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映画『犬王』の自閉性と『平家物語』からの断絶

2022年5月に公開された劇場アニメ『犬王』。古川日出男による『平家物語 犬王の巻』を原作とし、湯浅政明が監督、野木亜紀子が脚本を務めた。現在はprime videoでの無料視聴も可能な本作について、関連するTVアニメ『平家物語』との比較を中心に評論する。

あらすじ

室町時代、壇ノ浦。漁村で生まれた少年、友魚(ともな)は父と共に海に潜っては、かつて平家が捨て置いた財宝を海底から引き揚げて生計を立てていた。そんな父子のもとを、ある日侍たちが訪ねる。彼らは足利家からの使いで、分断する南北朝を統一するため正統な天皇の証である三種の神器を探していると言う。依頼を受けて友魚と父は海底から草薙剣の入った木箱を回収。父が剣を取り出すと、剣の秘めた力によって父は即死、その様子を見ていた友魚は視力を失った。
父は亡霊として友魚に憑き、復讐するよう言い続ける。友魚がその声に従い京に向かっていると道中、平家物語を歌う琵琶法師に出会う。友魚は琵琶法師に従いその一門、覚一座に入門。琵琶法師として歩み始める。

友魚(友一)

一方、京。猿楽の一座、比叡座には異形の子が生まれていた。ヒトとは似ても似つかぬ姿をしたその子は自らを「犬王」と名乗り、見様見真似で一座の舞を学び、奇特な体躯を活かして我流の踊りをする野生児であった。
ある火事の晩、友魚が友一の名を授かった日に、ふたりは出会う。京に来てから聞いた様々な音から着想を得たという、友魚の独特な琵琶を気に入った犬王はそれに合わせて踊り、両者は意気投合した。

別の日、ふたりは犬王の特殊な身体について分析する。友魚が亡霊である父に尋ねると、犬王には平家や縁の侍の霊が大量に憑いている、ということが明らかになる。平家の霊たちは、自分たちには「埋もれた物語」があると言い、犬王がそれを聞き届け、他者に広めるたびに成仏して犬王の体をヒトに近づけていくらしい。

犬王と、周囲を舞う平家の霊

以後、犬王は霊から聞いた物語を大がかりな装置や奇特な踊りによって伝え、友魚(友一)は犬王の活動を物語として歌い広める広告活動をするようになる。いずれも新鮮な節の歌と舞、観客に手拍子を求めるなどの演出によって、瞬く間に人気を博していく。友魚(友一)は新たに友有と名乗り、犬王の物語を広めるための友有座を開いた。

人気は庶民にとどまらず、ふたりはある日足利家の舞台に招かれる。この頃には犬王の体は殆どヒトになっており、あとは顔を残すのみであった。たっての希望で、普段している仮面を演目中に外すよう言われた犬王にとって、演目中に平家の霊をすべて成仏させ、ヒトの顔を得ることは急務であった。

犬王と友有は演奏中に自分たちの過去を覗き、犬王に掛けられた呪いについて真実を知る。比叡座の棟梁であった犬王の父は、究極の美を求めて呪いの仮面をつけ、その指示により琵琶法師を複数人殺害。棟梁は彼らの歌の中にいた平家の霊を手に入れるが、それを独占しようとしたことから彼は美を手に入れることができなかった(後述)。さらなる美を求める彼に、仮面は生まれる前の子供を差し出すよう要求。棟梁がこれを認めたことで、子供は異形へと変貌し、平家の霊たちが子に憑いた。

平家の霊たちの思いだけでなく、それを歌い継いできた琵琶法師を幻視したことで犬王と平家の霊たちとの繋がりは強まり、霊は成仏。犬王はヒトの姿を取り戻した。

犬王と友有の舞台は無事終幕。しかし朝廷統一に向けて「平家物語」の一本化を図った足利家によってふたりの歌や舞台は禁止された。これに最後まで抗った友有は処刑され、従った犬王は将軍の元で舞を続けるのであった。

舞台は現代に進み、アスファルトの路上で琵琶を奏でる地縛霊が、異形の霊と出会う。600年ぶりに出会った友有と犬王は、初めて出会った日のように踊り出すのであった。

アニメ『平家物語』のテーマと本作との関わり

原作である『平家物語 犬王の巻』の作者である古川日出男は、『平家物語』の現代語訳も発表しており、アニメーション会社サイエンスSARUはテレビ放映で『平家物語』を、劇場上映で『平家物語 犬王の巻』を手掛けている。こうした背景から、『平家物語』『犬王』は姉妹作的に捉えられることが多い。

