2曲目冒頭から登場。まあ結局昔を捨てたわけでは無いのだ。自伝でだって別にバンド時代の全てを悪し様に描いているわけじゃない。

…わけじゃない、のだが。トラップのいかにもそれっぽいシンセ・リフをなんとカリンバで再現するという「これ本当に元ソニック・ユースの人から出てきたアイディア?」と疑いたくなるトラックが、これまた「こんなん昔からやってましたけど」とでも言いたげな板に付いた振る舞いで鳴らされるトラックも挟んで随所にソニック・ユースのノイズロックを再演し進むと、「ソニック・ユースの9割以上がこの人のものだったのではないか」という疑惑さえ浮かんでくる。
私も気づけばそこそこ年季が入ってきたロックファンだ、ソニック・ユースの偉大な功績を否定など出来るはずも無いのだが、”重荷”とは自伝で著した世間の目以上に、自覚している以上に、バンドそのものだったのではないかと思ってしまうのだ。そのくらいのここで鳴らされるノイジーなロックは”ソニック・ユースのハイライト現代版再ミックス”の様相を呈していて、不覚にも「自伝で告白した(かつての公私共のパートナー)Thurston Mooreとのトラブルが起きるずっと前から独立してソロを作っていれば今以上の名声を得ていたのでは」なんて思いさえ浮かぶ。それくらいノイジーなロックは魅力的で、一方でバンド時代には考えられなかったアップデートも持ち込まれている。あれやこれやを勢いと熟練の技、両輪で捻じ伏せる快作。

27. The National - I Am Easy To FInd

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最早USインディ・ロック界における重鎮とすら呼べる地位を築いたブルックリンのバンド、8作目。
幾つか回答が出揃ったという事か、直近数年に比べ19年は”ロックバンドと低域”にまつわるトピックが話題になる事が減ったように思う。だが依然スタンダードな編成のロックバンドにとって、超低域を強烈に押し出すエレクトロニック系とどう付き合うか、というのは大きな課題の一つ。この作品もその点に着目されて然るべきではあろう。
打ち込みと時に絡み合い時にスペースを譲りながら、あくまでアコースティックな音を土台にして超低域を増したドラムがその中心だ。録音のJonathan LowとミックスのPeter Katisは非常に素晴らしい仕事をしている。
そしてイントロやブレイクにおいて、リズムトラックのみになるパートや逆にループとして抜けそうなウワモノだけのパートがしばしば聴けるのは、「俺たちをサンプリングしてくれ」というエレクトロニック・プロデューサー達へのメッセージにも思え、制作の上でそういったエレクトロニック系を研究したであろう証拠としても聴こえる。

しかし、そもそも以前から彼らはそのドラムも含め、正式メンバーの担当楽器さえゲストプレイヤーにも預けていた。つまりこと録音作品におけるThe Nationalとは”ロックバンド”というよりも”作詞編曲集団”という色合いが強く、トレンドを意識したり挑戦的なサウンド面に関しても、あくまで”ソング”をどう響かせるかが主目的なのではないか。

今作はとりわけ歌詞が良い。David Bowieのバックで知られるGail Ann Dorseyや旬のSharon Van Etten、アイルランドのマルチタレントLisa Hanniganら多数の女声ヴォーカルを呼び、(一部端的にロードムービー的…直接的に旅を思わせる歌詞もあるものの)都市や郊外における恋愛関係の機微を主として、人生という営みそのものを、生活という行為そのものをひとつの”旅”として描くような筆致がひたすら美しい。
それを前述のエンジニアによる素晴らしいサウンドのもと、音楽的ブレインBryce Dessnerが言葉の持つドラマを美しく繊細に広げ、確かな力を持つ演奏陣が丹念に表現する。こう書くとシンプルだが、微に入り細に入り素晴らしい技術と美意識が通底されていて、この時代に歌でドラマを届けるにこれ以上のプロダクションがあろうかという完成度に至っている。
一度このアルバムに心奪われた者はきっと人生の折りに触れ聴き返し、その度このアルバムは違う何かを教えてくれるだろう。Bob Dylan、Neil Young、Joni Mitchell…そして21世紀に入りFrank OceanやLana Del Reyらが吹き込んだ新しい流れにも目配せしつつ、北米大陸が連ねてきた美しきソングブックの血脈を更新した大傑作。

