米津玄師 - 馬と鹿: 表題曲は捨て置け!ほか2曲を聴け!

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馬と鹿

まず肝心の表題曲に関する率直な印象を言えば、個人的にはあまり好きでは無い。
米津玄師というアーティストの事は所謂ボカロPの”ハチ”名義で話題になって少しした頃に認知したが、その頃からJ-POP文脈のメロディでありつつもアレンジのセンス、特にギターの絡ませ方にハードコア/オルタナ〜エモ文脈への深い理解を感じ好印象は持っていた。だが当時から米津玄師名義でデビューしてしばらく経っても、彼の音源の全てを漏らさず味わいたいという程の思い入れは持てずにいた。正直なところ”ハチ”時代から米津玄師名義初期においては、オリコンチャート上位を中心とした”若者ウケする”とされるゾーンの音楽的平均水準に対し不満が強かったので、そんな中では音楽的造詣の深さを感じるという相対的な意味合いからの好印象という面も大きかったのだ。
それが決定的に変わったのは割と最近のこと。昨年のシングル「Flamingo」だ。これはトラップを通過したクールなビート感覚とサザンオールスターズ「愛の言霊」の頃の桑田佳祐を彷彿とさせるスリリングな譜割りと詞作のヴォーカルが実に切れ味鋭く完璧な1曲と言っていい。この曲にググッと惹き付けられ、さらなるダメ押しを喰らったのは本作にも収録されているが配信限定で先にシングルが切られていた「海の幽霊」。この曲に関する詳細は後述するが、これにより米津に対する私的な印象は一気に日本で最も注目すべきアーティストとまで高まった。

と、期待値が最高水準まで来た中のこの「馬と鹿」はスッキリしない出来だ。
いや、この曲とて米津の造詣とセンスはそれなりに反映されてはいる。腰を砕くようなBメロの譜割りや「海の幽霊」に引き続きダイナミックに響くサブベース等は、少なくとも私的には数年前より質においてもバラエティにおいてもグッと高まったと思っている現在のヒットチャートにあってなお耳を惹くトリッキーさだ。しかし、メロディ展開が所謂J-ROCK、BUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONあたりで定型化したそのフォーマットをあまりにそのままなぞり過ぎているように思える。構造的にはJ-POPの典型を著しく逸脱したものでは無いにも関わらず商業面でもグローバルな展開の可能性すら匂わせ出した近作から、一気にドメスティックに、「Flamingo」以前に揺り戻されてしまった印象がある。
未だアルバムというフォーマットに思い入れが強い身からすると「Flamingo」と「海の幽霊」(および「パプリカ」)が共存するはずの次のアルバムはいったいどんな物になるのだろうかと期待が強かったが、この曲の内容および、配信限定とはいえ先にシングルとして切られていた「海の幽霊」をカップリングとして収録した事で、そっちはアルバムには収録されないのだろうかという思いとともに少し先行きへの不安が強まってしまったのが正直な所。

海の幽霊

とはいえ、配信のそれも圧縮音源でしか聴けなかった「海の幽霊」がより高音質で聴けるだけでもこのシングルの価値は大きい。無論ヴァイナルや24bitデジタル(所謂ハイレゾ: 注1)のようなより高音質のフォーマットを出してくれるに越したことは無いのだが… 
それはともかく、名曲だ。最も大きな特徴はそのプリズマイザーサウンドのフィーチャーだろう。プリズマイザーとは主にヴォーカルに施すことを目的としたエフェクターの一種。Francis And The Lights『Farewell, Starlite!』の制作中に開発されたとされ、認知を一気に広げて"ヴォコーダー”、”オートチューン”といったこれまでのエフェクトと同じように、本来は固有名詞であるその名が類似のエフェクト全般を指す一般名詞へと着々と変わりつつある次代のヴォーカル・エフェクト定番の最右翼だ(注2)。
米津がこのようなサウンドに手を出すのは初めての事では無いがここまで大々的に使用した事は無く、この完成度に至るにおいては実践的経験値の蓄積よりもBon IverThe 1975といったフランシス・アンド・ザ・ライツ以降にプリズマイザーサウンドをアルバム全編に使用してきたアーティストの作品をかなり丹念に研究した結果の方が大きいのではなかろうか。特にボン・イヴェールに関しては、プリズマイザー導入以前の作品『Bon Iver』の冒頭を飾る名曲「Perth」に本楽曲サビ導入部のメロディと類似した部分があり、かなり意識的なオマージュであるとさえ言える。
そんな面々を研究して掴んだキモはプリズマイザーを”どのようにかけるか”に留まらず、”どこで使わないか”というのもまた重要なポイントだろう。いや、本楽曲においてプリズマイザーがかけられている部分のサウンドの練度も凄まじいレベルに達してはいるのだが、むしろ作編曲の流れに沿ってエフェクトのプレゼンスが強まったり弱まったりするそのダイナミズムこそが最も技巧的に優れている部分かもしれない。