制作側も両作の関係性をある程度深い物としているようで、「ひろしまアニメーションシーズン2022」で『平家物語』の上映が決まった際には、公式HPが『犬王』の上映が決まったことを同時に告知した。

時期に関しても『平家物語』が3月に最終回を迎えた2カ月後に『犬王』が公開、という順であるため、両作を続けて視聴した人も多かったのではないだろうか。
ほかならぬ筆者も先月『平家物語』を視聴、いたく感動した勢いそのままに本作を鑑賞したので、否応なく『平家物語』で受け取ったメッセージを意識しながら本作にも向き合うほかなかった。

そのメッセージとは2点、男性中心社会による女性からの搾取と、「祈り」としての物語の存在意義である。
詳細は別稿「アニメ『平家物語』の描いた男性社会と祈り」を参照いただきたいが、同作は武家・公家の女性たちが家=権力に縛られる姿と、白拍子などの庶民の女性が家=権力から切り捨てられる姿を印象的に描いた作品であった。その一方で、男女問わずすべての登場人物を人間らしく肯定的に描いてもおり、主人公「びわ」が彼らの全てを受け入れ、忘れまいと歌を紡ぐ姿は、「物語とは出会った人々を忘れないための『祈り』である」というメッセージを私たちに伝える。

このことを踏まえて、以下3点から『犬王』を分析する。
・ジェンダーについてどんな表象がなされているか
・社会や権力をどう描いているか
・物語の意義をどのように示しているか

『犬王』のジェンダー表象

男装のびわや、権力により抑圧される女性を通して男性中心社会を批判した『平家物語』に対して、『犬王』は驚くほど女性を透明化している。

主人公のひとり、友魚は男性であるし、霊として彼に語り掛けるのも父親のみである。母親は冒頭で「なぜ夫が死に子が盲目にならねばならないのだ」と嗚咽するほか出番も無く、中盤で父の霊によって「成仏した」とだけ語られるほど存在感が薄い。彼の入った琵琶法師の一門には男性しかいないし、友有として独立したのちも、その一座として登場するのは男性奏者ばかりである。
もうひとりの主人公、犬王は異形の子であるが、少しずつ人間の姿を得ていくに連れその男性性が明らかになっていく。父親である比叡座棟梁は物語のキーパーソンであるが、母親は犬王を生んですぐに落命しており、セリフも苦しそうなうめき声だけである。

では、そのように男性キャラクターしか登場しないということが、当時の社会における女性の抑圧を表現しているのかというと、そうでもない。『犬王』は明確に、当時の女性は苦しんでなんかいませんでしたよ、というポーズを取っている。

最もセリフの多かった女性キャラクター、業子である。というか、名前のあるキャラクターは彼女くらいではないか。足利義満の正室にして、犬王の舞をいたく気に入った、犬王と友魚による舞台の発起人ともいえる存在。
その一方で、彼女が男性によって使われている感は否めない。彼女はメタ的に見れば犬王と友魚の二人を活躍させるための装置でしかないし、しかもその舞台の時点で彼女は妊娠中の身だ。『平家物語』において、主に徳子を中心として、「家」を存続・接続させる手段としての女性の贈答と子の出産が描かれたが、『犬王』の業子は身重の体でありながら、そうした葛藤・苦しみを描かれることなく、無邪気に、子供のように犬王に声援を贈っている。
抑圧され、苦しむ姿は一切描かれず、無垢で無知な存在として描かれる業子。平徳子とは対照的で、男性にとって都合の良い描かれ方である。

男性の描き方も両作で大きく異なる。
『平家物語』には権力に飢えた闘争的な男性である平清盛や、それに対抗する後白河法皇など、上昇志向のあるマッチョな男性が登場する一方で、その二人の間で板挟みにあい、死者の声に怯えるナイーブな男性として平重盛(清盛の長男)、笛をたしなみ争いを嫌い、最終的には重圧に耐えかね入水自殺をする平清経(重盛の三男)が描かれるなど、ホモソーシャルの中にある多様性と、その多様性に向かう加害が表現されていた。
『犬王』の主要な登場人物としては主人公二人とその父親、足利義満が挙げられる(公式HPにもこの5名がリストアップされている)が、いずれも強い上昇志向や闘争心を共有している。天下を統一しようという義満は言わずもがな、究極の美を求める比叡座棟梁、仇討ちを訴える友魚の父、スターダムを駆け上がろうとした友魚と犬王。強さを求める「男らしい」面だけがフィーチャーされ、まさに「同一的な」作品世界が展開されたと言える。