23. Bonnie ‘Prince’ Billy, Bryce Dessner & Eighth Blackbird - When We Are Inhuman

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フォーク〜アメリカーナSSW Bonnie ‘Prince’ Billy、The Nationalの一員でポスト・クラシカル作曲家としても活動するBryce Dessner、現代音楽〜ポスト・クラシカルの領域で活動する室内楽団Eighth Blackbirdによる連名作品。
内容の大枠としては上述のごく短いバイオグラフィーをそのまま合わせたような、トラッド・フォークと現代音楽〜ポスト・クラシカルの融合を試みたもの。ここでのフォークは実際取り上げたトラッドの2曲に現れているように特にマーダー・バラッドと称される殺人を取り扱ったもの(ブライスとEigth Blackbirdは以前にも「Murder Ballades」という組曲を作っている)で、ここでの現代音楽とは冒頭のオリジナルのイントロがSteve ReichやPhilip Glassのような典型的なものであり最終曲がダンサーでもあった作曲家Julius Eastmanの作品であることに現れているようにミニマリズムにフォーカスしたものである。
ミニマリズムにより顕著ならば、トラッド・フォークの形式もまたVerseChorusVerseといった構成として一定のブロックを繰り返すという(現在のポップにも通ずる)形にそれが現れていると言える”反復”。言い換えれば”繰り返す事”…それはつまり生きとし生けるもの全ての営みが必然的に逃れ得ぬ事。一方で遍く自然の事象は”全く同じ繰り返しはありえない事”からも逃れられない。スティーヴ・ライヒがそこにこそフェージング技法発展のヒントを見出したように、肉体による楽器の演奏も同じだ。その”繰り返す事”と”全く同じ繰り返しはありえない事”の同居という、あらゆる事象の根源的な部分に迫るようなコンセプトが、本作では繰り返しそして毎回違う形で提示される。

トラディショナルなマーダー・バラッドの演奏における非常に奇妙な音の差し引きがあるアレンジメントは、”奇妙な音の差し引き”それ自体がテーマ・フレーズであるかの如く形を変えて繰り返される。そんな奇妙さを伴った文字通り”民衆の歌”としてのフォーク・ソングと交互にハイ・カルチャーな風合いの楽曲が現れるが、そういった楽曲の作者はどれも、言わずもがな本職ロック・バンドのブライスによる新曲をはじめとし、インドのグールーやアフリカン・アメリカンのダンサーといったハイ・カルチャー≒白人の上流階級、というイメージと異なる者達である。一方でそのどれもが労働者に広く歌われる事を意図した物では無いのも明白な事からトラッド・フォークと対比的な構図で見る事も可能ではあるが、”音楽の正史”的な見方に対しーー結局の所ハイ・カルチャー的視点からしか更新出来なかったかつての諸々現代音楽運動をもそれに含めてーー更新する余地を突きつけるものであろう。

そんな流れの行き着く場所として鳴らされる先述のダンサーでもあったJulius Eastmanの作品「Stay On It」は圧巻だ。バロックなフレーズの6拍子による反復がじっくりと時間をかけて音楽的建築物を構築すると、ライヒやグラスのような典型的ミニマルに転じたと思った途端にフリー・ジャズ的カオスへ突入する。最終的にボックスの中での物量勝負というカオスをしかけるためにDFラインのビルドアップやピッチを横断するサイドチェンジをシステマティックに構築するミハイロ・ペトロヴィッチのフットボールが最も上手くハマった時のような美しさがある。ミニマル・ミュージックの喩えとしてことに日本での受容としては最も縁遠そうなフットボールを持ち出したのは何も私の趣味だからだけでは無い。フットボールの戦術進化とは再現性=繰り返す事、と対応力=全く同じ繰り返しはありえない事(を前提にする事)の鬩ぎ合いで紡がれてきたものなのだから。