「海の幽霊」は冒頭から強烈にエフェクティブなヴォーカルが炸裂する。この時点ではエフェクトを通していない”素”(注3)のヴォーカルがどれなのか掴み難いほどだ。
そしてビートが切り込むと同時に楽曲がBメロに展開すると、ヴォーカルも少し装飾を落として”素”の声とオクターブ下で軽く歪んだ声とを並走させる。
さらにストリングスのトレモロが煽ってドラマティックなサビに辿り着いた所で、センターに”素”の声を配置してバックヴォーカルはステレオの左右でリードを包み込むようなパンニングを施されるというひとり多重録音のセオリー的な音像にようやく落ち着く…
しかしセオリーと言ってもそれはステレオにおける配置の話であって、ここで施されているエフェクトは一般的なバックヴォーカルに施されるそれとは程遠い、プリズマイザーのかけ方としてもかなり強い過激なサウンドなのだから、結果的に広がっているのはありふれたポップスとは全く異なる音響風景だ。
少々あざとくさえあるサビ前のストリングスの煽りから開ける煌びやかなオーケストレーションと、センターの確かな技術を持ったヴォーカルによるポップなメロディ。オーケストラと共にヴォーカルを取り囲む調性を危うくさせるギリギリまで攻めたプリズマイザーと、ウーファーを震わす強烈なサブベース。いかにもポップな要素と、それとは時に水と油のようにも思えるアヴァンギャルドな要素が見事に溶け合っている。
このサビ開始2小節の美しさで感涙ものだが、米津の声はビートが入る所から数えて3小節めに一瞬エフェクトを振り払って曲中初めて"素"の声一本の姿を見せる。ここでググッと立体感が増すのは、まあここまで触れてきた要素も全てエンジニアのスキルあってのものではあるが、ミックスの小森雅仁最大の見せ場だろう。しかしその素顔は一瞬で再びプリズマイザーの波に飛び込む。そしてまたしばしその時間が続き、7小節めで再度プリズマイザーの装飾を脱いで、ここでようやくありふれたポップスめいた音像に着地。