余談にはなるが、友魚と犬王はともに、演奏・舞踊の際に女性的な衣装をまとう点で共通する。筆者は最初、盲目の漁村出身者である友魚と、異形=比喩的な障害者である犬王にクィアな容貌をあてがう背景には、被抑圧者としての庶民、障害者、女性、性的マイノリティの連帯を示しているのだろうか、という読みを試みた。しかし、そうした「抑圧」をそもそも描いていない物語である本作で、そのような読みをするのは不自然だと思われる。

『犬王』の社会・権力表象

さて、『平家物語』は支配階級である武家、平家だけでなく、それに支配される白拍子や、平家や木曽義仲に搾取される京の庶民を取り上げることで、平安社会の階層性を描き出していた。

一方の『犬王』世界において、権力や社会はやはり透明化され、階層から来る問題はスピリチュアルと個人主義に矮小化されている。二人の主人公について見てみよう。

友魚が失明するに至った経緯としては、足利家の侍が彼らに草薙剣を拾わせた、というエピソードが描かれる。神器を見てはならない、という当時の「教養」にあたる事柄を知っていた侍たちは失明を免れ、知らなかった漁村の庶民、友魚と父は視力と命を失うという、階級差を描くシーンであるかのように見えるが、この構造に対する批判は作中で一切行われない。
父の亡霊は序盤、「仇を討て」と友魚に語り続ける。琵琶法師になるまでの友魚はそれに従っていると考えられるが、その身の上をのちの師匠、谷一に語る際「平家の隠れ谷の話を探しに壇ノ浦から来た」と話していることから、父子が復讐しようとしていたのは足利家でなく平家の生き残りだったと窺える。公式HP掲載のあらすじにも、友魚の失明は「平家の呪い」によると書かれており、冒頭のシーン及び友魚の失明は室町時代当時の武家による庶民への搾取というよりも、社会を超えた霊的な現象として描かれている。

彼は結局復讐に向かわない。犬王の物語を広めようという思いが彼の全てで、それゆえ最終盤、それを語らないよう幕府に命じられた際は命をかけて抵抗した。幕府による処刑の直前になって友魚は「父の命を奪い母を絶望させた足利に天誅を」と叫んだが、足利家のために犬王と演奏する際には特に後ろ向きなことを言う様子も無かったので、彼の復讐心はその程度(直接命やライフワークを脅かされてようやく思い出す程度)だと思われる。
結局のところ、友魚は自分を苦しめた原因を社会に見出さずスピリチュアルに求め、やりがいのある仕事を見つければそのことを忘れ、社会により直接追い詰められて初めてその不満を口にする、社会的な主体性の無いキャラクターとして造形されていた。

犬王の先天的な障害=異形についても指摘したい。彼の初登場シーンは食事の一幕だが、目に留まったトンボに舌を伸ばし食べ、兄から投げられた果実を拾って食べ、そして犬と並んでヒトの残飯を食べるというものだった。ヒトとしての扱いを受けていない犬王の食事描写からは、やはり非差別者、被抑圧者としての苦しみを感じるものだが、彼はそれを苦にすることも無く、自己流の舞を身に着け、最終的にはヒトの姿を得る。その果てに幕府お抱えの能楽者にもなった彼は、さながらアメリカン・ドリームを叶えたかのようだ。
犬王の物語は、障害を才能と努力によって乗り越え、健常者、しかも強者へと成り上がる物語である。

以上から分かるように、『犬王』は主人公二人を社会的弱者としながら、社会やそれへの抵抗を描くことなく、彼ら自身のやりがいや自己改革の物語として完結させた、閉じた物語である。

『犬王』における物語の意義

『平家物語』の主題のひとつは、物語とは何か、という問いであった。人を忘れまいとする祈りが物語であり、そこに善悪は無いというのがびわの答えであり、また制作側もキャラクターに善悪を与えず肯定的に描くよう工夫したという。

本作における「物語」の意義は何であったか。鍵となるのは赤い蝶のような姿で描かれる、「平家の霊たち」である。

作中での彼らの描写を時系列順に並べると、以下のようになる。
①主流でない「平家物語」を歌っていた琵琶法師が、呪いの仮面に従った犬王の父=比叡座棟梁により殺害された際に遺体から飛び散った。
②呪いの仮面が棟梁を唆し胎児だった犬王を差し出させると、その身に宿り犬王を異形に変えた。
③犬王出生後は彼に憑き、自分たちの物語を伝えるよう彼に求め続けた。
④犬王が物語をある程度完成させるごとに成仏して、それに伴い犬王の呪いが軽減された。
⑤①〜④の経緯を犬王と友魚が知った上で行った最後の演奏の際、全てが姿を消して犬王を完全なヒトに戻した。

