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宇多田ヒカル『BADモード』全曲レビュー

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1. BADモード

作曲は前作『初恋』にも全面的に参加したベーシストJodi Millinerとの共作、プロダクションはFloating Pointsとして知られるエレクトロニック・プロデューサーSam Shepherdとの共同。
コード展開や前半のアレンジはこれまでの宇多田からは、また共同プロダクションのシェパードの作品からも、あまり想像のつかないSteely Dan風。「BADモード」というタイトルに反して軽快。この曲のみならずアルバムを通じて随所にベーシストとして顔を出すミリナーのヴォキャブラリーが大きく影響していると思われる。
2つめのVerseが終わった所でフローティング・ポインツらしいシンセによる美しいサウンドスケープを挟んで質感が変わり、歌謡曲的に言う所の大サビに入る。ラストの"Hope I Don't Fuck It Up"(この鼻歌のような軽いメロディが良い)というフレーズはFワードを用いるとExplicit表記を付けなければいけない北米流通向けに作っていたら違う言葉を用いていたかもしれない。アルバム全体でFワードが登場するのはここだけ。

2. 君に夢中

作曲は単独、プロダクションはアーティストとして、レーベルPC Musicの運営者として、新ジャンルHyperpopを牽引してきたA.G. Cookとの共同。
冒頭を始め何度か顔を出す深いリバーブがかかったピアノのフレーズはFree SoulクラシックのReal Thing「Rainin' Through My Sunshine」イントロのシンセを思わせるが、意識しているのだろうか。
歌詞のライミングがキュートな歌いたくなる良く出来たポップソングだが、ある種偽悪的に過激かつフューチャリスティックなHyperpop及びA.G. Cookのパブリック・イメージからすると大人しくジェントルでさえあるアレンジ。それでも終盤のシンセ等らしさが無い訳では無いが、クックのシグネイチャー・サウンドとも言えるようなアクの強さを抜いてしまっている印象はある。なぜこのようなサウンドの中でA.G. Cookを起用する必要性があったのか。同じ制作体制である次曲も合わせて考えてみよう。

3. One Last Kiss

引き続き作曲単独、プロダクションA.G. Cookと共同。
実際の制作順序は定かでは無いが、アルバムの収録順に反しリリース順はこちらのほうが先。映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の主題歌として2021年3月9日にリリースされた本楽曲が宇多田とA.G. Cookが共同作業を行った最初のリリースである(「君に夢中」は同年11月)。こちらも「君に夢中」に続き”いかにもな”Hyperpopでは無い。
ここからは完全に想像になるのだが、クックの起用を考えた当初は、クックがプロデュースしてポップスターの地位を築いたCharlie XCXのような、よりHyperpopのパブリックイメージに近いサウンドを志向していたのではないだろうか?それが映画主題歌という性質上、映画製作サイドとのやり取りを経てHyperpop的過激さが薄められていった。しかし意外にもHyperpopの典型から離れてなおA.G. Cookならではのサウンドは輝いていた。その経験を経て先の「君に夢中」での再起用があった…という経緯ではなかろうか。繰り返すがこれは筆者の想像に過ぎない。しかし、ミリナーによるシンセベースのドライヴ感など、なんとなく元々は上のサウンドもよりぶ厚かったのではと想像させる要素がチラホラ残っているようにも…
ネットミームにもなった”初めてのルーブルは なんてことはなかったわ”のラインを筆頭に歌詞がキャッチー。
初出のEPでは次曲の「Beautiful World (Da Capo Version)」と繋げられていたが、本作中では次曲とは繋げられず独立している。

4. PINK BLOOD

本作唯一の作曲・プロダクション共に宇多田単独の楽曲。
スネアやリムショット系の音を複数用いて細かく切り替えるドラムの打ち込みは前作『初恋』においてChris Daveが生で一人で(パーカッションのオーバーダブも含め)行っていたアプローチをエレクトロニックに転化したものとも考えられるし、一風変わったヴォーカルの譜割りもまた『初恋』におけるリズム的実験を引き継いでいる。このようなアプローチのプロダクションを単独でこの完成度まで仕上げられるにも関わらず、これ以外の楽曲では共同プロデューサーを招聘している事は本作のキーだ。本作が名のあるアーティストを招聘して共同プロダクションを行うという一種のコラボレーション集とも言える手法を取っているのは、何も単独のプロダクションでは『初恋』の先に行けなかったからでは無いというのがこの曲で示されている。

5. Time

作曲は単独、プロダクションは2016年作『Fantome』に招聘して以来互いの作品に参加し合う盟友といえるSSW小袋成彬との共同。
冒頭のシンセからして明白だが、90年代R&Bの色が濃く…つまりは自身の最初期へ立ち返った側面もある楽曲。実際コード進行においては初期2枚に入っていたとして最も違和感の少ない楽曲だろう。しかし、メロディ運びを含めたヴォーカリゼーションは前曲に引き続き『初恋』からの実験的なアプローチが反映されている。それは冒頭のハミングにオートチューンがかかっている事に象徴される”現代的なアップデート”と表現されるべきものに留まらず、リズムコントロールにおける比類なき独自性を備えていて、それ故にソングライターとヴォーカリストとしての初期からの成長/進化が最もわかりやすく見える曲とも言えるかもしれない。

6. 気分じゃないの (Not In The Mood)