J-POPやJ-ROCKと括られるアーティストが"攻めた"要素を取り入れた場合にありがちなのは、イントロ、アウトロ、間奏/ソロパート、ラップパート等、特定のセクションには確かに先鋭的な要素が置かれている一方、サビなどは結局の所流行りのポップスによくある範囲で済まされてしまう、という形だ。この手法自体を批判するつもりは無い。これはこれで攻撃的なセクションとポップなセクションのミスマッチが脱構築的な面白さを獲得する場合もあるし、どこかの魅力がどこかのイビツさを覆い隠すバランスで全体に良い印象が勝つ場合もある。ただ、単純に数として日本のアーティストに「"攻める"部分と"安定したウケ(≒ポップ)"を狙う部分とを切り分けて考えよう」という発想が多過ぎる。一方この「海の幽霊」は、王道的ポップと攻めたサウンドアプローチが少しずつ形やバランスを変えながらも常に同居して展開していくのが素晴らしい。
この、違う価値観の並走、とでも言い換えられよう構造は、主題歌として使われた渡辺歩監督映画『海獣の子供』と併せて考えるとまた魅力が増す。五十嵐大介の漫画を原作としてスタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』を少しミクロに(テーマは人類の進化から思春期の成長に、舞台は宇宙から深海を含めた地球の海に)仕立て直したようなこのアニメーションは、思春期の疎外感からスタートして人のようで人ならざる存在との出会いと別れを描いた作品だ。こうしたテーマを扱って更に素晴らしい完成度を獲得した映画の主題歌には、楽曲単体としては成功例であっても、”攻めた”…言い換えれば”そこをあまり押し出すと売れない”という要素を、ポップ…言い換えれば”売れる計算の立つ”要素と切り分けてしまうアプローチは適さないだろう。それは思春期の疎外感を受け止められないし、顕然と存在するボーダーラインを乗り越えんとする行動のサウンドトラックにもならない。その点「海の幽霊」のサウンドアプローチは完璧だ。プリズマイザーの使い方以外にも、サビ4小節めで耳を惹き聴き手の調性感覚を狂わせるテープストップ効果のような下降するポルタメント等随所に違和感を与える音を散りばめているが、それがむしろなにか疎外感を受け止めてくれる異質さとして響く。

映画のトレイラーで聴いたときから惚れ込んだ本楽曲だが、正直に言えば当初は歌詞の一節”大切なことは言葉にならない”に不満があった。言葉にならない事をそのまま”言葉にならない”と歌ってしまうのは不粋ではないかと。しかしサウンド面を深く聴いていく事でここに対する違和感も和らいだ。”言葉にならない”とシンプルに歌ってしまうのは、言うなればサウンドが全て説明出来ているはずだという自信の現れなのだろう。
そもそも作詞家としての米津玄師は、本楽曲でも2番Aメロあたりにその片鱗が垣間見えるように、基本的に通り一遍な言葉を避けたがる作詞家だ。椎名林檎あたりからの影響もあろうか、率直な所たまにベタを避け過ぎてしまうあまり逆にスベってしまう事すらある。そんな米津が歌った”言葉にならない”とは”(サウンドで説明しているからもうこれ以上)言葉にならない”という素直な思いだったのではないか。一聴して耳目を惹く凝った言葉遣いや、あるいは言葉がいらない事を表現するために不自然な歌メロの空白を作ったり唐突にスキャットにするなどしてしまうと、逆にリードヴォーカルにウェイトが寄り過ぎてサウンドとのバランスが崩れてしまう。
ベタな言葉選びで歌謡曲〜J-POPの文脈に自ら埋没する事で耳をサウンドにフォーカスさせる。意図してかせずかはともかく、それが最適な”言葉”だったのではないかと今では思える。発表から数ヶ月して印象の変化を見つけたこの曲を、私はきっとこれから先何度も聴き返すだろう。そして5年後10年後と、その度に違う姿を見せてくれるに違いない。一生モノの1曲だ。

でしょましょ

さて。当然シングル盤を評価するにおいて重要な表題曲と、その完成度と思い入れ故に随分長くなってしまった「海の幽霊」に言及した後だとどうしても余談めいてしまうが、もう1曲のカップリング「でしょましょ」にも触れておかねばなるまい。
まず、先に言及したように本来”通り一遍な言葉を避けたがる作詞家”米津玄師の性向が良い方向に出た歌詞が出色だ。”異常な世界で”と歌われるように悪夢や彼岸と此岸の間なのか、主人公の自死が仄めかされるフレーズからすると厭世的な人物のフィルターを通した現実世界なのか。そこを明かしきらない世界観構築にまず惹かれるし、それがこれまでも米津が時折披露してきた歌詞カードにも表記してしまう決め打ち的スキャットとの相性も良い。
その”るるらったったったった”と表記されるスキャットにも代表されるように詞作だけでなくメロディに当てはめる譜割りとそれを歌いこなす節回しもまたクールだ。全体のレイジーな雰囲気も酩酊/ストーンした「Flamingo」的だが、「Flamingo」もそうであったようにUSヒップホップを中心として発展したトラップ的な感覚の直輸入と、日本のロックが脈々と連ねてきた所謂ヨナ抜きペンタトニックを交えた本邦流R&B解釈とのバランスが良く、「馬と鹿」のメロディのようにドメスティックに偏りすぎていない。「Flamingo」よりギターの主張が強く音数少ない中でトラップとの距離感を保った佇まいは少しSt. Vincentも思わせる。
弾き語りで成立する楽曲でありながらもDAWネイティブ世代らしいヴォイスサンプルをランダムに配置したパートもまた米津の音響感覚の鋭さを端的に掴める部分で、見識深いリスナーにはこの曲こそが最も、米津が1曲2曲のまぐれ当たりでなくパーマネントに良質な作品を生み出せる知識とスキルを持ったクリエイターという事を示す最良のサンプルに成り得るかもしれない。「海の幽霊」を聴いてその後にこの「でしょましょ」を聴くと、やっぱり米津は凄いなあと、表題曲を聴いた後に感じたアルバムへの不安はどこへやら吹っ飛んでしまうのだが、はてさてどうなるのか……