犬王の父が呪いの面をつけ、琵琶法師を斬ったのは「究極の美」を求めてであった。斬る度噴出した平家の霊たちは、のちに犬王を「究極の美」たらしめたことから考えられるように、その声を集め、伝える者には本当に美を与えたのだろう。しかし犬王の父は「全て私のものだ!」という高らかな宣言から分かるように、彼らの物語を舞として外に表現しようとはしなかったため、その力を得られなかったものと考えられる。(彼が完全な悪人として描かれている点も、善悪を超越した祈りを扱った『平家物語』との違いだ)
対照的に犬王は、彼らの叫びをそのまま歌と踊りにして伝えたので、霊たちも快く協力したのだろう。

さて、そんな犬王が劇中披露したのは以下の3曲だ。
・腕塚(平忠度の戦死を描く一幕)
・鯨(壇ノ浦の戦い、海戦を決したイルカの群れに関する一幕)
・竜中将(ある平家中将の見る夢の一幕、平家一門が犬王の歌により弔われたことで成仏し、死の直前夢見た竜宮城にたどり着いた、という歌)

注目すべきは事実を語る他二幕と異なり、夢の世界を描いた「竜中将」だ。
平家滅亡の一幕、幼き安徳天皇と心中する平時子の「波の下にも都がございます 竜宮城へ参りましょう」という言葉から、平家一門の魂が向かう安息の地として、竜宮城はイメージされる。「竜中将」は、そんな竜宮城に平家の霊たちがたどり着いたのだ、という歌で、「平家の霊を成仏させる手段」であった二幕と異なり「平家の霊が成仏したという結果」を示す一幕だ。

犬王が「竜中将」を完成させたのは、自らの過去を幻視し、自分に憑く平家の霊たちがそれまで琵琶法師の物語の中にいたことを知った後だ。筆者は、霊が伝えて欲しがっていた「平家の物語」とは、現世において彼らが生きた物語だけでなく、その死後、竜宮城=極楽浄土に辿り着けず彷徨っていた際に抱いた、戸惑いや悲しさをも含むものだったのだ、と解釈することでこの流れを納得している。
「竜中将」の歌詞が「生きているのなら死んでいるのか 亡霊のように立ち尽くすばかり」から始まり、「(竜宮城に)辿り着ける者と歌をやっとやっと見つけられた」と結ばれるのがいい根拠だろう。

要するに、平家の霊たちは語り継がれたかったのではなく、成仏=消滅したかったのだ。そして物語とは語り継ぐ=記憶する手段ではなく、弔う=一度思い出し、それを最後に忘れさせる手段なのである。

そのように考えると、犬王と友魚の演奏方法と末路の差に説明がつくようになる。
犬王の舞台は、彼の肉体が逐一変化することもあり一度きりのものだ。曲も演出も異なるし、物語も違う。それに対して友魚の歌唱シーンでは常に反復的な同じトラックが流れ、テーマも犬王の宣伝のまま、それを繰り返す。物語を一回披露すれば霊を満足させることができる犬王と、すべての人が犬王の物語を知るまでそれを披露し続ける友魚。
最終的に、平家の物語を語り尽くし、彼らを成仏させた犬王はその後足利義満の下で芸を続け、犬王の物語を広め、歴史に残そうとした友魚は首を刎ねられ死んだ。

物語の最冒頭は友魚の地縛霊による語りであり、エンドロールの直前もここに帰るが、このことからは友魚が死後なお犬王のことを歌い継ごうとしていることが分かる。しかしその友魚の思いは、彼を迎えにきた犬王の霊によって否定される。犬王の霊が彼に語りかけると、二人は初めて出会った日の幼少の姿に戻り(=二人で作った歴史を失い)、異空間を舞い上がっていく。成仏の一幕であり、忘れることが弔いであり、物語の意義である、というテーマが念押しされている。

『平家物語』における物語の存在意義が「忘れずに語り継ぐこと」であったのに対し、『犬王』におけるそれは「忘れること」であり、ある種自己破壊的である。

結びに代えて

社会批判的な物語であり、物語の存在意義を肯定的に捉えていた『平家物語』に対し、『犬王』は自閉的で、物語を一回性の弔いとして捉えていた。それゆえ『犬王』という物語それ自体も、現代の私たちと接続されることが無く、極めて独りよがりな「表現のための表現」に終始してしまった。
独特なタッチや作風から海外人気も高い本作ゆえに、今ひとつ物足りなさを感じるのは私だけだろうか。

※画像は『犬王』公式ホームページから引用

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