作曲は単独、プロダクションは再びSam Shepherdとの共同。
フローティング・ポインツのシグネイチャー・サウンドとも言えるシンセのサウンドに導かれて、重く煤けたドラムループが入ってくる。Massive AttackやPortisheadに代表される90年代のトリップ・ホップ・サウンドを思わせる展開で、宇多田のディスコグラフィでも1,2を争う重苦しい楽曲。
メロディ運びは本作中最も素直で、歌としては歌詞のストーリーテリングに集中してほしいという意図も垣間見える。その点にフォーカスすると、楽曲中の”Rain/ 雨”がどこかCreedence Clearwater Revivalがかの名曲「Have You Ever Seen The Rain」(雨を見たかい)で描いたとされるそれと同じような比喩では無いかと思えてしまうのは、リリース後のロシアによるウクライナ侵攻が起こった後の今だからだろうか、いや、曲中の主人公に”私のポエム買ってくれませんか?”と語りかけた人物は”シェルターに泊まるためのお金が必要”だというわけで…

7. 誰にも言わない

作曲は単独、プロダクションは小袋成彬との共同。
前曲でシンセの高まりと重いドラムの絡みが緊張感を高めてクライマックスに達したところでブツッと切れて本楽曲に繋がる。丸いシンセの音色が一瞬の弛緩をもたらしたと思うとすぐに前曲とは別種の緊張感が高まる。
完璧な1曲だ。宇多田のディスコグラフィのみならず、ポピュラーミュージック全体としてのひとつの到達点とすら言いたくなる。見事にコントロールされたアンビエンス、抑制の効いたメロディ、ジェントルに歌と絡むSoweto Kinchのサックス、バレアリックなムードを漂わすパーカス。トラックタイム3分を前にして一息ついた後。一瞬トロピカルハウスに転じるのかと思わすBen Parkerのギターの入りのフレーズが凄まじく効いている。そして"I just want your body"という歌詞に呼応するように、ダンスミュージックに近づく事はセックスに近づく事だと示すように、エレクトロニックなキックがディケイを伸ばして存在感を強め、しかし安易なクライマックスめいた高まりは見せずにフワリと終幕へ着地する。完璧な1曲だ。

8. Find Love

作曲は単独、プロダクションは小袋成彬との共同。今作の裏パートナーと言えるジョディ・ミリナーも含め楽器演奏者のクレジットが無く完全に2人だけで仕上げている。
基本線は00年代エレクトロニカ的なビットの荒れた音の使い方も印象的に用いられる硬質な4つ打ちハウス系トラックで、後半は生っぽいハイハットでまるでロックバンドが解釈したトラップのようになるという展開も面白い、佳曲という言葉でも足りない十分な魅力を備えたトラックではある。が、先行シングルを聴いている段階で思っていた「『誰にも言わない』に比肩しうるトラックをそんなにも並べられるのだろうか、『誰にも言わない』のあまりの完成度に他の曲が霞んでしまうのではないだろうか」という懸念はこの流れにおいて当たってしまった感もある。前曲のある種の崇高な空気感は振り払われ、まるで別の作品が始まってしまったようだ。逆に言うと、「誰にも言わない」までの流れはそこをピークとするために完璧な曲順だったとも言える。

9. Face My Fears [Japanese Version]

作曲・プロダクション共に、宇多田、ブロステップの旗手としてここ日本でも知名度の高いSkrillex、及びそのスクリレックスやJustin Bieberのコラボレーターとして知られソロアーティストとしても活動するJason "Poo Bear" Boydの3人の連名。
ストリーミングでリリースされた直後から「浮いている」という声がネットから聞かれた問題作(?)。確かに、名前だけでもFloating Points、A.G. Cook、小袋成彬というインディ・ミュージック愛好家の食指が伸びるような他のコラボレーターと比べ、スクリレックスとプー・ベアーではいささかメインストリームに寄り過ぎな感は否めない。だが個人的には、先述したように「Find Love」で一度それまでの空気が振り払われてしまったと感じた後だったので、この曲も半分ボーナストラックムードで聴いた故それほど違和感は抱かなかった。というか、打ち込み以外の楽器隊は『初恋』参加勢であり、そこからスクリレックスならではの打ち込み/DAW編集でしかなし得ない音になだれ込んで行く構造というのは、『初恋』での収穫を踏まえてエレクトロニックなアプローチに転換するという本作全体のコンセプトの祖となった可能性もあるのではないだろうか。事実、本作収録曲で最初にリリースされたのがこの楽曲である。

10. Somewhere Near Marseilles -マルセイユ辺り-

作曲単独、プロダクションはSam Shpheredとの連名。
フローティング・ポインツが2014年辺りに出していたフロア向けダンストラックを思わせるハウスに宇多田がゲスト参加しているような趣で、作曲が単独だからメインの進行やリフも宇多田の手によるものなのかもしれないが、感覚的には殆どフローティング・ポインツの楽曲として聴ける。しかし思わず歌いたくなるフックのある歌詞は見事で、宇多田の存在感が薄いわけでは決して無い。ただそのヴォーカルが加工されたリフレインのみになっていく後半はシビアに見ればやや冗長で、このサイズになったのはシェパードの意向よりも宇多田の意向のほうが強かったとの事だが、「J-POPのオリジナル・アルバムに10分超のダンストラックを入れてやる」という気概がから回った形とも取れなくもない。仮にこの曲に関してのみはそれが裏目に出ていたとしても、この挑戦的なアルバム全体を作り上げたのはその気概あっての事だろう、そこを今更減点対象にするのも無粋というもの。

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