注1:ハイレゾとはハイレゾリューションオーディオ=Hi-Resolution Audio=高解像度オーディオの略語で…というのはもう説明する必要も無く広まっているが、個人的にはあまり使いたくない。というのも、一応Hi-Resolution Audioおよびその略Hi-Resも英語圏でもある程度使われてはいるものの、そのスペックは規格化されておらず、呼び名もStudio Qualityだとか単に24bit (ないし32bit float) Audioだとかバラツキがある。ハイレゾという統一された呼び名及びそれが指すオーディオファイル(File)のスペック基準は国内限定のものに過ぎない。またデジタルオーディオに関して周波数帯域よりもビット深度が重要にも関わらず、数字が大きい方が良く見えるからか96kHzだなんだと周波数帯域の方を前に出す国内のハイレゾ取扱店のやり方も気に入らないし、何より”ハイレゾ対応マーク”なるものをやたらと付けてはイヤホンやヘッドホンを売ってハイレゾ普及に熱心かのように見せておきながら、自身が運営するmoraでは海外ストアで24bit以上の音源が売られている作品も圧縮音源しか取り扱っていない事が多いSONYのやり方は特に気に入らない。大体ハイレゾ対応も何も、普通のスマホやPCのステレオミニジャックにそのまま挿しただけでは大した音質向上は見込めない。そんなマークの無いものをきちんとしたDACやオーディオインターフェースを通して聴いた方がよっぽど良い。

注2:プリズマイザーという呼称が一般名詞めいてくるにあたっての問題は、前述したヴォコーダーやオートチューンも類似した他社の別名商品を包括してしまったのは同じでも、それらはプロはもちろんアマチュアもその気になれば誰でもその名ずばりの正規商品(ヴォコーダーはEMS社のVocoder、オートチューンはAntares社のAuto-Tune)を購入し使えたのに対し、プリズマイザーの名を冠する機材は現状エンジニア間の手売りに留まっており、アマチュアや小規模インディペンデントはもちろん、日本のメジャー売れっ子もおそらくほとんどその名を冠す”本物の”プリズマイザーは持っていない事だ。これも推測になるが本作における米津も含め最も多く使われている類似した効果を持つエフェクターはiZotope社のソフトウェアVocalSynthだと思われる。故に今後その傾向を持つサウンドを指して使われる言葉が変わってくる可能性は十分にある。

注3:エフェクトを通していない、と書いたが、現代的なポップスにおける”歌ったそのままを収録したかのように”聴こえるヴォーカルのその90%以上はイコライザーやコンプレッサーといった最低限のエフェクターは通過している。本作においてもほぼ…いやそんな保留もいらないだろう、確実にそれらは使用されているが、プリズマイザー(系)を通したトラックのように極端に加工されたものとわかりやすく区別するため便宜上この表現を用いた。

結構ギリギリでやってます。もしもっとこいつの文章が読みたいぞ、と思って頂けるなら是非ともサポートを…!評文/選曲・選盤等のお仕事依頼もお待ちしてます!