15. Iggy Pop - Free

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パンクのゴッド・ファーザーがジャズ・トランペッターLeron Thomasを招き彼のペットと鍵盤を背景にジャズに接近した作品。イギーがジャズに接近する事自体は実はこれがはじめてでは無い…The Stooges時代や「Lust For Life」などのヒットを飛ばしたDavid Bowieとの蜜月時代しか知らないとあまりピンとこないかもしれないが…
そう、David Bowie。本作はイギーにとって盟友であり恩人とも言えるボウイが地球を去ってから録音されたものとしては初めての単独ソロ作だ。これまでのイギーのジャズへの接近はシャンソンなどを交えて欧州経由な解釈が多かったが、本作は近年のUSジャズを強く意識している。
となると、やはり思い出さずにいられないのはMark GuilianaやDonny McCaslinを従えたボウイの(地球での)最終作『Blackstar』だ。「Somali」はまさに友がこの地球に残せなかった『Blackstar』の続きを綴るようなサウンドでロードムービー的に孤独な旅路を歌う。音だけで年季を経た背中が見えるような佇まいがたまらなく胸を打つ。ボウイの影をチラつかせながら進み、「Glow In The Dark」で現代ジャズとロックの理想的なマリアージュを見せると、ムーディなアンビエント「Page」の”We’re only human, no longer human”という”らしい”ラインをダブルトラッキングしているイギーの後ろに不敵に笑うボウイが浮かぶ。

アルバムはそこで一度ボウイとの旅に区切りをつけると、ラスト3曲は(ほぼ)ノンビートのポエトリーリーディングが続いて締めくくられる。Lou Reedが綴った土地を失った人々の悲しみと強さを描いた「We Are The People」、自作で怒りと生命力を滾らせる「The Dawn」もひたすらに素晴らしいが、クリストファー・ノーランの名作『インターステラー』でも引用されたディラン・トマスの詩を用いた「Do Not Gentle Into That Good Night」が白眉。”あの快い夜の中へ、おとなしく流されてはいけない / 消えゆく光に向かって、怒かれよ、怒かれよ”と詠う72歳の老人の強さと美しさに我々が学べる事はまだまだ多い。

14. Visible Cloaks, Yoshio Ojima & Satsuki Shibano - FRKWYS Vol. 15: Serenitatem

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80年代はここ日本におけるそれを中心としたニューエイジ再評価/リバイバルとVaporwaveの交差点に立つポーランドのユニット、Visible Cloaks。ニューエイジリバイバル勢の中でもとりわけ日本の音楽からの影響と敬愛を公言してきた彼らが、まさにその音楽の先駆者たるシンセサイザー奏者/アンビエント作家の尾島由郎、印象派を中心としたクラシック音楽のピアニストでとりわけアンビエントの原点=家具の音楽の提唱者たるエリック・サティの演奏で知られる柴野さつきという二人の日本人と共演した作品。尾島由郎は2019年において最も話題になったコンピレーションのひとつ『Kankyo Ongaku』にも収録されている。

名義上はヴィジブル・クロークスが先頭になっているが、本作は彼らの所属レーベルRVNG Intl.の共演企画シリーズFRKWYSの一環であり、これまでの同シリーズの作品は全て若手側が名義の先頭になっているため、企画自体の旗振り役がヴィジブル・クロークスなのかレーベルなのかベテラン日本人のどちらかの逆(?)オファー(これ以前にも尾島由郎と柴野さつきは共演作があるので二人揃ってのオファーの可能性もある)なのか、実際の制作において主導が誰なのかは調べてもわからず特定は出来ないが、それぞれの過去作と比べて結果的な音として誰の名前を主導にするのが相応しいかと考えても、ヴィジブル・クロークスが前に出るのが自然な仕上がりと言える。

しかし、ヴィジブル・クロークスのディスコグラフィで考えると、過去作も未だ色褪せぬ素晴らしいものであることは留意しつつも、本作は飛躍的に深みが増している。それをもたらしたのは誰の存在が一番大きいのか。無論ヴィジブル・クロークス=Spencer DoranとRyan Carlileが2017年の前作『Reassemblage』から積み上げたであろうものにもリスペクトを払わねばならないが、甲田益也子ら幾人かのヴォーカルを招いてきた点を除けば肉体的な生音を排した音楽を作ってきた彼らにとって柴野さつき=優れたアコースティックピアニストという肉体性を獲得した事はかなり大きいはずだ。
エレクトロニクスが非人間的でアコースティックが人間の暖かみがある、などというのはカビの生えた見方だけれども、一方でそれぞれでしか表現できないものがあるのも事実で、故にそれらを組み合わせないと出来ない表現もまたある。その理想がどのような形かは様々な意見があるだろうが、エレクトロニックな楽器がベロシティのコントロールにも一苦労一手間かけていた時代がとうに過ぎ去った今、エレクトロニクスでしか表現できない”音響”、アコースティックでしか表現できない”音響”にフォーカスする事が最も刺激的なアプローチだろう。

クラシカルの基本である楽典に則った形や、ジャズの所謂バークリー・メソッドは和声(コード)やメロディに緊張と緩和を繰り返させて進行する。ここにある楽曲は譜面に起こせばそれらに則ったものでは無いが、サウンド/音響が和声やメロディの役割を担い、むしろ和声やメロディはそれに付随するものであるという逆転現象が起きている。そういった構造故にアンビエントやエレクトロニカにも理解がある柴野さつきが参加している意味はより大きくなるのだ。音響の美しさに浸れる1枚。

12. Uboa - The Origin Of My Depression

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ダーク・アンビエント、インダストリアル、スラッジ・メタル、ドゥーム・メタル、スクリーモ、ミュータント・エレクトロ、そういったエッジーなジャンルを網羅に近い形で横断するオーストラリアのアーティスト、Uboaの6作目。

プライマル・スクリーム療法という心理療法がある。プライマル・セラピーあるいは日本では原初療法とも訳されるが、知らずともこれを読んで気づいた方もいるだろう。そう、Bobby Gillespie率いるUKのバンドPrimal Screamの名前はこれから取られた。
しかし、ロックシーンとプライマル・スクリーム療法が交差するのはこのバンドの結成が初めてでは無い。The Beatlesを解散させたJohn Lennonは、実質的な初のソロ作『Plastic Ono Band (ジョンの魂)』を作るにあたって、この療法を編み出した当人であるArthur Janovの元でセラピーを受けている。その名前に反して必ずしも痛烈な叫びを絞り出す事が必要条件な療法ではない模様*だが、『ジョンの魂』の冒頭を飾る有名な「Mother」におけるシャウトは、文字通り”原初の叫び”の様相を呈していた。

このUboaのアルバムは、冒頭で並べたジャンル名を把握しておりかつ『ジョンの魂』を聴いているリスナーになら、”先述ジャンル群の音を代わる代わる並べ立てつつ、「Mother」のトラックタイム4分あたりからの叫びが40分間延々続くアルバム”だと伝えられるだろう。それはあまりに悲痛な時間で、過激なサウンドを愛好するリスナーからも受け止めきれない者がいるかもしれない。
更に言えば『ジョンの魂』でジョンは「God」において”己とヨーコだけを信じる”と表明し、最後に淡々と母の死を懐古して区切りを付けた。一方ここでのUboaは何もかもを絞り出すような40分の果てに未だ”青春は無為だった”としてアルバムを締めくくる。それは最後に吐き出すべきものだったのか、どれだけ叫んでも何も変わらないという嘆きだったのかはわからない。

しかしUboaが確実に成し遂げたのはこの作品を世に放ったという事だ。この悲痛さをもってしか寄り添えない悲痛さを抱えている人々はこの世界に確実に居て、その誰か一人にでも届いたのならそれは途轍もない意味を持つ。”Teenage Wasteland”の片隅の片隅で最も力強く根を張る雑草の音。

* : 率直な所、ジョンほどの著名人が初期段階に受けたにも関わらず内実の情報が非常に少なく、ヤノフ博士の著作の邦訳に至っては1冊しか出ていない。その辺りを鑑みるに、医学界から少なくとも非常に重要なものだとは見做されていないのだろう

結構ギリギリでやってます。もしもっとこいつの文章が読みたいぞ、と思って頂けるなら是非ともサポートを…!評文/選曲・選盤等のお仕事依頼もお待ちしてます!